大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第四章 深まる軍事色

第二節 好況―高まるインフレの足音

続々と電力、重化学工業工事

満州事変を契機としてわが国経済はようやく不況を脱したが、それとともに軍事的色彩を濃くした。産業の伸長は前にのべた繊維業界のほか鉄鋼、金属、硫安、電気など重化学工業方面にもいちじるしく、昭和八年(一九三三)四月には日本製鐵会社法が公布され、国営の八幡製鐵所と三菱、富士など民間五大製鉄会社の大合同が実現した。三菱造船、三菱航空機両会社の合併による三菱重工業や、理研重工業の設立、大阪鉄工所の日産コンツェルンによる吸収など、この方面の企業規模拡大も相次いだ。これらに加え、電源開発も盛んになり、水力発電所、火力発電所が続々建設された。昭和八年、関西共同火力尼崎第一発電所の出力は五万三〇〇〇キロワットにすぎなかったが、全工事が完成した昭和十一年末の総出力は二一万五〇〇〇キロワットに達していた。

この情勢は土木、建築に反映して、業界にも好況がおとずれ、大林組の株主配当も昭和七年の年七分を、同九年には一割に回復することができた。しかし、インフレーションによる資材、ことに鋼材の値上がりや労務費の高騰には少なからず悩まされた。

この年代に大林組が施工した主要工事を種別にあげると、次のとおりである。

  • 繊維―日本化学製糸新居浜工場、帝国人絹三原第一、第二各工場、昭和レーヨン敦賀工場、大日本紡績垂井、高田各工場、鐘淵紡績住道工場、新興人絹大竹工場、東邦人造繊維徳島工場、東洋紡績敦賀工場、倉敷絹織岡山、西条各工場
  • 重工業、電力―日本電気第八、第十各工場、東洋高圧本工場、日本電力黒部川第二発電所小屋平堰堤、関西共同火力尼崎第一発電所、中国合同電気三蟠発電所、東京電燈鶴見発電所
  • 軍施設―大湊航空隊格納庫、呉航空隊庁舎、小倉兵器支廠兵器庫、飛行第七連隊格納庫、熊谷陸軍飛行学校
  • その他―日本工学大井工場、南海ビル、大阪株式取引所、阪神競馬倶楽部、東京日本生命館、日本電報通信社、伊藤萬本社、宮内省庁舎、帝室博物館、大阪中央放送局、大阪地下鉄本町四丁目~北久太郎町間、阪神電鉄元町~神戸間地下線、長柄橋、天神橋、釜山渡津橋

ここにあげた大阪の南海ビルと東京の日本生命館は、ともに髙島屋百貨店が使用するために建てられ、その後それぞれ増築を重ねたが、当初の姿はそのままに残されている。また日本電報通信社は中央区銀座西七丁目に株式会社電通の別館として現存している。

東京日本生命館は中央区日本橋通二丁目にあり、昭和五年(一九三〇)八月着工、同八年一月末に完成した。地下二階(一部三階)、地上八階の鉄骨鉄筋コンクリート造で、設計は懸賞応募による高橋貞太郎氏、設計管理片岡建築事務所、現場主任は船本晋である。建坪は九三七坪(三〇九二平方メートル)、総面積は八八八七坪(二万九三二七平方メートル)で、東洋風を基調とした近世様式の偉容は注目をひいた。この前年、白木屋の火災で死傷者があったことから、防火には特に留意し、大野式シャッター、能美式自動火災警報器がそなえられたが、東京の百貨店でこの種設備をもったのはこれが最初である。

帝室博物館は今は国立博物館と名を改めている。昭和七年(一九三二)末に着工、同十二年十一月の竣工までに五年の歳月を費やした。設計はこれも懸賞募集により渡辺仁氏の作品が採用されたが、募集規定に「建築様式ハ内容ト調和ヲ保ツ必要アルヲモツテ、日本趣味ヲ基調トスル東洋式トスルコト」とあり、この時代を反映した民族主義的色彩の強いものである。中二階を含む地下二階、地上二階の鉄骨鉄筋コンクリート造で、主として一階は彫刻、工芸、二階は絵画などの陳列に当てられている。床面積は六五〇〇坪余(二万一五〇〇平方メートル)で、内装は壮麗をきわめ、請負金額は四〇〇万円に近かった。工事主任は佐野源次郎であった。

日本電力株式会社黒部川第二発電所小屋平堰堤
〈富山〉昭和11年8月竣工
日本電力株式会社黒部川第二発電所小屋平堰堤
〈富山〉昭和11年8月竣工
関西共同火力株式会社
尼崎第一発電所
〈尼崎〉昭和10年9月竣工
設計 横河工務所
関西共同火力株式会社
尼崎第一発電所
〈尼崎〉昭和10年9月竣工
設計 横河工務所
東京電燈株式会社
鶴見発電所
〈川崎〉昭和10年9月竣工
設計 内藤多仲事務所
東京電燈株式会社
鶴見発電所
〈川崎〉昭和10年9月竣工
設計 内藤多仲事務所
南海ビルディング
〈大阪〉昭和7年4月竣工
設計 久野建築事務所
南海ビルディング
〈大阪〉昭和7年4月竣工
設計 久野建築事務所
日本電報通信社
〈東京〉昭和8年11月竣工
設計 横河工務所
日本電報通信社
〈東京〉昭和8年11月竣工
設計 横河工務所
東京日本生命館
(髙島屋東京店)
〈東京〉昭和8年1月竣工
設計 高橋貞太郎
片岡建築事務所
東京日本生命館
(髙島屋東京店)
〈東京〉昭和8年1月竣工
設計 高橋貞太郎
片岡建築事務所
帝室博物館本館
〈東京〉昭和12年11月竣工
設計 渡辺仁建築工務所
帝室博物館本館
〈東京〉昭和12年11月竣工
設計 渡辺仁建築工務所
大阪株式取引所
〈大阪〉昭和10年4月竣工
設計 長谷部竹腰建築事務所
大阪株式取引所
〈大阪〉昭和10年4月竣工
設計 長谷部竹腰建築事務所
NHK大阪中央放送局
〈大阪〉昭和10年10月竣工
設計 渡辺仁建築工務所
NHK大阪中央放送局
〈大阪〉昭和10年10月竣工
設計 渡辺仁建築工務所
宮内省庁舎
〈東京〉昭和11年10月竣工
設計 宮内省
宮内省庁舎
〈東京〉昭和11年10月竣工
設計 宮内省
帝国人造絹絲株式会社
岩国工場(増築)
〈岩国〉昭和6年8月竣工
帝国人造絹絲株式会社
岩国工場(増築)
〈岩国〉昭和6年8月竣工
東洋レーヨン株式会社
滋賀工場(増築)
〈大津〉昭和8年7月竣工
東洋レーヨン株式会社
滋賀工場(増築)
〈大津〉昭和8年7月竣工
淀屋橋
〈大阪〉昭和8年1月竣工
設計 大阪市
淀屋橋
〈大阪〉昭和8年1月竣工
設計 大阪市
大江橋
〈大阪〉昭和8年1月竣工
設計 大阪市
大江橋
〈大阪〉昭和8年1月竣工
設計 大阪市
天神橋
〈大阪〉昭和9年3月竣工
設計 大阪市
天神橋
〈大阪〉昭和9年3月竣工
設計 大阪市

室戸台風―応急工事出動に水杯

昭和九年(一九三四)九月二十一日朝、大阪地方を襲った室戸台風は、気圧九一二ミリバール、気象台の風速計は六〇メートルを示したまま吹き飛ばされるという空前の大暴風雨であった。大阪築港における高潮は五・三五メートルに達し、濁水は大正、此花、港の全区と浪速、西淀川、西成、住吉の臨海地帯にあふれた。大阪市の死者、行方不明者九九〇名、重軽傷者一万七〇〇〇名、家屋の全半壊流失は四〇〇〇戸を越え、全市戸数の二五%が浸水した。四天王寺の五重の塔もこのとき倒壊した。

官公民とも建造物は大被害を受け、なかでも小学校は全市二四四校のうち、全半壊あるいは大破したもの一七六校、棟数四八〇余におよんだ。ことに悲惨だったのは、学童の登校時であったため、児童の死亡者二七〇名、重軽傷者一八〇〇名に達し、さらに多数の教職員、保護者が被災したことである。また建設工事が進行中の大阪築港も、大桟橋の三分の二を洗い流され、南北防波堤のコンクリートブロック、一個八トンのもの数千個が海底に沈んだ。

大林組が各所で施工中の工事現場も被害を受け、総動員で復旧に着手したが、府・市当局から築港および四ツ橋変電所、築港倉庫など多くの応急工事を下命され、井上伊佐武が主任として復旧修理に当たった。また、小学校の仮校舎新築も、九条第二小学校など一〇校を担当し、これを二区に分け、第一区は小野五作、第二区は本間武男が工事主任となり、昼夜兼行で作業に当たった。当時すでに鉄筋コンクリート建築であった三一校には、まったく被害がなかったのにかんがみ、その後新築されるものは全部本建築となった。周辺都市の復旧もすべて本建築とされたため学校建築は大阪付近が全国一といわれるようになった。このほか、鶴町市営住宅の壁の塗りかえ、屋根の葺きかえなども行ない、また大阪府の要請で福岡県から屋根瓦をとりよせ、委託販売を行なって復興に尽力した。

被害範囲は広く、多くの復旧活動を行なったが、なかでも特筆すべきは災害直後の阪神電鉄左門殿橋工事である。この橋は神崎川の支流にかかっていた阪神電鉄国道線の橋梁で、台風の襲来とともに橋脚を洗われ危険に瀕した。この復旧には砂利一五〇坪(九〇〇立方メートル)を投入し、河底を安定させなければならなかったが、この砂利を得ることは容易でなかった。資材担当者は、腰を没する汚水のなかをたずね歩き、ようやく下請負の奥村商店(現・奥村組土木興業)で入手し、翌二十二日早朝、まだおさまらぬ風浪をおかし、船で現場に運搬した。これで早急に復旧を終わり、阪神電鉄当局から多大の感謝を受けたが、このときの作業員は出動に当たり水杯をかわしたといわれる。

左門殿橋
〈尼崎〉大正15年11月竣工
左門殿橋
〈尼崎〉大正15年11月竣工

物故者慰霊祭

昭和十年(一九三五)五月十九日、大林組慰霊祭が本店六階講堂で挙行された。創立者芳五郎以下役職員、下請業者、殉職した下請従業員のほか、砂崎庄次郎、岩下清周、片岡直輝氏ら、大林家および大林組の縁故者、後援者の霊を合わせ祭ったものである。社長大林義雄が祭主、専務白杉亀造が委員長となり、祭主祭文ののち、遺族を代表して伊藤博之社員(故伊藤哲郎常務嗣子)があいさつをのべた。これを第一回として、その後慰霊祭は毎年秋季に行なわれ、終戦後の混乱時には一時中断されたが、昭和二十七年(一九五二)に復活し、現在にいたっている。

なお昭和四十四年(一九六九)十月十八日、その第二十八回を四天王寺で挙行するに当たり、同寺内に大林組供養塔を建立し、同日開眼法要をいとなんだ。供養塔は高さ二・八七メートルの大島産御影石で、小豆島北木産御影石の基壇の上に建てられ、五輪正面には出口四天王寺管長筆にかかる「空・風・火・水・地」の五文字がきざまれている。

大林組供養塔
大林組供養塔

社歌を制定

昭和十年、大林組社歌を制定した。歌詞は次のとおりで、儀式や集会に際して愛唱された。作詞者名が大林組となっているのは、社内の懸賞募集によったためである。

大林組社歌

作詞 大林組
補詞 富田砕花
作曲 山田耕筰

(一)礎(いしずえ)すでに置(お)かれたり
のぼる国威(こくゐ)に先駆(さきが)けて
花(はな)とも匂(にほ)へこの技術(ぎじゆつ)
層々高(そうそうたか)く築(きづ)きつつ
やがて青雲(あおぐも)凌(しの)ぐもの
おお われ等(ら) 大(だい)「大林(おほばやし)」

(二)鵬翼(ほうよく)伸(の)ぶる幾千里(いくせんり)
曠野(くわうや)の果(はて)に使(つかひ)して
身(み)を黄塵(くわうぢん)に暴(さら)しては
土木(どぼく)を起(おこ)し 開拓(かいたく)の
不撓(ふたう)の力振(ちからふる)ふもの
おお われ等(ら) 大(だい)「大林(おほばやし)」

(三)摩天(まてん)の柏(かしは) 葉(は)を繁(しげ)み
枝(えだ)はおのづと異(こと)なれど
大地(だいち)に深(ふか)く根(ね)ざしつつ
内外固(ないぐわいかた)き 友愛(いうあい)の
心一(こころひと)つに結(むす)ぶもの
おお われ等(ら) 大(だい)「大林(おほばやし)」

(四)賭(か)くるは生命(いのち)然諾(ぜんだく)の
任侠(にんけふ)の子(こ)ぞ君知(きみし)るや
見(み)よ 大淀(おほよど)の水清(みずす)みて
百錬(ひやくれん)の冴(さ)え かがやかに
社業(しやげふ)のほこり映(うつ)すもの
おお われ等(ら) 大(だい)「大林(おほばやし)」

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