第二節 産業の重点は重化学工業へ
機能美へ―ビル建築の近代化
朝鮮戦争以後のわが国経済は、いくたびか景気変動の波に出合ったが、不況の波長は比較的みじかく、また谷も深くなかった。その間、各企業とも多額の設備投資を行ない、外国技術の導入、オートメーションの採用などが活発に行なわれた。政府もこれを強力に支援し、エネルギー源拡大のためのダム建設、計画造船、製鉄合理化等、産業の近代化に対して多くの優遇措置を講じた。産業の中心はこれまでの軽工業から重化学工業に移行し、電子工業や石油化学工業などの新産業が勃興した。繊維産業についてみても、合成繊維の飛躍的発展により、紡績の時代は去って、化学工業の分野に組みこまれた。
国民生活も戦後の窮乏から脱却し、ある程度の豊かさをとりもどした。都市勤労者は賃金の上昇により、農民は連年の豊作と農業技術の進歩によって、所得は向上し、購買力は増大した。これがやがて奇跡とよばれた経済成長に発展するのであるが、経済白書(昭和三十一年版)はこの時代を次のように分析している。
……なるほど貧乏な日本のことゆえ、世界の国情にくらべれば消費や投資の潜在需要はまだ高いかも知れないが、戦後の一時期にくらべれば、その欲望の熾烈さは明らかに減少した。もはや戦後ではない。われわれは今や、異なった事態に当面しようとしている。回復をつうじての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる……
この情勢を反映して建設投資もいちじるしく増大したが、そこには従来とちがった近代化の姿がみられた。オフィスビルは装飾美から機能美に重点をうつし、空気調整設備は不可欠のものとなって、設備工事の比重が増加した。また工場建築においても、大東紡織鈴鹿工場などにみられるように、シャーレ構造、無窓、温湿度調整をほどこしたものが出現した。
この技術革新時代に即応し、大林組が施工した建築は数多くあるが、その代表的なものを以下にあげる。
東京駅八重洲本屋・鉄道会館〈昭和二十八年三月~同二十九年十月〉
大正三年(一九一四)の中央停車場建設以来、東京駅の改増築工事はもっぱら大林組が担当したが、昭和二十七年(一九五二)秋、鉄道会館建設の大工事を命じられた。鉄道会館は、それまで仮設であった八重洲口乗降場に本屋を設け、同時にテナントとして大丸百貨店を収容する目的でつくられたものである。基本計画は一二階建であるが、このときは地下二階、地上六階の鉄骨鉄筋コンクリート造、延面積は三万六五〇四平方メートル、請負金額は一二億二八九六万円であった。
鉄道開通八十年記念日に当たる昭和二十七年十月十四日、地鎮祭を行ない、その式場で長崎国鉄総裁が二年後の同月同日完成と発表したため、竣工期日は固定された。しかも工事にとりかかってから、会館建設が国会で政治問題となり、三カ月間工事を中断したのであるが、それでも工期の延長はゆるされなかった。基礎工事を終わり、立柱式を挙行したのは翌二十八年十月十四日で、余日は満一年しかなかったが、その間に組立てねばならない鉄骨は八五〇〇トン、打上げるべきコンクリートは三万五〇〇〇立方メートルと計算された。これはほとんど不可能事として、業界の注目するところとなったが、大林組はあえてそれに挑戦した。機械力、人力のすべてが投入され、そのクライマックスに動員された人員は、国鉄側六五名、鉄道会館側四〇名、大林組関係では現場職員一三六名、作業員は設備工事を含め三〇〇〇名にのぼった。
技術面でも、大林組としてはもとより、業界においても画期的とみられた新たな試みが行なわれた。構造上でいえば、建物の自重を軽減するため、床版以外の骨組を鉄骨造とし、二階スラブ以上には火山礫、火山砂を骨材とする軽量コンクリート(比重一・三)を使用し、東西面の壁体はスチールサッシュにガラスあるいは耐火板と断熱板を組合わせてはめこみ、南北面には鉄骨の骨組みに薄い人造石をとりつけた。施工上では、石川島コーリング社製自動操作式バッチャープラントを普通コンクリート用に、また軽量コンクリート用には、ジョンソンのバッチャープラントを専用に設置した。基礎コンクリートの打設にコンクリートポンプ(石川島製一〇立方メートル)二基を使用したのも、このときが最初である。また、メタルフォームを大量に用い、鉄製パイプサポートを活用したこともはじめてであった。根切り工事にドラッグラインやブルドーザを三〇台投入し、土砂搬出に一〇〇台を越えるダンプトラックを動員したことも人々を驚かせた。このほか、コンクリートにポゾラン(フライアッシュ)を混入して用いたこと、運搬にスクリューコンベーヤを採用したことなども記録さるべきことであった。
コンクリートの打設は、基礎、二階、六階の三段を同時に行ない、工期の短縮をはかった。このときのコンクリート打設では、三六時間連続稼動し、一三〇〇立方メートル打設した記録を残している。鉄道会館は、こうした努力によって長崎総裁の言明どおり昭和二十九年の鉄道記念日に竣工を告げた。工事総主任は吉川信康、のちに越野辰男である。
なお第二期工事は昭和四十二年(一九六七)一月着工し、翌四十三年五月竣工、計画どおり一二階建となった。
三和銀行本店 〈昭和二十八年八月~同三十年十月〉
大林組初代社長芳五郎と北浜銀行の関係については第一編でのべたが、北浜銀行はその後三十四銀行に合併され、三十四銀行はさらに鴻池、山口両銀行と合併して三和銀行となった。この伝統でむすばれた三和銀行と大林組の関係は、単なる取引先、得意先を越えるものがあり、昭和二十四年、大林組が増資に際しはじめて株式を放出したときは最初の社外株主となった。同行関係の建築は、そのほとんどが大林組に特命されているが、同二十八年(一九五三)、御堂筋に面する東区伏見町の本店新築に当たっても、その施工を命じられた。
構造は鉄骨鉄筋コンクリート造、地下二階、地上八階、塔屋三階で、総面積は二万五六七七平方メートル、この建物は戦後の大阪で規模の上で最大、内容においても最高といわれ、現在見られる御堂筋の壮観の端をひらいた。請負金は九億八九三三万円、工事総主任は宮崎茂雄であった。
技術革新の時代にはいったとはいえ、地下工法もウエルポイントの開発直後であり、しかも当時は停電が多くてこれを使用できなかった。このため予備の自家発電機を制御しながら自動的に水位調節を行うなどの工夫をこらした。また、切梁は三段のうち鋼製は三段目のみで、腹おこしは木製であった。ここでは地下のシルト層を一三メートル以上掘削する必要があったが、当時の技術と器材ではたいへんな作業であった。しかし、現場付近にバッチャープラントを設置し、大阪ではじめて見るミキサ車三台を使用したことや、バケットコンベヤを試験的に用いたことは、施工の機械化に新時代を開くものとして注目された。内部仕上げは、このころ湿式から乾式に移行をはじめたばかりであったが、いち早くこの工事にとり入れられた。外部仕上げは当時希にみる稲田産総花崗石貼りで、これと内部仕上げ、とくに窓の二重ガラスのサッシュとの関係については施工上特別の苦心が払われている。
工事は昭和三十年(一九五五)十月完成したが、この三和銀行本店工事は、技術的に戦前の水準を回復し、さらにそれを乗り越えたものとして記念すべき工事だったといえる。こののち昭和四十年二月、道路をへだてた隣接地に別館工事を受注し、翌四十一年末、工事を終わった。
毎日大阪会館・北館 〈昭和二十九年八月~同三十一年六月〉
毎日新聞大阪本社わきの毎日大阪会館北館もこの時代の建築である。地下三階、地上九階、塔屋三階の鉄骨鉄筋コンクリート造、延約一万三二〇〇平方メートル、請負金は六億円であった。
この基礎工事には地盤の電気固結法が採用され、当時、目あたらしい工法として注目をひいた。またこの建物の特色は、最新の設備をほどこしたことで、関西では他に比類をみなかった。グラフィックパネルを設けた監視盤室をおき、ここで全館の空気調整、温湿度測定、給排水装置の運転状況を知るとともに、遠隔操作を行なうワンマンコントロール方式がとられた。また、ボイラーを使用せず、ヒートポンプ方式が採用されているが、これも大阪では最初のことであった。この北館完成に引きつづき、同南館の建設も施工(昭和三十三年三月竣工)したが、ここにも同様の設備がほどこされた。
二十年代も後半にはいると、国民生活に余裕を生じ、消費が増大するにともなって文化的施設への要求が高まり、第三次産業も興隆のきざしをみせはじめた。
まず、百貨店の復興が朝鮮戦争ブームとともにはじまった。このころ大林組が受注した百貨店工事には昭和二十五年(一九五〇)の広島平和デパート新築、同二十七年および同二十八年の二回にわたる東京髙島屋(日本生命館)増築、同三十年の大丸神戸店増築、同三十一年の東京丸物百貨店などがある。また、レジャー産業に属するものでは、昭和二十八年の京都アイスパレス新築、翌二十九年の蔵前国技館改装などがあげられる。テレビ放送の開始とともに昭和二十八年にはNHK東京放送会館新館工事、翌二十九年にはラジオ東京(現・TBS東京放送)のテレビ局舎新築工事などテレビ関係の大規模な工事が相次いでいる。
たばこの消費が激増したことも工事面に反映し、昭和二十八年には専売公社仙台地方局たばこ工場、翌二十九年には西金沢葉たばこ再乾燥工場および金沢地方局たばこ倉庫の新築を受注した。
文化関係施設としては、広島平和記念資料館、慰霊碑、平和記念館(昭和二十六年~同三十年)、愛知県文化会館美術館(昭和二十九年~同三十年)がある。
それらのうち、地方支店が施工した主要工事の二、三についてのべる。
広島平和記念館 〈昭和二十七年三月~同三十年五月〉
世界最初の原爆都市として、昭和二十四年(一九四九)広島平和記念都市法が制定され、これにもとづき爆心地付近に広島平和記念公園とモニュメントの建設が計画された。まず第一は、昭和二十六年三月着工した資料館新築であるが、予算が国庫、県、市の合同で、しかも分割支出されたため工事は長期にわたり、慰霊碑をはじめ記念館、資料館などの全施設を終わったのは三十年八月六日、第三回原爆記念日式典挙行のときであった。
最初に完成したのは慰霊碑で、昭和二十七年三月着工、約一年で竣工した。記念館はこれと同時に着工、同三十年五月竣工し、鉄筋コンクリート造、地下一階、地上二階で、総面積は五一七四平方メートル。資料館は鉄筋コンクリート造、地上二階、総面積二八二七平方メートルで、完成はこれが最も遅れた。総請負金額は一億六三六〇万円、工事主任は岩崎仁右衛門と石通太郎であった。
設計はいずれも丹下健三計画研究室で、すべてコンクリートの打放しであった。当時の広島の職方には、この工法の経験者がなく、型枠やコンクリート打設について、こまかなところまで指導しなければならなかった。かつての爆心地の工事であるため、基礎掘削中に被爆者の遺骨が多数掘りおこされ、従事する者にとっては心の痛む工事であった。またこの期間中、第一回から第三回までの記念式典が行なわれ、市の委嘱によって式場の設営にも当たった。
専売公社仙台地方局たばこ工場 〈昭和二十八年九月~同三十一年五月〉
この工場は仙台市の東方、原町の旧陸軍造兵廠跡地に建てられた。近代化された施設をもつ工場として東北地方を代表するもので、仙台支店にとっては当時最大の工事であった。鉄骨鉄筋コンクリート造、地上四階、塔屋一階、総面積は一万六八六三平方メートルで、第一期工事は昭和二十八年九月着工、翌二十九年三月竣工した。
このときもバッチャープラントを使用したが、東北地方最初のことで連日見学者がおとずれ、係員は応接に悩まされた。また工場の性質上、使用材料の材質検査がきびしく、天井吸音板のテストに当たっては、メーカー数社の製品を葉タバコ乾蒸室に入れ、変形状態をみるなど厳重をきわめた。これにつづき六回にわたり追加工事が発注され、請負金額総計は六億九一三四万円にのぼった。工事総主任は岡田勝であった。
愛知県文化会館美術館 〈昭和二十九年二月~同三十年二月〉
愛知県文化会館は、名古屋市の中心部東区久屋町に建設され、美術館、大講堂、図書館の三ブロックから成るが、最初に着手されたのは美術館工事である。
設計原案は郵政省建設部長小坂秀雄氏(懸賞入選)で、三つの異なる部門が、それぞれ単独に機能を発揮すると同時に、有機的に総合され、文化的使命を果たすように考慮されている。美術館は鉄骨鉄筋コンクリート造、地下一階、地上二階、延六〇九三平方メートルである。請負金額は二億一一三四万円、工事主任は岩崎仁右衛門である。この完成に引きつづき、大講堂、図書館工事が行なわれた。
神戸米国総領事館 〈昭和三十年十二月~同三十一年十一月〉
アメリカ国務省海外建築課(FBO)の発注で、神戸市生田区加納町六丁目に建てられたこの総領事館は、鉄筋コンクリート造で、A棟(事務棟)は地下一階、地上二階、B棟(宿舎)は地上三階、C棟(使用人宿舎と車庫)は平家建、総面積は三二〇〇平方メートルである。設計はセントルイス空港のターミナルビルで名をなし、のちにニューヨークのワールド・トレード・センターの設計者として世界的に有名になった日系のミノル・ヤマサキ氏で、監理には同氏門下のFBO監督官イチロー・モリ氏が当たった。
事務棟東面の泉水には水面上まで月見台が伸ばされており、また、宿舎の洋室には和紙貼りの障子をあしらうなど、日本的情趣を加味した設計は事務所建築に新風を導入したものとして注目され、日本建築学会賞を受賞した。工事主任は酒井捷治、請負金額は一億五二〇〇万円である。