第一節 日華事変の拡大と戦時体制の強化
軍需産業・軍事施設―急ピッチで拡張
犬養内閣の財政転換によって、わが国経済はやや明るさをとりもどしたが、世相は逆に険悪の度を加えた。満州建国を機に盛り上がった軍部少壮将校や右翼青年たちの革新の叫びは、折りからドイツに台頭したナチスの運動などに刺激され、力による現状打破に向かった。金解禁に際しての財閥のドル買いが問題とされ、政党もまた彼らと結託するものとして糾弾された。一人一殺を主義とする血盟団が組織され、昭和七年(一九三二)二月には井上前蔵相が、三月には三井合名理事長団琢磨が暗殺された。つづいて五月十五日、犬養首相は海軍将校、陸軍士官学校生徒らにおそわれ官邸で射殺され、政党政治は終わりを告げた。
世界恐慌後の国際経済は、アメリカのニューディール政策採用によって一応回復の緒についたが、各国間の貿易競争はいよいよ激化した。ベルサイユ体制打破を宣言したドイツは、植民地再分割を要求し、英、米、仏などの自由主義諸国と対立し、日本もまた「持たざる国」としてこれと同じ立場にあった。昭和七年七月成立したオッタワ協定による英連邦内ブロック経済結成は、これらに対する自衛手段であったが、進出を阻止された側にとっては死活問題であった。
日満一帯の経済体制は、その対応策としてつくられたが、それのみでは日本の必要を満たすに足らず、さらに華北にまで進出しようとして中国との摩擦を激しくした。これを推進しようとする陸軍の要求は、巨額の軍事費としてあらわれ、岡田内閣の藤井蔵相は辞任を余儀なくされた。代わった高橋蔵相も、これを押えようとして、昭和十一年(一九三六)、二・二六事件で殺され、時局は急速に軍国化した。新たに成立した広田内閣は、軍部大臣の現役制を復活し、馬場蔵相は就任早々に公債漸減政策の放棄、増税を宣言して全面的に軍部の要求に屈した。のちに三国同盟に発展する日独防共協定も、この年十一月、ベルリンで調印された。
非常時意識が高揚され、わが国経済は高度国防国家建設の名のもとに、急速に軍事化の方向をたどった。インフレによる物価上昇はあったが、景気は活況を呈し、軍需産業の設備投資は増大し、軍事施設の新設、拡張も相次いで、建設業界も大いに繁栄した。昭和十一年(一九三六)~十五年(一九四〇)における主要業者一〇社の平均年間工事施工高は別表のとおりである。
会社名 | 金額(万円) |
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大林組 | 11,800 |
清水組 | 9,371 |
大倉土木 | 6,274 |
竹中工務店 | 4,834 |
間組 | 4,300 |
西松組 | 3,471 |
鹿島組 | 2,804 |
鴻池組 | 1,956 |
錢高組 | 1,955 |
広島藤田組 | 1,787 |
古川修氏著「日本の建設業」による
大林組が昭和十一年(一九三六)に受注した工事も、次のように時局を反映したものが多くなっている。
三菱重工業横浜造船所、同東京および玉川機器製作所、川崎造船各務原飛行機工場、昭和鉱業竹原電錬工場、日本電気三田第四~第七工場、同玉川向第四~第八工場、東北振興電力蓬莱発電所、東京電燈信濃川発電所、日本電力黒部川第三発電所、東邦電力下原水力発電所、東京地下鉄四谷見付~新宿御苑間、大阪地下鉄阿倍野線、阪神電鉄大阪駅前地下延長線
これらの工事のうち、あらゆる産業の動力源である電力の開発には最も力が注がれ、東京電燈(昭和十四年、電力国家管理により日本発送電会社に統合)の信濃川発電所新設工事は、当時における最大のものであった。大林組の担当は、発電所、放水路、鉄管路、水槽、調整池およびこれを連絡する複線隧道工事で、昭和十一年(一九三六)八月着工、同十六年十月完成まで五年余を要し、請負金額は六七七万円であった。
工事が長期にわたったのは、現場が豪雪地帯で冬期作業が困難だったこと、当時のこととて重機械類がなかったことなどによるものである。掘削用にエアコンプレッサと削岩機、運搬用にガソリン機関車や蓄電池機関車、木製トロッコがあった程度で、その他はミキサ、ウインチ、渦巻きポンプなどが主たる機器であった。また運搬には架空索道も用いられた。信濃川の河原から隧道坑口まで、約四~五キロの間隔にケーブルを架設し、骨材、セメントなどをバケットで運搬するもので、全工区に五基設けられた。豪雪地帯の工事でありながら、除雪機械などがなかったための手段で、バケットは五〇秒ごとに一台の割合いで送られ、作業は昼夜兼行で行なわれた。この発電所の出力は一九万キロワット、東洋一と称された鴨緑江水豊発電所に次ぐ規模であった。
工事の増大は内地だけでなく、朝鮮でも飛行第九連隊本部、東洋紡績京城工場などがあり、京城出張所を支店に昇格させ業務の拡大にそなえた。こうして業績は大いにふるい、株主配当金も一割三分と、前期に比して三分の増配を行なった。
時局に対応―倍額増資
このような工事量増加は、物価騰貴と相まって資金需要を旺盛にさせ、増設業界も増資する企業が相次いだ。大林組も資本の倍増を計画し、その方法を合併増資によることとして、昭和十一年(一九三六)末、資本金十万円の株式会社第二大林組を設立した。役員は社長大林義雄、取締役は白杉亀造、近藤博夫、中村寅之助、監査役大林亀松の五名である。この間準備をととのえ、翌十二年三月、これまでの株式会社大林組を、第二大林組に吸収合併し、資本金を一〇一〇万円に増加し、商号を株式会社大林組とした。役員は次のとおりである。
社長 大林義雄、専務取締役 白杉亀造、常務取締役 植村克己、同 鈴木甫、同 近藤博夫、同 中村寅之助、取締役 本田登、同 高橋誠一、同 石田信夫、同 久保弥太郎、同 宇高有耳、監査役 大林亀松、同 小原孝平、同 妹尾一夫
昭和十二年(一九三七)七月七日、北京市外芦溝橋でおこった日華両軍の衝突は、たちまち華北全土に拡大し、さらに上海におよんで日華事変となった。前年末の西安事件により、国民政府と中国共産党は抗日戦線の統一を決定して、戦線はさらに広がった。日本陸軍は北支那方面軍、第一軍、第二軍を編成し、海軍は中国沿岸封鎖を宣言して、宮中に大本営が設置された。宣戦布告こそ行なわれなかったが、事実上の日中全面戦争であり、のちには太平洋戦争に発展した。
日本は国をあげて戦時体制を強化し、事変勃発二カ月後の九月十日、二二〇〇億円余の臨時軍事公債を発行すると同時に、臨時資金調整法、軍需工業動員法の適用に関する法律、米穀応急措置法、臨時肥料配給統制法、輸出入品等臨時措置法、臨時船舶管理法など重要統制法六件を公布した。建設業関係では翌十月、鉄鋼工作物築造許可規則が制定され、鋼材の使用は大幅に制限された。鉄骨造、鉄筋コンクリート造の普及により、建設資材としての鋼材使用量は漸増し、この年の鉄鋼総使用量五五〇万トンのうち、業界の消費は一五六万トンと第一を占めていたが、これを頂点として急落を示した。昭和十三年には六〇万トン、同十四年は二一万トン、同十五年は一三万トンと、実に三年間に一〇分の一以下に激減したのであった。
昭和十三年(一九三八)四月、経済統制の基本法として国家総動員法が公布され、わが国経済は完全な強権下におかれた。建設生産もほとんど軍事施設と軍需産業部門に限られ、一般公共施設の建設などは資材の面からも不可能となった。また、消費物資の欠乏による使用制限や配給制の実施は、必然的に物価騰貴を招き、ヤミ価格を生む原因となった。昭和十二年の東京卸売物価指数(日銀調査)は前年に比し二一%の急上昇を示し、これにともない労務賃金も高騰した。価格等統制令、賃金臨時措置令などにより、物価、賃金の釘付けを行なったのは、昭和十四年(一九三九)九月十八日であるが、これを励行するのは至難のわざであった。
このころ大林組が施工した例外的なものに、京都(淀)競馬場がある。昭和十二年二月着工、翌十三年七月竣工したが、請負金額四〇〇万円を越える大工事で、「不急不要事業」の最後というべきものであった。次にかかげるのは大林組の労務賃銀表のうち、満洲事変当時と、日華事変当時における京阪神地方のものの比較である。京浜、東海、北陸、中国、四国、九州など各地区それぞれに若干の相違があるが、京阪神が最も高額であった。