大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第四章 日本万国博覧会

第二節 本店に万国博本部、東京に万博部を設置

会場計画から展示アイデアまで続々と提案

万国博はオリンピックにくらべ規模は大きく会期も長く、会場に投下される費用のみで少なくとも二〇〇〇億円と見込まれた。また関連事業費は一兆五〇〇〇億円以上と予想されたが、これにともなう消費需要の相乗的波及効果を合わせると、二兆円ないし三兆円にのぼると予測された。したがって、万国博によせる各方面の期待はきわめて大きく、銀行、商社、印刷、広告代理業等、直接関係をもつ企業は一斉に活動を開始したが、なかでも会場建設を担当する建設業界では、激しい受注競争が展開された。ことに大林組の場合は、明治三十六年(一九〇三)の第五回内国勧業博覧会が社業興隆の基礎となった歴史もあり、万国博にそそぐ熱意は他社をしのぐものがあった。

昭和四十年(一九六五)十二月、まず本店に日本万国博覧会対策委員会が設置され、専務取締役荒川初雄が委員長となった。この委員会は万国博覧会協会と緊密な接触を保ち、会場計画への提案を行ない、また昭和四十一年四月、大阪商工会議所主催「万国博がやってくる」展覧会に会場計画案の模型を出展した。当時、万国博に対する世間の認識は浅く、遊園地の催物と同一視したり、国際見本市と混同される情況であったが、これらのPR活動によってしだいに理解を深め、国内企業や産業団体の参加意欲も高まってきた。そこで、営業活動を積極的に推進するため、同年十一月本店に万国博本部(本部長 谷口尚武)を設置し、本店に直属の営業課、東京支店に万博部(部長 杉山正一)をおいて活発な受注活動にはいった。さらに昭和四十二年九月、三和グループの「みどり館」出展が決定し、大林社長が総合プロデューサーとして企画いっさいを担当することになったので、みどり館建設部(部長 加藤静夫)を設けた。また翌四十三年二月には、見積り、入札等に対処するため工事部(部長 大岡昇)を新設した。

このように社内体制を確立するとともに、国内、国外をつうじ活発な営業活動を展開し、パンフレットによるPRや参加企業への企画提案等を行なった。昭和四十年十二月、「日本万国博への提案」(大林グラフ特集号)、同英文抄録を発行、続いてパンフレット「日本万国博を創る」を作成したが、これはニューヨークの世界博を参考とし、万国博のビジョンとパビリオンの提案を主としたものである。これらが発行された当時、出展を内定した企業でもパビリオンについては模索状態にあったため、各方面の注目を集め、日本経済新聞、毎日新聞両紙の紹介記事によって、多くの企業や企業グループからパンフレットの請求が殺到した。その後他の建設業者からも、パビリオンについて多くの提案が行なわれたが、これらのパンフレットはそのさきがけをなしたものである。つづいて昭和十一年十二月、英語、フランス語両文によるパンフレット"here's how OHBAYASHI-GUMI can help you with plans to participate in EXPO '70"を刊行した。これは外国の政府や州、都市、政庁、建設会社、設計事務所等によびかけたもので、銀行、商社等の海外機関をつうじて約九〇〇部を配布した。

国内企業に対するアプローチとしては、展示アイデアからパビリオンの設計プランまで、一貫したプレゼンテーションとして提案する方針をとった。各企業ともアイデアに苦慮し、広告代理業者等に依頼している状態であったから、展示企画の魅力による工事獲得を意図したものである。そのため毎日新聞の経済、科学記者を中心に、京大、阪大の学者を顧問とするアイデアグループを結成し、十数種の企画を作成すると同時に、社内からもアイデアを募集し、百数十種の応募案を得た。三和グループの「みどり館」に採用され、圧倒的な人気を博した全天全周映画アストロラマは、その成果の代表的なものである。

また昭和四十二年(一九六七)四月、カナダ建国百年を記念して開かれたモントリオール万国博は、エキスポ'70にとって絶好の実物見本であった。建設業者、出展関係者らはこぞって見学におもむいたが、大林組でも社長をはじめ多くの役職員が六カ月の会期中交代で出張し、実地について多くの教訓を得た。

「日本万国博を創る」
「日本万国博を創る」
「日本万国博への提案」
―大林グラフ特集号―
「日本万国博への提案」
―大林グラフ特集号―
海外向パンフレット
海外向パンフレット

激しい受注競争―商社と業務提携

万国博工事はまず敷地造成にはじまり、万国博協会による会場諸施設と、参加出展する内外、パビリオンの建設に大別される。会場施設はエキスポタワー、お祭り広場、美術館、万国博ホール、迎賓館をはじめ、エキスポランドの観覧車、ダイダラザウルス等の遊戯設備、地域冷房、装置道路その他きわめて広範囲におよんだ。パビリオンは、外国関係では参加七十八カ国の政府、国際機構、州、都市、企業等九三が、単独あるいは合同で設け、国内では政府の日本館、地方自治体館のほか、二八の企業および企業団体が、それぞれ未来に賭ける夢の表現をきそった。

これらの工事獲得をめぐり、激烈な受注競争が行なわれたことはいうまでもない。ことに海外での営業活動については、情報も少なく経験も浅いため、商社と業務提携せざるを得なかったが、国ごとに商社との組合わせがことなることから、情報がもれる場合もあった。また過当競争の結果、契約面等において大局的に不利をまねくおそれもあったので、のちに各商社、建設業者による協議会を設けたが、ここでも協定が守られず、競争はいよいよ激化した。特に外国展示館の花形とみられたソ連館とアメリカ館については、大手業者のはたらきかけが集中したが、大林組はアメリカ館の工事を獲得した。

外国パビリオンの受注は九件であるが、引合いのあったものは大小三四件にのぼった。しかしその大部分については、コンセプションを示す程度の平面、立面、断面の各図と略仕様書、極端なものはプランと透視図のみによって見積りあるいは入札を行なわねばならなかった。この不完全な資料により、設計、施工を予算内にまとめることは不可能に近く、しかも多くの場合言語の不自由さが障害となり、その折衝に当たる関係者の苦労はたいへんなものであった。また受注決定後も、外国建築家の設計になるものは、建築基準法と万博特別規則にもとづき、コーアーキテクトとして実施設計と確認取得を義務づけられた。契約に関しても、四会連合契約約款に準ずるものもあったが、アメリカ、ハワイ、タイ等は独自の一般契約条項によった。これらは、契約に当たり契約官のほかに法律専門官、弁護士が立会うもので、内容も抽象的表現を排しきわめて具体的であった。アメリカ館についての契約の例をあげれば、工事契約は各条項にわたって詳細をつくし、手続きも具体的に示されて契約内容は明確であった。また図面、仕様書も完璧に近いものが用意され、形の上ではいささかの不備もなかったが、これらのなかにはわが国の実情に合致しないものもあった。しかし、現場担当者がそれを説明しても聞き入れられず、あくまで文字どおり実施することが要求され、わずかの変更も契約不履行とみなされた。これは日本の建設技術に対する不信感にもとづくもので、仕様書一本槍のこの監理は、現場を当惑させたが、工事の進行につれて大林組の実力と真価が認識され、日とともにしだいに解消されていった。

以上は米国との工事契約によって得た教訓であるが、この経験により、その後の外国発注工事の施工に自信をもつようになった。また万国博工事全般をつうじての収穫には、鉄骨を主とするプレハブ化による建築技術、徹底した機械化施工、大規模プロジェクトのシステム的消化などがあげられるが、その個々については各パビリオン工事の項でのべる。

お祭り広場やアメリカ館―会場の「主役」を受注

大林組が施工した万国博工事は、土木工事においてB―2工区の敷地造成、同排水、第三工区の道路改良、お祭り広場整地、日本庭園排水等の諸工事があり、建築工事では万国博協会発注のお祭り広場とエキスポタワー、外国パビリオンではアメリカ館、スカンジナビア館、ギリシア館、キューバ館、中華民国館、ハワイ州館、タイ館、アメリカンパーク館、サンフランシスコ市館、また国内パビリオンにはみどり館(アストロラマ)、クボタ館、鉄鋼館、日本民芸館、ガスパビリオン、日立グループ館、せんい館、松下館がある。共同企業体を構成して施工したものも、エキスポタワー以外はすべて共同企業体代表として工事に当たった。また、みどり館と日本民芸館は設計施工にとどまらず、大林組みずから出展参加したパビリオンであった。

これらの建築工事が実施段階にはいった昭和四十三年(一九六八)五月、万国博会場に近く万博総合工事事務所を設け、七海実が所長に就任した。総合工事事務所は、多件数の工事を限られた地域で一斉に施工、しかも非常に切迫した工期をもって行なうために採られた現場管理のシステム化、施工の集中管理方式の実施機関で、この総合工事事務所が各パビリオンの工事事務所長を統轄し、各工事の繁閑に応じ下請の運用、仮設機材、工事機械の有機的運営をはかる新しいシステムであった。

第2回万博デー・立柱祭
(昭和43年3月15日)
第2回万博デー・立柱祭
(昭和43年3月15日)
大林組万博総合工事事務所
大林組万博総合工事事務所

シンボルゾーンの敷地造成

会場敷地は八工区に分けられ、全工区の造成は一斉に着手されたが、大林組、藤田組、東急建設による共同企業体がB―2工区を担任した。ここは中央環状線と日本庭園にはさまれ、会場の中心部東半分に当たり、シンボルゾーンを含む二万五五七〇平方メートルの地域である。

昭和四十二年(一九六八)五月着工、七月からは一二〇台のスクレーバ、一三〇台のブルドーザが投入され、一時は雨に悩まされたが、秋から以後は好天にめぐまれて、同年末には粗造成を終了した。つづいて排水路工事、道路改良工事を受注したが、同時に他業者による電気・ガス、水道、地域冷房等の地下埋設工事が行なわれたために作業は錯綜し、またしばしばの設計変更などによって工事は難行した。しかし翌四十三年三月には大部分を完了し、九月末には全敷地の造成を終了した。

着工前のB―2工区
着工前のB―2工区
敷地の造成
敷地の造成

万博建設協力会と万博建設促進協力会

この間、B―2工区を担任した共同企業体の工事事務所長大柳博(大林組)は、関係業者間の連絡、地元住民との融和、交通、騒音等の公害防止、労務者の安全衛生等をはかるため、他業者によびかけて万博建設協力会を結成した。協力会は、はじめは各業者の工事事務所長たちによる所長会議の決定により、一カ月ごとに交替する当番幹事が運営する制度であったが、関係業者が増加するとともに、昭和四十三年三月から会長制をとることとなり、大柳所長が推されて会長となった。その後建築工事の開始にともない、同年九月からは組織を改め万博建設促進協力会となり、会長も大林組万博総合工事事務所長七海実にひきつがれた。

改組後の協力会は、業者間の連絡協調から一歩を進め、施工に関する自主的実行機関となった。組織も会長のもとに総務、工事、安全衛生、労務厚生、交通防犯の五委員会をおき、責任者には各業者から人材を抜いて当てた。協力会の発足当時は道路も未完成で、資材の搬入や土砂搬出にも支障があったが、この協力会の活動によって多くの隘路が打開された。また労務者のために食堂や売店を設け、慰安会を催すなどの行事を行ない、労務者の定着と労働意欲の向上につとめた。各パビリオンの仕上げ工事がはじまった昭和四十四年(一九六九)後半には、職種によっては技能工の引抜きによる労務費の高騰が憂慮されたが、幸いそれをみなかったのも協力会の努力に負うところが多い。この協力会会員は、建設業者のほかに展示、造園、機械据付等の関係業者を含めて最盛時には二四七業者におよんだ。この多数会員を統率し、巨大な建設を円滑に推進した七海会長の業績は高く評価されており、協力会に対しては日本建築学会から万国博特別賞が与えられた。

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