第一節 大阪築港工事
「天下の台所」の繁栄奪回に港の大修築
江戸時代に大阪が「天下の台所」とよばれたのは、諸国の物産が船で運ばれてきたためで、広瀬旭荘も「天下の貨七分は浪華にあり。浪華の貨七分は舟中にあり」といっている。しかしこれは内国貿易の和船時代のことで、当時のように安治川、木津川の河口を、そのまま港とすることでは、開港以後の大型外国船を収容することはできなかった。そのころでさえ、しばしば川ざらえをしなければならないほど、上流から流れる土砂で、絶えず川底が埋められていたからである。
明治二年(一八六九)に入港した外国船は八九隻あったが、翌三年には二一隻に、さらに四年には一一隻に減じた。大阪港を不適当として、行先きを神戸に変更したからであるが、同七年に大阪、神戸間の鉄道が開通すると、川口居留地の外人も大部分神戸にうつり、翌八年には一隻の外国船をも見ることができなかった。
市の繁栄を奪回するために、大阪港の修築は絶対に必要とされ、たびたびその計画が立てられたが、巨額な費用を要するので、そのつど見送られた。これが正式に決定したのは明治二十九年(一八九六)、内海忠勝知事(市長兼任)のときである。明治三十一年(一八九八)にはじまる八カ年計画で、総工費は二一六七万円、うち四六八万円が国庫で補助された。当時、大阪市の年間予算は一〇〇万円に達しなかった。
この大工事に当たるため、大阪府知事、農商務次官の経歴をもつ北海道炭坑鉄道会社社長西村捨三が築港事務所長として迎えられ、工事長に工学博士沖野忠雄、工務部長に同じく岡胤信が就任した。設計はオランダ人技師ヨハネス・デ・レイケで、安治川、木津川の河口から、沖合に向かって二本の防波堤を築き、これにかこまれる水面五一八万一〇〇〇平方メートルを、水深八・五メートルとする。また、その浚渫土砂で四九一万七〇〇〇平方メートルの埋立地を造成し、ここに突堤、桟橋、荷役設備などを構築するというものであった。
激しい競争―進んで大工事と取組む
明治三十年(一八九七)十月十七日、小松宮彰仁親王が臨席して起工式をあげ、工事は翌三十一年に着手したが、すでに業界に頭角をあらわしていた由五郎は、進んでその入札に参加した。まず手はじめに受託したのは、天保山旧砲台敷地の築港事務所建築で、同年八月完成した。その工事中の六月十五日、木津川尻の海面二万五〇〇〇坪(八万二五〇〇平方メートル)を埋立て、ブロックヤード(防波堤に使用するコンクリート・ブロックの製造用地)を築造する工事を、一一万六〇〇〇円で落札した。
埋立地点は周囲に「シガラ」を組み、これを土留めとして、大和川尻から小船で運んだ荒目砂を投げ入れた。荒天のときはこれが流出するのを防がねばならず、たいへんな難工事であったが、契約どおり同年末に竣工した。この年五月に入店して工事にたずさわった(注一)白杉嘉明三は、当時の状況を次のようにのべている。
それ(注・ブロックヤード)ができると、コンクリートのブロックを製作する装置ができて、盛んにこれを製作したものです。それができて、沖にブロックをおくまでの沈床工事として、一個一五貫(五六キロ)以上の石材を海のなかに投入するわけでありますが、元来築港の本工事というものは、部分的には請負もあったが工事は大体直営です。捨石は物品調達で、関西石材会社、日本土木会社、杉井組、大林組などずいぶん激甚な競争がおこったが、価格が安すぎると納入不良となるので、中途から築港事務所は単価を一定し、調達量の多寡により懸賞制度を設けた結果、非常に好成績でした。
毎朝未明、入港石船の積載量の検査を終わり、数十百艘の石船はボートに曳かれ、指定の場所に投入しました。なにぶん泥深い海底で、なかなか沈床の石材が水面にあらわれず、数年がかりでようやく上部にブロックをおくことになったので、容易ならぬ大事業でありました。
その当時ブロックをつくる材料として、砂利と砂の調達をしました。各陸上に五〇立坪入りの枠をつくり、納入しました。砂は一立坪二円五〇銭ないし三円で坂田庄造氏が、砂利は五円五〇銭ないし六円で大林が納めました。…(中略)…
当初三年ほどの間は、約半カ年くらいの納期で公入札でしたが、前に申しましたとおり過度の競争がおこり、石船が散逸して調達不良の結果、中途から単価を一定して、納量の多寡に応じ懸賞つきとなりました。大阪築港は日露戦争後に予算の関係で、また仕事も大体一段落となったので、わたしのほうも引きあげました。
(大阪建設業協会編「大阪の土木建築界を回顧して」から)
この工事に関連して、日露戦争当時の挿話がある。明治三十七年(一九〇四)二月、広瀬中佐の美談で有名な旅順港の閉塞に当たり、港口に沈没させる閉塞船に石の積み込みを命じられたことである。第一回は五隻、第二回は四隻で、広瀬中佐はこの二回目の福井丸で戦死した。積み込み作業は築港内で極秘のうちに行なったが、情報が洩れるおそれがあって、場所を変更することとなった。そこで白杉は担当将校と同道して、瀬戸内海の各所を物色した結果、姫路沖の家島真浦港がえらばれた。従業員は船内に宿泊し、夜間も電灯を消して作業を行ない、第三回の閉塞船は一三隻の多数であったが、予定期間の十日を七日で終了した。この昼夜兼行の努力で、白杉は最後には眠りながら歩き甲板上に倒れたというが、店主由五郎も現場まできて、みずから指揮をとった。
築港工事のうち埠頭大桟橋は、明治三十六年(一九〇三)八月から開放して使用され、同三十八年七月には、南北両防波堤も竣工した。この間由五郎は、倉庫、桟橋などの建設や、木材、捨石、間知石、栗石、砂利などの材料調達、人夫の供給など総額二〇〇万円を越える仕事を受託している。築港工事はその後も数次にわたり継続されたが、大林組が最も大きく参与したのはこの時代であった。
この大工事と並行して、明治三十一年(一八九八)七月、住友銀行広島支店を、さらに翌三十二年には、日本銀行大阪支店本館基礎(一月)、日本繊糸麻工場(三月)、大阪市中大江尋常小学校(四月)、滋賀県尋常師範学校(六月)、京都蚕業講習所(七月)、住友本店倉庫(九月)、大阪府第二師範学校(のちに池田師範、現・教育大学池田分校、十月)の諸工事を請負った。また同三十三年には、大阪工業学校(のちに大阪高等工業、現・大阪大学工学部)冶金窯業工場(一月)、北酉島樋管新設(四月)、大阪府師範学校(のちに大阪府天王寺師範学校、現・大阪教育大学、七月)、大阪府第七尋常中学校(現・市岡高校、九月)、東京倉庫会社大阪支店倉庫(十一月)などがあるが、このうちの大阪府師範学校工事が、はからずも重大な危機を招いた。
それは工事の監督、用材の検査が、常識を越える厳格なもので、ヒノキ材のごときは、完全な節なしを要求されるなどのためであった。竣工後、御殿のような建物といわれ、かえって非難されたほどであるが、不合格とされた木材は山をなしたという。そのためこの工事によって莫大な損害をこうむったが、それは折りあしく大恐慌の最中であった。
金融恐慌―一時は工事の返上さえ決意
この恐慌は日清戦争の戦中戦後の好況に酔った反動であるが、大阪の場合は北清事変の影響もあり、特にはなはだしかった。明治三十二年(一八九九)清国山東省にはじまった義和団(拳匪)の反乱は、翌三十三年、天津、北京にまで拡大し、孤立した各国公使館を救出するために、日本も列国とともに出兵したが、この動乱によって清国貿易は途絶し、これに多く依存した大阪は大打撃を受けた。
明治三十四年(一九〇一)三月、まず堺の北村銀行が休業し、大阪府師範学校工事を終わった四月には、難波銀行と七十九銀行が閉鎖され、つづいて逸見銀行もたおれた。銀行預金の三分の一が取付けにあったといわれ、著名な貿易商社で倒産したものも多かった。大阪築港と同時に多数の工事を施工中だった由五郎も、この恐慌によって金融難におちいったが、その時期にこの損害を受けたのは決定的な打撃であった。
手形決済期日の二日前、万策つきた由五郎は築港工事返上を決意し、腹心の伊藤哲郎と白杉亀造に命じて申し出させた。これを聞いた西村事務所長は、大林組なくしては工事不可能と考え、沖野工事長はじめ岡胤信工務部長、平田専太郎経理部長、内山鷹二庶務部長らとはかり救済策を講じた。その結果、これらの諸氏の尽力によって大阪鉄工所(現・日立造船)の保証による金融の道が開け、危機を突破することができた。
由五郎が工事の返上を口にしたのは、このとき以外にないといわれる。それを救ったのは西村所長以下の好意であるが、そこに見られるのは両者の間に仕事を越えた心のむすびつきがあったことである。この相互信頼は、のちに(注二)内山、岡を大林の人として迎えるもととなった。
注一・白杉嘉明三は初名亀造(昭和十四年、嘉明三と改名)、宮津市の出身で明治三十一年五月入店した。ときに二十三歳。同四十二年、合資会社大林組設立に当たり、伊藤哲郎とともに無限責任の出資社員、業務執行社員となった。また株式会社となってからは常務取締役、専務取締役、相談役を経て、さらに取締役会長となり、現に相談役として在任している。
芳五郎、義雄、芳郎と大林家三代につかえ、これからの記述にもしばしば登場するように、その経歴は大林組の歴史そのものである。昭和四十六年現在、九十五歳の高齢に達しながら、毎日出勤して社務をみている。
注二・内山鷹二は明治三十六年(一九〇三)末、岡胤信は同四十二年(一九〇九)三月入店し、ともに理事(株式会社ならば取締役に当たる)となった。内山は明治四十五年(一九一二)没、岡はのちに株式会社大林組取締役、技師長となり、昭和十四年(一九三九)顧問在任中に没した。生駒山トンネル工事など功績は多いが、その項でのべる。