第三節 夢の実現―未来都市に挑戦
多彩多様―建築技術のコンクール
万博建築に未来都市の構想を賭け、未知に挑み、二十一世紀を先取りしよう、というのがアーキテクトの夢であった。そこでパビリオンや構造物の設計者はまず第一に、この機会を利用して日ごろの夢を実現しようと望んだ。その夢を具体化することは施工者の任務であり、また技術の進歩開発もそれによって生まれるが、施工者には工費や工期に加え、施工の安全性という制約があり、すべてについて設計者の要求を容れられないことがある。この矛盾を端的に露呈したのがエキスポタワーの場合であった。
エキスポタワー エキスポタワーは日本万国博のランドマークとして、かつてのパリ博におけるエッフェル塔に相当し、しかもこれまでの塔の概念を打破るものとして構想された。そして万国博協会が発注した最初の大型工事として、業界はもとより社会的にも注目されたが、昭和四十三年(一九六八)三月、入札に付した結果、応札した八グループ一六社の最低入札額は協会予算の二倍に近いものとなった。これは早大教授菊竹清訓氏の設計により、高さ一七〇メートル、鋼管四本を組合わせて全体を立体トラスとし、途中に多くのゴンドラを設けた展望塔であるが、部材の結合等に安全を期した積算の結果、工事費は意外にかさみ、この応札額となったものである。
この入札不調により協会では指名変更を行ない、大林組、鹿島建設、清水建設、大成建設、竹中工務店の五社に対し改めて現場説明を行ない見積りをもとめたが、結局五社も指名を辞退して入札は延期となった。この事態を憂慮した石坂万国博協会長が斡旋に乗り出し、基幹施設プロデューサー丹下健三氏以下設計者グループと五社最高責任者を個別に招き、両者の協調を要請した。その結果、設計者側の譲歩により若干の設計変更が行なわれ、鋼管柱の数は四本から三本に、高さも一七〇メートルから一二七メートルに変更、ゴンドラの数も減らし、大成建設を幹事会社とする五社共同企業体が随意契約によって施工することとなった。これで問題はようやく解決したが、実際に工事が開始されたのは昭和四十四年一月であった。
鉄鋼館 日本鉄鋼連盟出展による鉄鋼館は、博覧会終了後も残置する立体音楽堂として建設された。設計は前川国男設計事務所、施工はエキスポタワーと同様大手五社で、工事事務所長は大林組万博総合工事事務所長七海実が兼ね、岩見夏樹が所長代理となった。
鉄鋼館は建物自体が巨大な楽器となっている。大ホールは天井、壁、床に一三〇〇個のスピーカーをもち、これらを操作するコンピューターによって新しい音楽の世界が展開され、そこにレーザー光線を使った光の演出も加わる。したがって遮音、防音、吸音などの材料や構造について慎重なテストを要し、またこの装置と並行して内装工事を行なうには少くとも六カ月の仕上工事期間を必要とした。そのため、パビリオン建築工事は万国博協会の決定で七月以後となっていたが、特に許可を得て昭和四十三年五月に掘削を開始し、七月一日起工式を挙行した。万国博パビリオン工事のさきがけをなすものであった。建物は鉄筋コンクリート造、地下一階、地上五階、総面積八二一〇平方メートル。予定どおり翌十四年十月に引渡しを行なった。
スカンジナビア館 外国パビリオン起工のトップは北欧五カ国が出展するスカンジナビア館で、昭和四十三年七月二日受注が決定し、同月二十九日、新阪急ホテルで起工式を行なった。この日近畿地方に台風来襲の予報が発されたため、当日になって急遽式場を変更したものである。同館は過去の万国博において、いつも最初に起工式を行なう館として有名であったが、今回はそれに遅れたため、上棟式はぜひ列国にさきがけたいと強く希望した。そこで十一月以後は晴雨にかかわらず昼夜兼行で工事を急ぎ、十二月九日上棟式を挙行するまでに工程を促進して要請にこたえた。しかし、展示テーマの設計者が正式に決定したのは上棟式前後のことで、そのためにこの時期になってファサードの意匠は全面的に変更された。その後も建築と展示の設計者間で意見の調整が容易に進行せず、工事は約三カ月停止を余儀なくされた。この工事は建物の設計がデンマークのベント・セボリン氏、施工監理はスウェーデンのS―AB社で、大林組はその下にあって設計協力と施工に当たる特殊な形態であった。パビリオンは鉄骨造平家、一部中二階付、地下一階、総面積は二〇七一平方メートルで、外装は縦二つ割りの塩化ビニールパイプ三九二本を銅色に着色し、凹凸交互に貼ったものである。
同館の展示テーマは公害問題で、「産業化社会における環境の保護」を一〇〇台以上のプロジェクターを用いて強く訴えかけた。当時、わが国でも産業公害は漸く社会問題化していたが、各パビリオンとも明るい未来を描いたものが多く、このような警告を正面からとりあげた唯一の展示館として識者の注目をひいた。
竣工は開会直前の昭和四十五年(一九七〇)二月末で、規模にくらべて工期が長かったのは、設計者、監理者が常駐せず、仕様変更のたびごとに手紙あるいはテレックスで本国まで連絡するなど、不便が多かったためである。工事事務所長は西川弘美である。
せんい館 このパビリオンは日本繊維館協力会の出展で、設計は大林組、施工は大林組と竹中工務店の共同企業体によって行なわれた。はじめの構想は、ひだのあるスカートの感じを生かしたテント構造であったが、関係者が数カ月の討議を重ねたのち、スキーシャンツェ風の高さ二六メートルの屋根と、その中央に直径二〇メートルの映像ドームが赤い頭を突き出したものに変わった。建物は鋼管および鉄骨造平家、一部五階建、総面積は三四二八平方メートルである。着工は昭和四十三年十月で、工事の進行と並行して展示、映像、音響の各担当者と、設計、施工者との間に絶えず検討がくりかえされた。竣工は翌四十四年十一月、工事事務所長は七海実、所長代理は徳田実である。
お祭り広場 長辺二九二メートル、短辺一〇八メートルの大屋根の下に広場とテーマ館をもつお祭り広場は、万国博施設の中心をなすもので、各建設業者が第一の受注目標とした。万国博協会がこの工事を入札に付したのは昭和四十三年(一九六八)七月末であるが、大林組は竹中工務店、藤田組と共同企業体を構成し、その代表となってこれに応じた。
大屋根は地上三〇メートルの高さに六本の柱で支持され、三万二〇〇〇平方メートルの広さをおおい、その下にお祭り広場デッキとテーマデッキがある。テーマデッキには太陽の塔、母の塔、青春の塔が建ち、大屋根フレームのなかに空中テーマ館がはめこまれている。この屋根は、二層の正方形グリッドを長さ一〇・八メートルの斜材でむすんだ立体トラスをなし、格子の一辺は一〇・八メートル、上下弦材の高さは七・六メートルである。弦材および斜材は外径五〇センチあるいは三〇センチを標準寸法とする長さ九メートルの鋼管または遠心鋳鋼管の両端に、長さ五〇〇ミリの鋳鋼製キャップを熔接したパイプ状部材で、節点では径八〇、九〇、一〇〇センチの鋳鋼製球形ジョイントを介して接合される。弦材と球形ジョイントは、一本のボールト、締こみ用の球面および回転シム、ライナー用の調整シム等によって構成される完全なメカニカルコネクションによって結合されている。部材総数はボールジョイント五二八個、パイプ一九〇四本である。
柱間隔は一〇八メートルで、径一・八メートル、長さ三一メートルの鋼管主柱二本と四本の側柱があり、トラスが主柱にとりつく部分にはストラクチャーリングとよぶ柱頭ジョイントを用いる。柱頭は剛接合、主柱下部はピン接合で、柱脚基礎は鉄筋コンクリートのタイビームで結合される。トラス構造の重量は四二〇四トン、ニューマチック屋根パネルとその付属鉄骨は一四六〇トンで、これに加えて空中建築物等二五二五トンの構造物を含む大屋根の総重量は八一八九トンに達した。
これほど大規模な屋根の建設は、世界の建築史上にも例がなく、基幹施設設計グループにとっては、「エキスポ'70」における最大の夢であった。しかしこのような大プロジェクトの場合、設計と施工方法は不可分の関係にあり、組立、建方の方法によって構造計画ベースが決定する。また設計段階において工事の安全性、機械の使用方法、工期、工費等についても考慮されなければならない。そのため設計グループは昭和四十三年春、大林組に対し施工方法について意見をもとめてきた。
当初の設計では、高さ一五メートルの鉄筋コンクリート造の柱の上に、屋根トラスと同構造で構成される立体トラスで大屋根を支持する構想であった。この場合、所定の三〇メートルの高さで屋根トラスを組立て、それに柱をとりつける方法と、地上でトラスを組立てたのち、所定の高さにもち上げて柱にとりつけるリフトアップ工法がある。しかし前者はトラス組立の仮設構台が大規模となり、労務工数の増加や能率、安全性等に難点があり、また、下部のデッキ工事等も大屋根完成後でなければ着手不能である。したがって、この方法は予算と工期の両面からみて不適当とされ、リフトアップ工法を基本として設計を進めることとなった。さらにリフトアップについても種々の試案が提起されたが、従来用いられたジャッキによる方法では困難と考えられ、アメリカのデロング社のジャッキ工法が適当とされた。また経済性からみて、仮設柱を本工事の構造柱として使用することも決定し、基本構想はほぼ結論を得た。
共同企業体三社はこれにもとづいて地組み治具の検討を行ない、入札に応じたが、リフトアップに関して若干の不安があったため、ニューヨークからデロング社の副技師長を招き、あらかじめ十分の準備をととのえてのぞんだ。入札は予算を超過したが、関係者の間で深夜まで協議した結果、設計変更について了解が成立し、八月二十一日に受注が決定、九月三日、起工式を挙行した。工事事務所長は七海実、同所長代理は新開信之である。
当時設計者の意見として、国産機械によるリフトアップを示唆する声もあったが、この種機械の大型のものはまだ開発途上にあり、かりに試作に成功してもテストの余裕はなかった。そこで万全を期し、米国で二十五年の実績をもつデロングジャッキを使用することを主張して、その調査と技術契約準備のため新開所長代理と設計者が渡米、またシンガポールで実地に使用している状況を視察するために、同地におもむくなど慎重の上にも慎重を期した。
デロングジャッキは、上下にグリッパーとよぶ輪状の厚いゴムチューブをもち、その中間にエアジャッキ一二台を円周上に配置した外径、高さとも約三メートルのもので、使用空気圧は一平方センチ当たり二五キログラムである。使用方法は、まず下部グリッパーで主柱をつかみ、ジャッキを作動して上部グリッパーが上がるとこれが主柱をつかむ。その後下部グリッパーの空気を抜き、ジャッキアップによってもとの位置に残されたジャッキと下部グリッパーを引きあげ、この動作のくりかえしで尺取り虫式にクライミングする。その能力は四五〇トンであるが、この工事においては二基をタンデムで使用し、二基一組で八〇〇トンの揚重能力として計画した。これにより架構三四五〇トンのストラクチャーとイコライザー三三〇トン、仮設架台、足場および本設の樋、歩み板一〇二〇トン、以上合計四八〇〇トンをあげるものである。リフトアップ中、大架構主柱間の許容レベル誤差は一〇センチ以下と規定されるきびしさであり、施工に当たっては一ストローク量を七・五センチとした。
十二月九日、最北端から地組みを開始し、土間工事を追いつつ地組みを進めて翌昭和四十四年(一九六九)三月一日、主柱第一節の立柱を行ない、五月九日地組みを完了した。リフトアップ開始は六月二十三日であるが、これだけ重量のある大架構をリフトアップすることは世界最初の試みであるだけに、各方面の注目を集めた。全国の建築関係者が見学におとずれ、テレビも新聞もその情景を報道するうちに、七月三十一日午前十一時二十九分、最後のストロークによって大屋根は所定の位置にリフトアップされた。まさに感激の瞬間であり、万国博建設工事における最大のハイライトというべく、工事担当者の目には涙が光った。このリフトアップ工事の要員は八〇名であるが、ジャッキのオペレーターとしてはコントローラーの一名、エアコンプレッサー操作の三名をのぞけば、他はすべてゲージやレベルの計測要員であった。
大屋根工事と並行して、太陽の塔、母の塔、青春の塔、空中テーマ館、お祭り広場仕上げ工事、展示施設の制作据付工事がそれぞれに行なわれた。これらの工事は、空中、地上、地下で同時に施工されるため、万国博協会、設計グループおよび共同企業体の間で総合的な作業工程の検討をくりかえし、工程上の見地から中止されたり加えられたりした展示計画もあった。
この間、八月二十九日には佐藤首相、十一月十四日には名誉総裁皇太子殿下が現地を視察され、関係者を激励された。お祭り広場関係の全工事を終了したのは契約工期の昭和四十五年(一九七〇)二月二十八日で、その請負金総額は約六〇億円である。開会式、閉会式、各国ナショナルデーをはじめ、万国博を飾る主要行事がすべてここで行なわれたことは知られるとおりである。
この工事において、設計者と施工者は完全な協調と緊密な連絡のもとに、予見しがたい未知の技術に挑戦し、よくこれを克服した。巨大であるうえに高精度の施工を要求されたこの大工事がかくも見事な成功をみたことは、両者間の絶えざるフィードバックが実をむすんだものといえる。日本建築学会は、そのすぐれた構造設計と施工技術を認め、設計者、施工三社および部材メーカー新日本製鐵に対して万国博特別賞を贈った。また科学技術庁は万博お祭り広場建築工事共同企業体工事事務所長七海実と同所長代理新開信之を科学技術功労者として表彰した。
みどり館(アストロラマ) みどり館は三和銀行系が結成したみどり会グループ(二三社)の展示館で、大林組もこれに参加し、大林社長がゼネラルプロデューサーを担当した。そのため本店万博本部にみどり館建設部を設置し、建築、展示の両面から想を練った。はじめショックベトンを使用したドームとする案もあったが、最終的には地下一階、地上二七メートルの鉄骨造平家(総面積三三四二平方メートル)で、屋根の仕上げに強化プラスチック(FRP)を用いたドーム状建築と決定した。これは直径四六メートル、正八〇面体の半球形をなし、円周に沿って五ブロック、頂部に一ブロックの五角錐で構成される。外壁に用いた三角形のFRPパネルは総数六三五個で、四個が一組となって一六〇色に変化し、複雑な虹のような感じを表現している。
みどり館の展示は、映像と音響の革命とよばれた全天全周映画アストロラマで、万国博のよび物の一つとなった。情報化社会を反映し、またモントリオール博の影響もあって、内外パビリオンの七〇%以上は映像による展示を行なったが、そのなかにあってこのアストロラマは群を圧するものであった。映画は谷川俊太郎氏のシナリオ、黛敏郎氏の作曲により、「誕生」と「前進」の二篇が制作されたが、これを撮影するために一三三度の超広角、口径三〇〇ミリの世界最大レンズをもつ五台連動アストロラマ・ユニットカメラを使用した。
建物をドーム状としたのもそのためで、ドーム内側の天井、壁はそれ自体が巨大なスクリーンで、直径は三〇メートル、映写面積は二〇〇平方メートルもある。これは従来のシネラマスクリーンの一二倍に当たり、もちろん世界に例がなく、幅四~六メートルのナイロンテープ一九万枚を三段階に貼りめぐらし、観客の位置に光が正しく反射するよう工夫されている。映写には横送り水平式の七〇ミリ映写機五台を使用し、音響再生は一一チャンネル、四九九個のスピーカーを設備した。以上のレンズ、カメラ、スクリーン、映写、音響装置はすべてアストロラマ用に開発したもので、これによって完全な立体映像、立体音楽による多次元の世界が現出された。また天井の高さは床から二三メートルもあるため、館内冷房は観客の身長を基準とし、ノズルの位置や方向について特別な配慮が行なわれた。
みどり館建築の特色は、鉄骨建方に建起し工法を採用して、基本設計の当初からこれを考慮した構造設計が行なわれたことである。五角錐の各ブロックは、柱脚の高さに伏せた状態で地組みし、脚部のピンを回転軸として所定の位置に順次建起し、頂部のフレーム一ブロックは、その頂点に受構台を組み、各単材のまま所定の場所にとりつけて全架構を完成した。これによって、危険をともなう高所作業を避け、作業は地上で安全かつ能率的に行ない、工期短縮と仮設資材の節減、省力化等に大きく貢献することができた。なお、仕上げ材のFRPは、小梁にボールトで接合して、目地にはコーキング処理をしてある。着工は昭和四十三年十月、引き渡しは翌四十四年十一月十五日で、その後展示関係の工事にうつった。工事事務所長は川西重信である。
クボタ館 久保田鉄工が出展したクボタ館は、米と農村を主題とし、東南アジア、アラブの諸国、イタリア、アメリカ等の米作を紹介した展示館である。設計は大阪建築事務所で、同社が出展参加を決定した昭和四十二年(一九六七)春から、設計者、施工者とも出展計画連絡会議に出席し、構想の段階から計画に参画した。
パビリオンの中心には、同社の製品Gコラム(遠心力鋼管)を高く建て、これから放射線状に一二本のワイヤを張り、屋根を吊ったもので、総面積は一二四〇平方メートルである。Gコラムは高さ四二メートル、直径一・四メートルで、屋根は直径三八メートル、これからさらに直径二〇メートルの床が吊られている。主柱は七分割して建てたが本柱のメタルタッチにより軸力を基礎まで伝達するため、接合部の直角度、水平度等の加工精度が要求された。しかし工場加工の精度はきわめて高く、垂直度は三ミリ差、ワイヤの引張り荷重バランスは五%以内にとどまった。工期は昭和四十三年十一月~同四十五年一月、工事事務所長は五十嵐勝威である。
ガスパビリオン 日本瓦斯協会が出展したガス パビリオンは、「笑いの世界」をテーマとしている。大林組の設計による卵型の造形は、フグが大きく口を開き、笑っているように見え、すべての線は曲線によって構成された。しかもその曲面は鉄骨で成形する設計であったから、主鉄骨の一本一本について現寸図を必要とした。そのため一〇〇分の一の粘土模型をつくり、これを三十六等分し、ベニヤ板で型取りして座標をもとめ、その座標によって現寸を描き、さらに修正せねばならなかった。この現寸作成には四カ月半を要し、一般のビル鉄骨の現寸図にくらべて手数は三倍以上となった。現寸完成後、さらに精密な五〇分の一鉄骨模型を作成し、建方順序、工程、足場計画等はすべてこれによって検討された。
建物は地下一階、地上三階、総面積四七七五平方メートルで、地下および一階は鉄筋コンクリート造、階上の映画館、ロビー、展示室に当たる部分は鉄骨造である。展示室ホールには高さ五メートル、幅一二メートルの陶製大壁画があるが、これはスペインの巨匠ホアン・ミロが、この館のために特に制作したもので、その組立てには特に慎重を要した。着工は昭和四十三年十二月、竣工は同四十五年二月で、工事事務所長は西川弘美である。
松下館 松下電器産業をはじめとする松下グループ二二社によって出展された松下館は、設計吉田五十八氏、施工は大林組、鹿島建設、竹中工務店三社による共同企業体である。館は天平風の堂宇二棟で、一万本の竹林にかこまれた池の中央にあり、優雅な姿を水面に浮かべている。未来派風の建築の多い会場内にあって、この古典的な格調高い建物は、「伝統と開発」のテーマを生かして異彩をはなった。
着工は昭和四十三年十二月であるが、設計図は縮尺一〇〇分の一の一般図のみでスタートしたので、まず模型をつくり、模型を修正しては図面化し、設計者の承認を得るという方法で工事を進めた。前棟は地上二階、地下一階の鉄骨造(地下一階および地上一部は鉄筋コンクリート造)、後棟は地上一階鉄骨造、地下一階鉄筋コンクリート造である。これと渡り廊下、木造付属建物を合わせて総面積は二七五〇平方メートルである。工事工程の基本計画として、主体鉄骨を昭和四十四年六月中旬、屋根一文字葺きを台風期前の八月末、仕上工事を同年末までに完了することとした。この目標はほぼ予定のとおり達成され、昭和四十五年一月以後は調整に当て、二月末竣工をみた。工事事務所長は七海実、同所長代理は是永亀雄である。
なお、ここに陳列されたタイムカプセルは、一九七〇年の文化を五〇〇〇年後に残すことを意図し、ショックベトンの外被におさめ、万国博終了後、大阪城公園本丸跡の地下一五メートルに埋設された。
日立グループ館 日立製作所が出展した日立グループ館は、東日建設コンサルタントの設計で、朱色の空飛ぶ円盤をシリンダーがささえた形のパビリオンである。円盤の直径は四六メートル、中央部の高さは二七メートル、シリンダーの高さは六メートルで、これにのぼるエスカレータはつぎ目なしの四〇メートルもあり、世界最長といわれた。
この館の呼びものは、レーザー光線を利用した大カラーテレビや、来場者自身がパイロットとして操縦する模擬飛行であるが、シュミレーターは円盤の周縁に設置されるため、その部分の構造体に振動たわみを生ずるおそれがあった。そこで施工に先立ち、日立造船神奈川工場が試作した実物により、大林組技術研究所において振動たわみ試験を行ない、万全を期した。パビリオンは鉄骨造四階建、総面積は二四七五平方メートル、昭和四十四年一月着工、同四十五年二月竣工した。工事事務所長は川西重信である。
日本民芸館 日本民芸館はシンボルゾーンの北側、日本庭園と美術館の間にあり、鉄筋コンクリート造平家、一部鉄骨二階建、総面積二二八五平方メートルのパビリオンである。出展は大原総一郎氏を中心に結成された日本民芸館出展協議会で、大林組もその一員として参加した。「暮しの実」をテーマとして、日本の庶民が生活のなかにつちかい育てた民芸品を世界に紹介しようとするユニークな試みであった。陳列品は約五〇〇点であるが、そのうち三〇〇点は東京駒場の日本民芸館出品で、棟方志功氏の木版壁画が衆目を集めた。
この展示館は万国博閉会後、東京の日本民芸館分館として存置されるため、恒久的施設として建設された。したがって陳列品に対する湿気等を考慮し、窓まわりなどは実物大模型をつくって効果を確かめ、また意匠上では会期終了後の周囲との調和にも意を用いるなど入念な工事を行なった。設計は大林組、工期は昭和四十三年十二月~同四十五年三月、工事事務所長は山本新一である。
アメリカ館 万国博の外国パビリオン中、最も期待を集めたのはアメリカ、ソ連の二大国であるが、それだけに建設業者間の受注競争もここに集中した。特に大林組の場合は、これまでにも東京の大使館やグルーハウス、神戸総領事館等の工事実績が数多いため、アメリカ館の受注は、万国博計画が決定した当時からの第一目標であった。営業活動も早期に開始され、大林社長をはじめ常務取締役谷口尚武、取締役杉山正一らはモントリオール博視察の際もアメリカを経由して予備工作に当たった。
発注は比較的遅く、ソ連、イギリス、フランス、カナダ等の各館が決定したのち、昭和四十三年(一九六八)十月十五日、アメリカ大使館で入札が行なわれた。指名参加した業者は大手五社のほか、アメリカ業者を含め一一社であった。この翌日、谷口常務取締役は渡米し、現地三井物産の協力を得て活発な活動を展開、受注が決定したのは十一月八日であった。設計はデービス、ブロディー、チャーメイエフ、ガイスマー、デハラック アソシエーツであるが入札条件によれば、施工者は、コーアーキテクトとして、設計、設備、工務、見積り技術者を二カ月間、ニューヨークに派遣することと定められていた。そこで担当者九名を渡米させ、これに留学中の二名を加えてチームを編成し、これらの作業に従事させた。昭和四十四年一月二十三日朝、大林組本店においてアメリカ政府代表チャーノフ大使、大林社長による調印式が行なわれ、引続いて万国博会場において起工式が挙行された。
アメリカ館の構造は、周囲に高さ六メートルの土手を築き、その上に長径一四二メートル、短径八三・五メートルの楕円形コンクリート製リングをおいて、一万平方メートルにおよぶ巨大な空気膜構造の屋根を三二本のワイヤでアンカーさせたものである。ガラス繊維の布地をビニールコーティングで強化した屋根は、加圧された空気でささえられるのであるが、この方式のエアードームでは世界最大、かつ最も軽く、柱は一本も使用していない。内部は中央に鉄筋コンクリート造の地下室があり、その上に鉄骨造の展示デッキが設けられ、土手を貫通するトンネルによって出入り口とむすばれる。総面積は八〇〇〇平方メートルに近く、フットボール競技場に匹敵する。またこれと並行して、アメリカ側要員二四世帯の宿舎を千里ニュータウン竹見台に、同政府代表、副代表宿舎を東豊中に建設した。
館内の展示は文化、科学等七部門に分かれ、現代アメリカの姿が生き生きと紹介されているが、なかでも航空宇宙局が出展した月旅行計画は万国博中最大の人気を集めた。月の石、アポロ八号司令船の実物、サターン五号ロケットの大エンジン等が陳列され、これらはいずれも当時話題の中心であっただけに、観衆はこのパビリオンに殺到した。そのため長蛇の列がつづき、入場するには二時間、三時間と待たねばならないのが常であった。
工事監理はアメリカ陸軍極東地区工兵隊が当たったが、監理者自身は、工学的技術的判断を行なわない原則があった。仕様や図面の変更は、いかなる場合も設計者からの文書によることを要し、図面と施工にわずかな相違でもあれば、たとえ技術的に支障のない場合でも絶対に許さなかった。こうした慣行に不慣れなため、当初は現場員の苦労は倍加されたが、工事の進行とともに施工の優秀さが認識されるにつれ、両者の信頼は増し完全に融和した。しかし築堤工事の場合など、締固め度を確認するため絶えずテストが行われ、そのつど承認を得なければ次の盛土工事にかかれないなど、チェックのきびしさが工程に影響する面もあった。また工事中に大幅な設計変更が行なわれ、それが予算との関係で決定が遅れたり、気象台開設以来といわれた降雨があったことも工程遅延の因となった。そのためワシントンから契約官が来日し、設計、施工、監理の三者が総合協議会を開き再検討を行なったが、総追いこみをかけて工程を回復した。空気膜構造の屋根についても最初の経験であるため、空気膜の膜体、その接着、ケーブル、交点クランプ、ケーブル端部等に関し、各種の強度試験その他のテストを行ない、ケーブルのマーキングや膜体の裁断にはコンピューターを使用し、あるいは模型でたしかめるなどして、細心の注意をはらった。
展示物の据付けと細部の手直しを終わり、竣工検査を完了したのは三月十一日で、チャーノフ大使と大林社長の間で引渡しの調印が行なわれ、翌十二日館内で竣工式を挙行した。このとき同大使から感謝状が贈られたが、設計者および監督者側は大林組の実力を高く評価し、ことに工事事務所長篠田駿二以下現場員の労に対しては、絶大な讃辞をのべた。
これに先立つ昭和四十四年十一月二十日、チャーノフ大使はニクソン大統領にアメリカ館の模型を贈ったが、大林社長は特に招かれ、留学中の長女知子を同伴してホワイトハウスにおもむいた。当時あたかも日米会談のために渡米していた佐藤首相もこの席にのぞみ、ともに万国博について種々懇談した。なおアメリカ館については、デービス、ブロディー、チャーマイエフ、ガイスマー、ドハラック アソシエーツと大林組に対し、米国建築家が最大の栄誉とするアメリカ建築学会賞が贈られた。この賞は、一九七〇年度の全世界建造物のうち、五三〇の優秀建築から選ばれた一〇件の作品に与えられたもので、日本の建設業者が受賞したのはこれが最初である。
アメリカン パーク このパビリオンは、アメリカの州、都市、企業等から出展を募集し、万国博に参加するための組織として設立されたアン パーク コーポレーションの合同展示である。九七〇〇平方メートルの敷地に、鉄骨造平家、同二階建、テント構造等の建物一〇棟、総面積三二三〇平方メートルを建て、外装、内装、照明等については参加者が負担するシステムで、これを同社が出展者に賃貸した。ここにはアラスカ州、ロサンゼルス市をはじめ、エンサイクロペディア ブリタニカ、コカコーラ、サンキストその他の企業が、映画や絵画の展示、レストラン等それぞれ特色ある出展を行なった。
基本計画はロサンゼルスのハーブ ローゼンタール アソシエーツ、設計は大林組であるが、出展参加者の決定が遅れたため、間仕切の位置、電気、水道、冷水等は供給量も未確定のまま計画に着手しなければならなかった。昭和四十四年四月十日に起工式をあげ、細部設計のなかばが決定した七月に着工したが、そのころから順次参加者がきまった。そして仮定設計と相違する点については、そのつどアン パーク社をつうじて工事費の負担区分を確認して変更工事にかかるので、工事そのものよりは折衝の煩雑さに悩まされた。
このパビリオンの呼びものは、リンドバーグ大佐夫妻が訪日に用いた愛機シリウス号と、アラスカ州のインディアン二〇〇人がつくったトーテムポールであった。このポールは高さ四〇メートル、脚部の直径一メートルで、建方に当たっては木部の内側に四五〇~二五〇ミリの補強鉄骨を地上で取りつけ、一〇〇トン吊りクレーンによって建て起しを行なった。竣工は昭和四十五年三月、工事事務所長は川西重信である。
中華民国館 中華民国館の設計は彭蔭宜、李祖原の両氏、協力設計は大林組である。両氏はニューヨークで著名な中国人建築家I・M・ペイ氏門下で、昭和四十三年十二月来日、大林組本店内に事務室をおいて設計に当たったが、ペイ氏も数回おとずれて両氏を指導した。
このパビリオンは、「中国の伝統と進歩」のテーマにふさわしく、伝統的な中国建築様式をシャープな近代的技法によって完成した。平面は二等辺三角形、高さ三三メートルの鉄骨造五階建二棟が、三つの渡り廊下でむすばれ、左右対称をなしているのは楼門をかたどったものである。ここには中国が誇る発明品として紙、絹、磁器等や、文化、科学、産業等の現状が展示され、付属棟には中国レストランが設けられた。本館の総面積は二一八八平方メートル、工期は昭和四十四年三月~同四十五年二月で、工事事務所長は七海実、同所長代理は五十嵐勝威である。
キューバ館 キューバは、はじめ当時の国情から参加をあやぶまれたが、昭和四十三年出展を決定し、同国商工会議所副会頭ミラバール、ハバナ大学教授フェロの両氏が来日し、予算と設計について協議した。設計は同教授および建築科学生グループ、設計協力は大林組で、フェロ氏は四カ月間滞在して実施設計を完成した。
館は昭和四十四年五月末着工、翌四十五年二月竣工したが、鉄骨造、一部鉄筋コンクリート造平家建、総面積は一一九〇平方メートルである。屋根は二七×二七メートル角の立体トラスを四本の柱でささえる構造であるが、現場ではこれを一二ブロックに分け、各ブロックをそれぞれ地組みしてトラッククレーンで吊りあげ、下部に設けた構台上で接続した。外壁にはキューバ美術家の手によるサイケ調の壁画が描かれ、床の大理石や木製建具は本国から運搬した。大理石の貼りつけや塗装工事もすべてキューバからきた労務者十数名によって行なわれた。
展示はラム、タバコ等の特産品があるほか、ラテン音楽の演奏や映画もあり、革命当時のカストロ、ゲバラなどの活躍も紹介されて注目をひいた。工事事務所長は村上典弘である。
ギリシア館 ギリシア館は敷地中央の庭園をかこみ、展示館、野外劇場、売店、レストラン等古典的なギリシア建築九棟が廻廊でむすばれ、アクロポリスの神殿になぞらえて配置された。いずれも壁、床版は鉄筋コンクリート造、軸部は鉄骨造平家建で、総面積は一一七五平方メートルである。設計はフランク・ロイド・ライト門下のサケラリオス氏とパパリオポロス氏、協力設計は依田高義氏である。はじめ木材ユニットのジグザグ型集成による壁と柱を併用した木造であったが、建築基準法に合致しない部分が生じたために鉄骨軸組として鉄板でジグザグ型の成型を行ない、内外観とも原設計どおりに見えるようにした。このため着工がおくれ、昭和四十四年八月となったが、同年末ふたたび設計者が来日し、すでに建方を完了していた各棟の細部にわたり設計変更を指示された。また本国で加工して運搬した床貼りの大理石が、スエズ運河の閉鎖のため南阿を経由し、一カ月半も入荷が遅れた。これらの事情により工程回復には容易ならぬ努力を要したが、翌四十五年二月末、予定どおりに竣工することができた。工事事務所長は山本新一である。
ハワイ館 ハワイ州の万国博参加は決定がおくれ、担当官トム・サカタ氏が来日して調査を開始したのは、開会一年前の昭和四十四年三月であった。受注競争は激しかったが、すでにハワイに進出し、現地に工事実績をもつ大林組としては特に重要な目標として努力した。あたかも同年五月、ホノルルのサーフライダーホテルが竣工し、大林社長はその落成式に列席したのを機として、直接バーンズ州知事にはたらきかけた結果、特命受注に成功した。八月十四日、ベップ下院議長を迎えて起工式をあげたが、開会までわずか七カ月を残すのみであった。
設計は、ライト門下の日系建築家ヒデオ・ムラカミ氏、協力設計大林組、鉄骨造の半地下式平家建、下部は鉄筋コンクリート造、建築面積は四七三平方メートルである。屋根は火山灰におおわれた火山錐を象徴したドームで、直径は二一メートル、外部は一五センチメートル角、ピラミッド型の特殊コンクリートブロックを貼った。
展示の中心となったのはハワイの多民族性を誇る金属の樹木「ピープルツリー」で、枝から十数枚のスクリーンを吊り、スライドを用いて生活や文化を紹介した。竣工は昭和四十五年三月、工事事務所長は七海実、同所長代理は村上典弘である。
タイ館 タイ館の入札は昭和四十四年五月、バンコックで行なわれ、受注は決定したが予算が折り合わず、設計変更の折衝が難行した。来日した政府代表カンブー氏と交渉し、現地でもバンコック駐在員事務所長吉野健次郎が同国政府と協議するなど、内外呼応して努力した結果ようやく決定をみた。そのため、着工は遅れて九月一日となり、ハワイ館同様工期はきわめて短かったが、翌四十五年二月竣工した。
パビリオンは鉄筋コンクリート造および鉄骨造、平家建、総面積三二〇平方メートルで三棟から成り、赤、緑、黄にいろどられた独得の寺院様式である。左右に高さ一九メートルのドームがそびえ、中央本館にはチーク材に彫刻をほどこし、金色のガラスモザイクで飾った塔がある。この塔はブランクとよばれ、バンコックで製作したものを分解してはこび、会場で組立てた。左右両棟の尖頭部鉄骨は地組みし、装飾パネルを取りつけたのち屋根に吊りあげて工期の短縮をはかった。展示品は、同国国立美術館所蔵の国宝級文化財をはじめ、宝石、銅器、銀器、鉱産物等の特産品や、現代タイを紹介するための資料等であった。 パビリオンの設計はチャムロン・ヨルディン氏、協力設計大林組、工事事務所長は七海実、同所長代理は村上典弘である。
サンフランシスコ館 サンフランシスコ館は、軽鉄骨造、屋根と外壁は合板製、パネルのプレハブ ハウス四棟から成り、総面積は八三〇平方メートルである。はじめ、同市の名物であるケーブルカーが出展される予定であったが、計画は二転三転して、ケーブルカーの車体を利用したバスをエキスポランド内に走らせることに変更された。展示館内庭に設けられたバス待合室は、サンフランシスコのケーブルカー待合室を模したものである。
昭和四十五年一月十九日着工、支給のプレハブ材料の到着を待って二月十四日から組立てを開始した。ところが予期したほどの精度がなく、施工は難行して徹夜作業がつづき、全工事を完了したのは開会式の前夜、雪まじりの雨がふる三月十三日午後十時半であった。施工日数じつに五四日間、万国博工事中の最短記録である。設計はチャールス・フォン・ローエンフェルト氏、工事事務所長は七海実、同所長代理は篠田駿二である。
まる一八三日―閉会式のその日まで…
万国博は昭和四十五年三月十四日に開会式、翌十五日から一般に公開された。大林組は基幹施設であるランドマークやお祭り広場のほか一七の展示館を施工し、このうちの二つの施設展示に参加するとともに、大阪に本拠をおく業者として、万国博の成功のためにあらゆる面で全面的に協力した。開会後二旬、「エキスポ」の声ますます高まる四月一日、受注から建設まで、全社の期待をになって大任を果たした万博本部の機構を縮少し、会期中のメインテナンス等のために改めて万博部を設置した。また万博総合工事事務所も、会期中の諸施設の手直しや修理に当たらせるため、六月一日からは万博工事事務所に改組し、引きつづき七海実を所長として残した。これには、会期中の不慮の事故にそなえるためもあったが、契約により、アメリカ館の大屋根に空気を送るため、送風機の運転、維持に当たる任務ももっていた。
また、開会とともに万博参観のために、あるいは万博を好機として来阪される内外各地の得意先関係者の接伴に当たらせるため、建築本部営業部に営業課を増設した。会期をつうじて営業課が接伴した来観者は一四〇〇名にのぼり、このなかには著名な外国専門家も多数みられた。出展参加のみどり館には、みどり館建設部業務課長前田亨が副館長兼総務部長として出向、女子職員四名をコンパニオンとして派遣した。日本民芸館にも、男子職員二名、女子職員二名を出向させた。
日本万国博覧会は九月十三日閉会した。一八三日の会期中入場者総数は六四二四万人に達し、空前の記録をつくった。この建設工事に当たり、大林組が施工した工事の請負金総額は六九億三一一七万円である。