第二節 幕開く超高層時代 2
日本鋼管福山製鉄所 〈昭和四十年二月~同四十七年一月(予定)〉
日本鋼管福山製鉄所は備後工業特別地域の中核をなす福山市鋼管町に、年間粗鋼一五〇〇万トンの生産を目標として計画され、高炉、転炉、分塊、熱延、冷延などの基幹施設の建設を一挙に行なう他に例をみないダイナミックな建設工事であった。工事は分割発注され、大手業者すべてがこの建設に参加したが、大林組は第一期のコークス炉(九四門)と分塊熱延工場(建築面積七万五〇〇平方メートル)、第二期の一二〇門のコークス炉と四万三〇〇〇平方メートルの厚板工場、第三期の一〇四門のコークス炉と二万六〇〇〇平方メートルの大型工場を引きつづいて受注、これらの工事はすでに終わり、現在は第四期工事として一七五門のコークス炉、第二熱延工場(二万五〇〇〇平方メートル)、第二大型工場(一万五〇〇〇平方メートル)の建設が進行中である。
コークス工場は高炉で使用する自家用コークスを生産するためのもので、炉体基礎をはじめ、上家、石炭塔、消火塔、コークワーク、押出機基礎、煙突その他を施工したが、なかでもノズルデッキ(耐火煉瓦を積み上げてつくるカマの基礎)の築造にはきびしい精度が要求された。これは一二〇〇平方メートルの床版に、径四〇ミリ、長さ三八〇ミリのパイプを埋めこむのであるが、通り誤差三~五ミリ、高さ誤差は三ミリ以内にとどめなければならない。したがって、測量、墨出しはもとより、作業全般にわたり細心の注意と努力を必要とした。コークス炉が操業しはじめると、炭塵やガスによる作業条件の悪化を防ぐため、近接した作業場ではたらく作業員の健康管理には特に配慮し、作業環況の改善につとめた。また、石炭塔の基礎は一万一〇〇〇立方メートルのウエルを二〇メートル沈下させ、六〇〇〇トンの重量にたえるものとして築造されたが、この工事で示した大林組のウエル工事の技術は抜群のものとして高く評価された。
圧延工場関係では、鋼管構造の建家、圧延機基礎その他各種機械基礎を施工した。これらの基礎築造では大小多数のアンカーボルトや、埋めこみ金物の埋設を行なったが、これもミリ単位の精度を要求された。それぞれの施設は平面的にも立体的にも構造が複雑なうえ、他の作業との関連もあり、コンクリートの打設は数十回に分けて行なうというような苦心もあった。工事事務所長は佐々木義男、請負金総額は一一八億二八〇〇万円に達した。
東京国立博物館東洋館 〈昭和四十年十月~同四十三年十月〉
上野公園の国立博物館は、正門をはいると左に大正時代の表慶館、正面に昭和初期の本館(昭和十二年完成、大林組施工)、そして右にこの東洋館が並び、それぞれ時代を異にする建築様式でありながら見事な調和を保っている。東洋館は、これまで本館に収蔵されていた東洋各地の美術工芸品を、日本文化の源流としてとらえ、体系的に陳列することを目的としたものである。展示棟は鉄骨鉄筋コンクリート造、地下一階、地上三階、付属棟は鉄筋コンクリート造、地下二階、地上三階、塔屋一階で、総延面積は一万二五三一平方メートルである。
展示棟地下室はホールと特別展示室、一階は玄関ホール、展示室、来賓室で、二、三階はそれぞれ展示室となっている。付属棟一階は事務室と食堂、地下一階は荷解き場、保存庫、会議室等のほか、映写室、録音室もあり、地下二階は機械室、空調操作室である。展示室の照明は主として人工照明であるが、吹抜け部には自然光も利用してある。空調は展示室別系統とし、保存庫および一部の展示ケースには公害防除の亜硫酸ガス除去装置が設けられている。設計は谷口吉郎氏。所長は松原芳夫、請負金は一三億八八五〇万円である。
目を見はるスピード―自動車工業の飛躍
設備投資の増大が受注ラッシュ、工事の大型化となって建設業界に反映したことは先にのべたところであるが、なかでも自動車工業部門の設備投資には目を見はらされるものがあった。
昭和二十一年(一九四六)三月末のわが国の自動車保有数はわずかに一四万台と記録されているが、昭和三十六年度のわが国の自動車生産は各車種を合わせて八八万台、それが同三十八年度には一四〇万台を突破している。このころから生産は乗用車中心の傾向を示し、各メーカーとも貿易自由化時代への対策も含めて設備の拡張を急ぎ、三十九年度の設備投資計画は一二八三億円、前年度の実績にくらべて七三%増という膨大な額を示し、工場の新設・拡張に拍車がかかった。
トヨタ自動車元町工場第二組立工場 〈昭和三十六年九月~同三十七年一月〉
この第二組立工場はトヨタ自動車の主力工場、元町工場の拡張計画の一つとして昭和三十五年六月に完成した第一期計画につづいて建設されたもので、総面積三万九九〇〇平方メートルの新鋭工場であり、さらに昭和三十八年(一九六三)七月には、同じく二万六六〇〇平方メートルのボディ工場が増築された。工期はいずれもわずか四カ月という突貫工事で、請負金は前者が五億四八五〇万円、後者が三億四九〇〇万円であった。
大林組がトヨタ自動車の工事に従事したのは昭和十二年(一九三七)九月、同社が自動車製造部門に進出を計画されたときにさかのぼる。当時はまだ挙母工場といわれていた本社機械工場の新築が最初で、戦後には技術部本館、N五、T五工場、中央食堂などを相次いで施工し、元町工場関係では、昭和三十四年(一九五九)に組立工場と塗装工場、昭和三十五年にボディ、プレス工場、機械工場等を施工した。昭和四十二年(一九六七)以後になると三好工場足回り機械工場、高岡プレス工場、同ボディ工場、堤工場プレスおよびボディ工場などを施工、これらはいずれも総面積五万平方メートルを越える大工場であるが、昭和四十五年四月に完成した堤工場プレス、ボディ工場は特に大規模で、鉄骨造平家建、延面積は一七万平方メートル、請負金は四一億四〇〇〇万円に達した。また、これらにともなう厚生施設として、東アパート、平山家族寮、豊和寮、平和町アパート、聖心和風寮、清風寮、永覚住宅、田中町独身寮、体育館その他を建設し、傍系会社荒川車体工業の工場や厚生施設をも特命で施工した。大林組元町工事事務所は、はじめは阪下昇が工事主任であったが、昭和三十七以後は根河重弘と交替した。
日産自動車座間工場プレス、フレーム工場 〈昭和三十九年三月~同年十二月〉
大林組が日産自動車の工場建設に当たったのは昭和三十年(一九五五)八月の本社工場(現・横浜工場)が最初で、その後各地の工場や従業員寮等を数多く施工している。同社では大林組の工場建設技術を高く評価され、すべて特命で発注されているが、そのうちの一つ、この座間工場(神奈川県座間町)のプレスおよびフレーム工場は軒高一六・四メートルの鉄骨造地上一階、地下一階で、総面積は二万三三二〇平方メートルである。工事総主任は神前文夫、請負金は一〇億三五五〇万円であった。その後も追加工事が相次ぎ、昭和四十六年現在の座間工場関係の請負金総額は三一億九〇〇〇万円に達している。
このほか、横浜工場、追浜工場(横須賀市夏島町)、栃木工場(上三川町)、村山工場(東京都)、荻窪工場(同)の各工場や、本牧輸出センター(横浜市)、三鷹繊維機械部(東京都)、吉原左富士寮(静岡県富士市)、上大岡家族寮(横浜市港南区)等、同社関係の工事は数多い。
ダイハツ工業池田第二工場 〈昭和三十五年七月~同三十六年十一月〉
鈑金、組立、塗装、検査、修繕の各工場棟と、事務棟、厚生施設、付属建物を合わせ総面積は七万七二三七平方メートルの大工場である。ここでは小型四輪車がベルトコンベヤシステムで生産され、コンベヤの総延長は一六キロに達する。請負金は一四億九一〇〇万円、工事総主任は植村利一であった。また、同社の池田工場(大阪府池田市)については、昭和二十七年(一九五二)以来、塗装、組立、プレス、機械等の各工場や展示場など多くの施設を建設している。
このほか、本社ビルの新築をはじめ全国各地にわたり同社営業所を施工し、最近の工事としては、昭和四十五年(一九七〇)四月着工、同四十六年二月に完成した京都プレス工場があげられる。
生産性の向上目ざし間断なき改新、拡張
日に進み日に新たなる技術革新は工場施設の間断なき改新、拡張をもとめる。したがって工事は次々とラップし、このため十数年間継続設置という異例の長い経歴をもつ工場現場さえあらわれている。
帝人松山工場 〈昭和二十九年七月~同四十六年十月〉
松山市吉田浜の帝人松山工場新設工事のため設置された大林組の工場事務所は、そのとき以来昭和四十六年まで十七年間にわたり継続して同工場の建設に従事している。この間に建設した主要施設は、昭和二十九年(一九五四)から同三十九年(一九六四)にいたるアセテート工場(総面積三万七〇〇〇平方メートル)、昭和三十二年(一九五七)から現在にいたるテトロン工場(総面積九万七〇〇〇平方メートル)ならびに福利施設約二万平方メートルの施工があり、同工場全施設の約半分に当たる。請負金は累計四〇億円余、工事の担任者は、工事開始から昭和四十四年までの十五年間にわたりふ谷芳雄、そののちは宮内達徳が担当している。
このように異例な長期現場が生まれたというのも、工場の拡張、増設が相次いで行なわれたほか、技術革新による新技術の導入にともない絶えず改造工事がくり返されたためで、特にテトロン工場の場合はいつも突貫工場となり、フル操業中の工場内で作業を行なうために関係者の心労は容易でなかった。もし万に一つでもミスがあれば工場の操業がとまり、爆発をおこすおそれさえもあった。また、わずかな不注意からホコリや水もれで製品に大損害を与えることもあり得るので、小さな改造工事でも大工事以上の細心さを必要とした。このテトロン工場は単一工場としては世界有数といわれる。
なお、この工事では、労働災害防止でも輝かしい記録をつくった。昭和四十年一月以後、同四十六年末現在にいたるまで無事故無災害をつづけており、さらにその記録を更新しつつある。
日本電気府中事業場第八工場 〈昭和三十七年九月~同四十五年十月〉
日本電気がアメリカのハネウエル社と技術提携を行なって、電子計算機部門の生産へ進出するに当たり、東京都府中市日新町に新設したのがこの事業場である。
工事は昭和三十七年(一九六二)九月、工場と男子独身寮の新築が並行してはじまった。独身寮は鉄筋コンクリート造、四階建二棟で、総面積は四一五四平方メートル、竣工は翌三十八年三月である。工場は同三十九年九月、第一期工事を終わり、引きつづき第四、第四六、第五、第一五、第六、第七各工場を順次に新築、また第二二工場の解体移築、レーダー総合試験所、リニアック棟増築工事等のほか、女子独身寮の新、増築、府中クラブ新築等、多くの厚生施設の施工に当たったが、最大のものは昭和四十五年(一九七〇)十月竣工した第八工場である。鉄筋コンクリート造、三階建、塔屋一階、総面積は二万五七五六平方メートルに達し、請負金は六億五三〇〇万円であった。なお、この工事は昭和三十九年(一九六四)七月、労働大臣の進歩賞を受け、翌四十年五月には無災害記録二一〇万時間を達成して労働基準局長から表彰された。工事事務所長は着工以来一貫して岡田昇、昭和四十五年末までの総請負金は四五億五六五〇万円である。
日本電気の工事は、大正十年(一九二一)三田工場の第九、第一一工場を受注したのが最初である。その後関東大震災に際し、三田工場の大半が倒壊したとき復旧工事を施工し、つづいて三田の同社本社および工場の新築を特命され、それ以来継続的に同社工事に従事している。昭和十一年(一九三六)、同社が川崎市玉川向に主力工場(現・玉川事業場)を新設するに当たっても全工事を一任されたが、時局の要請で工期に余裕がなく、二・二六事件当日の緊迫した空気の中で地鎮祭を強行して直ちに着工、同年七月施工したことなど、関係者にとって忘れられない思い出である。その後時局の進展により、拡張に次ぐ拡張に追われ、戦争末期には地下工場まで建設したが、空襲により全工場の四〇パーセントを失った。戦後、本格的に工事を再開したのは昭和三十二年六月から翌三十三年二月にいたる第四一工場(トランジスター工場)が最初で、引続き第四〇工場、第五一工場、研究所、西一〇一工場など同事業場の全施設を施工、現在もなお継続し、戦後の請負金総額は四六億三四〇〇万円に達している。
玉川事業場の主力施設の完工と前後してXB交換機生産のための相模原事業場の建設がはじまった。昭和三十六年(一九六一)七月着工、同年十二月竣工したB工場をはじめ、化工工場、A工場、C工場、D工場、その他付属施設等の建設がつづき、現在にいたっている。この請負金総額は、二三億六〇四四万円である。このほか、三田の本社第二別館工事も昭和四十二年(一九六七)九月から四十四年三月にかけて行なわれたが、以上の工事もすべて岡田昇が工事事務所長として担当した。
また昭和四十四年十月、同社の傍系会社九州日本電気が熊本市八幡町に電子部品を製造する熊本工場を新設したときも、動力棟、工場棟、女子寮の設計施工を特命された。同四十五年八月、第一期工事を終了し、現在第二期工事を続行中であるが、この請負金は総額一六億八一二〇万円、工事事務所長は藤次郎である。
松下電器産業奈良工場 〈昭和四十一年四月~同四十五年六月〉
大和郡山市に新設された奈良工場の建設は昭和四十一年にはじまったが、同工場のほとんど全施設は大林組が施工した。その第一は石油機器事業部の工場棟(鉄筋コンクリート造二階建二棟)と二階建の倉庫一棟で、総面積は二万平方メートル、工期は昭和四十一年四月から同四十二年三月、これとほぼ並行して同四十一年九月から翌四十二年八月までに暖房器事業部の工場二棟(総面積六三四三平方メートル)と厚生会館(総面積二〇六五平方メートル)を新築、引きつづいて同事業部の五号、六号棟を増築した。その後、昭和四十五年六月までに厨房器事業部の給湯器工場二棟、西一一号棟、電子レンジ二号棟および三階建の厚生会館(総面積五四六〇平方メートル)、住宅設備機器営業本部および同研究所等を建設した。工場はいずれも鉄筋コンクリート造および鉄骨造の二階建である。工事事務所長は阪下昇、以上の請負金合計は一七億八〇〇〇万円で、なお現在も従業員寮その他、各種工事を施工中である。
大阪府門真市の本社工場施設では、昭和三十年(一九五五)六月のラジオ組立工場の受注が最初である。以来、門真工場関係工事は、昭和四十六年末までに五十数件を数え、ラジオ、電機、部品、音響機器、無線、録音機、ステレオの各事業部諸工場のほか、教育訓練センター、厚生施設、研究所、歴史館等がある。この間の総請負金は三八億六〇〇〇万円に達し、工場事務所長は、はじめ北村謙蔵、のちに酒井捷治、現在は仲一馬である。
また神奈川県藤沢市の同社関東工場も、昭和三十六年(一九六一)から同三十八年にかけて、事務棟および工場棟の新築、増築を施工し、昭和四十五年には六月から十一月までステレオ事業部守口工場(大阪府守口市)増築工事を行なった。
同社系列の松下通信工業、松下電子工業、松下精工等、諸会社の工事も各地で施工した。松下通信工業は横浜市港北区綱島に本社工場をおき、通信機器、計測機器、音響機器の製作を行なっているが、昭和三十四年(一九五九)八月から同四十四年一月にかけて引きつづいて工場の新築、増築に当たった。いずれも鉄筋コンクリート造、三階建で、延面積の合計は四万五〇〇〇平方メートルに達した。松下電子工業の工事として大阪府高槻市の高槻工場(昭和三十一年八月~同四十五年二月)、京都府長岡町の長岡工場(昭和三十八年三月~同四十四年九月)を継続的に施工し、最近では昭和四十五年(一九七〇)三月から十月まで、岡山県備前町の岡山工場工事を行なった。この請負金合計は三三億七〇〇〇万円である。松下精工も昭和三十八年(一九六三)以来、神奈川県藤沢市の工場建設に従事し、昭和四十六年六月、増築工事が一段落した。
国土開発、新幹線建設、高速道路網の拡充
経済成長にともなう国土開発計画として経済企画庁が、京浜、京葉、阪神、名古屋をはじめ、全国各地の海岸を埋立て、土地造成をはかったのは昭和三十二年(一九五七)からのことである。これらの埋立地に多くの工場が新設され、大林組がその建設に当たったことはすでにのべたが、海にのびる新しい国土の建設においても多くの業績を残している。
また、このころ行なわれた高速道路網の拡充や水資源開発等の面でも、オリンピック関連の土木工事を含め多くの工事を施工した。所得倍増政策の進行につれて、公共投資も増加したが、宅地造成その他、民間土木工事も盛んになった。これらについて、当時大林組が行なった主要なものをのべる。
大阪境港埋立 〈第五区=昭和三十五年八月~同三十八年三月/第二区=昭和三十七年六月~同三十八年三月〉
境港の埋立は戦前から計画され、すでに一部は実施されていたが、大阪府企業局は埋立地域を第一区から第七区までに分け、まず第五区までの造成に着手した。大林組が担当したのはその第五区および第二区である。この事業は大阪南港・北港、泉北、岸和田等を含む大阪港建設計画の一環をなすもので、石油コンビナート、製鉄、電力、ガス等の大企業が誘致され、完成後は日本有数の重工業地帯となった。第二区は大阪瓦斯会社の占有地で、ここに同社堺工場が建設されたことはすでにのべたとおりである。
大林組ではこれより先この種工場の新時代が到来することを予見し、大型ディーゼル浚渫船四隻の建造に着手した。昭和三十五年(一九六〇)に就航した「浪華丸」と「柏山丸」、同三十六年の「柏隆丸」、「柏尚丸」がそれで、いずれもこの工事から用いた。当時、埋立ブームによって護岸用の割石が払底して入手が困難となったので、大林組では各地を調査した結果、兵庫県家島に割石採掘場を決定し、大発破による大量採取を行なった。割石は石材業者が小発破によって採取するのが常で、このような大仕掛けな採取作業は前例がなく、採石にまでマスプロ時代来るということで地元関係者が多数見学にきたほどであった。
大和川左岸の軟弱地盤で行なう埋立作業であるため、護岸築造の際はもとより、岸壁、防潮堤等の施工に当たっても置換砂工法による地盤改良を必要とし、また造成地に建設される工場の基礎工事では、当時としては新しいサンドドレイン工法やウエルポイント工法等が採用された。この請負金は第五区が七億四八四〇万円、第二区が一億二〇〇〇万円で、工事主任はいずれも福西義昌である。
東海道新幹線
航空機と自動車の発達により斜陽化したといわれる世界の鉄道事業が、東海道新幹線の成功によって再検討され、鉄道斜陽化論に反省を与える契機となったことは特筆しなければならない。東京、下関間を六時間でむすぶ計画は、戦前においても「弾丸列車」の名で存在したが、ついに実現をみるにいたらなかった。それが産業の高度成長にともない、新しい交通動脈として復活を要請され、とりあえず東京、大阪間に建設されたのが、この東海道新幹線である。昭和三十四年(一九五九)四月着工、東京オリンピック大会を目標に工事を進め、予定どおり同三十九年十月、全線五一五キロが開通した。このうち大林組が担当したのは、最も早く完成してモデル地区となった二宮工区をはじめ、八つの工区延長二九キロと、東京および大阪の両ターミナルである。
東京駅工事は昭和三十七年(一九六二)三月着工、これまでの七番ホームと八重洲本屋の間に、八番、九番ホームが新設され、その北端に全線の列車運転をつかさどる総合指令所が設けられた。ホーム主体は鉄筋コンクリート造ラーメン構造で、延長五九〇メートル、総合指令所は鉄骨鉄筋コンクリート造、地下二階、地上五階、総面積は七四〇〇平方メートルである。
汐留工区は同年九月着工、汐留貨物駅(鉄道開通当時の新橋駅)構内の貨物線三線を撤去し、そのあとに二線二柱式高さ七メートル五〇の高架橋を構築する工事であった。ここは東海道線の軌道に近接し、作業自体の安全はもとより隣接線路の安全確保と、貨車の荷扱いに支障を与えないよう要請されたため、工事そのものの規模は小さかったが容易ならぬ工事であった。
二宮工区は昭和三十五年(一九六〇)十月、大林組が担当した新幹線工事中、最初に着手した工区で、延長は六・五キロであるが、その間に十カ所のトンネルが点在し、地質はそれぞれことなるものであった。あるトンネルにおいては湧水の激しい砂礫層に遭遇し、逆巻工法を採用しても奏功せず、一カ月工事を中断したこともある。このときは底設導坑にトンネル工事の常識を破るウエルポイント工法を用い、この画期的な試みによって難所を克服した。
富士山麓に隣接する黄瀬川、沼津の両工区の工事は、昭和三十六年(一九六一)十一月開始された。黄瀬川工区は長さ一〇〇メートルの黄瀬川橋梁(潜函基礎五基)と跨道橋九カ所が主体で、設計変更や用地問題のため着工が遅れ、じっさいに着手したのは翌年八月であった。沼津工区は延長七・四キロ、そのうち約九〇〇メートルは七〇の小橋梁と四つの大橋梁の構築であった。切土容量約三四万立方メートル、盛土は約二八万立方メートルであるが、軟弱地盤であるためサンドマット工法やコンポーザー工法による地盤改良を行ない、橋脚基礎には長さ四八メートル、内径五〇〇ミリの鋼管斜杭を使用した。
これにつづく原(西)工区は昭和三十七年(一九六二)五月着工したが、ここも沼津工区と同様地盤が軟弱で、特に湿原地帯をわたる八〇〇メートルの橋梁構築には、鉄筋コンクリート杭、場所打ち杭、ベノト杭、大口径鋼管杭等あらゆる基礎杭工法が採用された。ここでも用地問題が紛糾し、工程回復にたいへんな苦心があった。
矢作川(やはぎがわ)工区は、太閤記の舞台として知られる矢作橋の下流、川をはさむ東西三キロずつ、延長六キロの工区である。昭和三十六年(一九六一)十月からはじまり、同三十八年九月完工した。工事は橋梁工事四一八メートル、高架区間三キロ、盛土区間約三キロであった。橋梁工事は、橋脚井筒八基と橋台二基で、井筒の底詰め施工には従来の水中コンクリートに代えて、大林組の特許工法プレパックドコンクリート工法を用いた。
大垣工区は昭和三十七年(一九六二)四月着工、一・三キロの高架と一キロの盛土工事を行なった。隣接して名神高速道路の大垣工区を施工中で、当時名古屋支店にとっては土木工事の一大拠点であった。ここも地盤が悪く、高架の基礎には径三五〇~四五〇ミリ、長さ二五~二八メートルの長大コンクリート杭を使用した。この工区は羽鳥駅設置問題等により、全線中で最後に路線が決定した地区であるため、工期に余裕がなく、突貫工事を行なわなければならなかった。
高槻工区は淀川沿いの延長二・五五キロで、全線高架橋である。昭和三十七年(一九六二)四月から同三十八年十一月まで十九カ月の工期であったが、この区間は標準高架構造の連続であるため、床版支保工を移動式とした「トラベラーステージング工法」を開発し、大きな成果をあげた。
新大阪駅の建築関係の工事についてはすでにのべたが、土木部が担当した駅本体は三層五径間の連続鉄骨ラーメン構造で、ここに使用される鉄骨の総重量は一万五〇〇〇トンに達した。柱には径九〇センチ、長さ一四・六メートルの鋳鋼管(重量約三六トン)、梁には長さ二〇メートルの鉄骨(重量約二五トン)が用いられ、これを約四二万本の高張力ボルトで締めつけたが、鉄骨の組立には当時最大のクレーンであるP&H九五五ALCを使用した。高架広場は一層二径間連続の鉄筋コンクリートラーメン構造で、広さは七二〇〇平方メートル、基礎は径約一メートルのベノト杭九四基で支持され、自動車一〇〇台を収容できる。
東海道新幹線はわが国の有力業者を総動員して建設された。建設費の総額は約三八〇〇億円といわれ、大林組の施工額は一〇一億三〇〇〇万円に達している。
羽田、浜松町間モノレール(第七工区) 〈昭和三十八年一月~同三十九年九月〉
羽田空港と東京浜松町をむすぶモノレール線は、自動車交通の混雑緩和、時間短縮等の目的で、東京オリンピックを目標に建設された。軌道は主として海上に架けられ、延長一三・二キロを一五分でむすぶものであるが、これまで遊園地などで用いられたモノレールを交通機関として実用に供した最初のもので、輸送力や規模では世界に類がないといわれた。発注は日立製作所、形式は日立アルウエーグ跨座式である。
大林組が担当した第七工区は、品川区勝島町地先の海上二・六キロの区間で、埋立工事、基礎工事、一一六基の支柱工事等を施工した。この工事では同業十数社が各種の場所打杭、ウエル、ケーソン等あらゆる基礎工法を競い合ったが、大林組ではリバースサーキュレーション工法を採用した。この工法は、仮設桟橋あるいは船上から、ドリルによって海中を掘削し、そのなかに水中コンクリートを打設する工法であるが、水を利用して静水圧で壁面を安定させながら掘削するので、従来の掘削機のようにケーシングを必要としないという利点があり、当時、国鉄が試験的に用いていた段階で、海上で使用するのは最初であったため、各方面から注目された。工区中八〇〇メートルは桟橋施工、六二〇メートルは船舶施工で、工事中に動員された作業船の数はおびただしく最盛時には七〇隻以上に達した。工事主任は黒川徳太郎、請負金は一二億六〇〇万円である。
東名高速道路
東名高速道路は、東京、名古屋間三四六・四キロをむすび、小牧市で既設の名神高速道路に接続する有料高速自動車道路で、昭和三十八年(一九六三)十月着工、同四十四年五月二十六日開通した。東京、厚木間は六車線、厚木、小牧間は四車線とし、この間にインターチェンジ二二、サービスエリア六、パーキングエリア一六、バス ストップ三〇がある。路面の両端部には故障車の駐車にそなえて幅員三・二五メートルの路肩が設けられており、また全線にわたりクロソイド曲線(平面曲線)が大幅にとり入れられていて、名神の直線区間が四二%であるのに対し、東名では直線部分はわずかに五%にすぎない。
東名高速道路建設に当たり、大林組が施工した区間を着工順にあげると次のとおりで、請負金総額は四九億七八〇〇万円に達した。
豊田工区=愛知県豊田市本地町~清水町間、トランペット型インターチェンジを含む三キロ 〈昭和四十年五月~同四十二年二月〉 工事事務所長 石原毅(矢作建設との共同企業体による)
佐久米工区―静岡県三ヶ日町~佐久米間二キロならびに浜名湖サービスエリア 〈昭和四十一年八月~同四十三年十月〉 工事事務所長 石原毅、のち内田稔郎(秋島建設との共同企業体による)
愛鷹(あしたか)西工区―静岡県沼津市原町大字井手~大字熊堂間五・三キロ 〈昭和四十一年八月~同四十三年十一月〉 工事事務所長 堀録郎(間組との共同企業体による)
秦野工区―神奈川県秦野市西大竹~南矢名間三・四キロ 〈昭和四十一年八月~同四十三年八月〉 工事事務所長 桑原宏次(星野土木との共同企業体による)
浜名湖畔の佐久米工区は国鉄二俣線に並行する海中盛土区間、海中高架橋区間、陸上盛土高架橋区間、国鉄に接近並行する切盛土区間から成り、土工事九一万立方メートル、カルバート四カ所、高架橋四一〇メートル、オーバーブリッジ一を含む延長二キロの工事であるが、浜名湖岸に沿う延長七〇〇メートルの海中盛土工事は、道路公団の設計では海底の厚いヘドロ部分を岩砕の空隙内部におさめ、海底盤をつくるというものであったが、これは施工上、工期上に難点があるため、大林組独自の工法をとり、ヘドロ部分を盛土外に押出すことによって成功した。また陸上部の軟弱地盤に盛土を行なったときは地すべりが発生したが、道路公団の試験所、大林組技術研究所、現場事務所が一体となって検討に当たり、コンピューターを活用、きわめて短時日に必要データを解析し、その後の工事を順調に進めることができた。
なお、浜名湖サービスエリアは、敷地面積一四万平方メートル、規模において東洋一と称され、乗用車三四〇台、バス一〇〇台を収容し、風光も沿道第一といわれる。
川崎市水道第七期拡張導水路 〈昭和四十年八月~同四十二年七月〉
京浜工業地帯の中核をなす川崎市では、市勢の伸張にともない上水道需要が急増し、一日当たりの配水量は三九万立方メートルにも達したため、かねて実施中の第六期工事の終了を待たずしてこの第七期拡張工事に着手することとなった。工事は城山ダムに水源をとり、西長沢浄水場にいたる二五・五キロの導水路隧道の築造であるが、大林組はこのうちの「その二」工事、四・七キロの区間(神奈川県相模原市上九沢~同矢部新田)を担当した。水路位置は地下四〇メートルに計画されていたため、全面的にシールド工法(シールド外径四三二〇ミリ)を採用し、発進竪坑の土留壁にセグメントを組立てて、安全かつ経済的な施工を行なった。
相模原台は工場誘致が困難なほど水のない地域といわれていたが、着工してみると予想に反して大湧水に遭遇し、湧水処理にたいへんな苦労があった。川崎市水道局は、位置、勾配、仕上り断面、巻厚を指示したのみで、他は業者の責任施工とし、工法や竪坑の位置等はすべて一任するという、進歩的な施工管理システムをとり、また、労務者の生活環境向上のために仮設建物は近代的なプレハブ二階建宿舎とすること、娯楽室、食堂、管理棟等を別棟として設けることなど、それまでにない施設が要求された。しかしこの環境改善が工事の能率向上、安全管理に役立ったことはいうまでもない。工事事務所長は森実二で、請負金は二七億一四五〇万円である。
利根大堰 〈昭和四十年十月~同四十三年六月〉
水資源開発公団の発注により、利根川河口から一五四キロ遡った中流部、埼玉県行田市加須地区に建設した大堰堤である。この利根大堰と上流部の矢木沢、下久保の両既設ダム、将来建設を予定される草木ダム、利根川河口堰を総合調整し、右岸の取水施設によって最大一三六トン(秒)を取水し、東京都と埼玉県に上水道、埼玉、群馬両県に農業用水を供給する計画で、また隅田川浄化にも用いられる。
堰は全幅六九二メートルのコンクリート造で、ゲートは四〇メートルのもの一〇基、二五メートルのもの二基、このほか魚道三カ所が設けられており、管理橋、取水口、揚水桟橋や低水路護岸工事なども施工した。工期は三基に分けられたが、河川管理上、施工は冬季の渇水期に限られたために各期とも突貫工事とならざるを得なかった。工事事務所長は後藤堯俊、請負金は二〇億八二〇〇万円である。なお、このころ大阪では吹田市泉浄水場拡張、寝屋川市豊野浄水場凝集沈澱池新設などの水道関係工事を施工した。
野村不動産鎌倉住宅地 〈昭和三十七年九月~同四十五年三月〉
大都市における住宅不足は、主として用地難による場合が多く、住宅公団や自治体等は周辺地帯に宅地造成を進めたが、この時代になると民間不動産業者も進出した。当時東京付近で開発が盛んに行なわれたのは、東京都の西部地区、千葉県の北総地区、神奈川県の湘南地区等であるが、野村不動産の鎌倉住宅地もその一つである。
ここは湘南鎌倉市の梶原山、太平山、丸山の八三万六九〇〇平方メートルにわたる高低差六〇~八〇メートルの丘陵地帯を大型重機械によってひな段式に造成したもので、樹木の伐採によっておこる降雨時の流水と、流土砂の防止には特別の配慮がなされている。道路、公園、上下水道、都市ガス等すべて完備しており、集合住宅四〇棟、戸別住宅一七〇〇戸と、店舗、診療所、郵便局、学校等の施設がある。総面積に対する集合住宅地の面積は約九%、戸別住宅地は約六一%に当たり、戸別住宅の一宅地面積は二〇〇~二七〇平方メートルである。