大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第五章 工事消化量、業界第一位へ

第一節 日華事変の拡大と戦時体制の強化

軍需産業・軍事施設―急ピッチで拡張

犬養内閣の財政転換によって、わが国経済はやや明るさをとりもどしたが、世相は逆に険悪の度を加えた。満州建国を機に盛り上がった軍部少壮将校や右翼青年たちの革新の叫びは、折りからドイツに台頭したナチスの運動などに刺激され、力による現状打破に向かった。金解禁に際しての財閥のドル買いが問題とされ、政党もまた彼らと結託するものとして糾弾された。一人一殺を主義とする血盟団が組織され、昭和七年(一九三二)二月には井上前蔵相が、三月には三井合名理事長団琢磨が暗殺された。つづいて五月十五日、犬養首相は海軍将校、陸軍士官学校生徒らにおそわれ官邸で射殺され、政党政治は終わりを告げた。

世界恐慌後の国際経済は、アメリカのニューディール政策採用によって一応回復の緒についたが、各国間の貿易競争はいよいよ激化した。ベルサイユ体制打破を宣言したドイツは、植民地再分割を要求し、英、米、仏などの自由主義諸国と対立し、日本もまた「持たざる国」としてこれと同じ立場にあった。昭和七年七月成立したオッタワ協定による英連邦内ブロック経済結成は、これらに対する自衛手段であったが、進出を阻止された側にとっては死活問題であった。

日満一帯の経済体制は、その対応策としてつくられたが、それのみでは日本の必要を満たすに足らず、さらに華北にまで進出しようとして中国との摩擦を激しくした。これを推進しようとする陸軍の要求は、巨額の軍事費としてあらわれ、岡田内閣の藤井蔵相は辞任を余儀なくされた。代わった高橋蔵相も、これを押えようとして、昭和十一年(一九三六)、二・二六事件で殺され、時局は急速に軍国化した。新たに成立した広田内閣は、軍部大臣の現役制を復活し、馬場蔵相は就任早々に公債漸減政策の放棄、増税を宣言して全面的に軍部の要求に屈した。のちに三国同盟に発展する日独防共協定も、この年十一月、ベルリンで調印された。

非常時意識が高揚され、わが国経済は高度国防国家建設の名のもとに、急速に軍事化の方向をたどった。インフレによる物価上昇はあったが、景気は活況を呈し、軍需産業の設備投資は増大し、軍事施設の新設、拡張も相次いで、建設業界も大いに繁栄した。昭和十一年(一九三六)~十五年(一九四〇)における主要業者一〇社の平均年間工事施工高は別表のとおりである。

平均年間工事消化量
(昭和11~15年)
会社名 金額(万円)
大林組11,800
清水組9,371
大倉土木6,274
竹中工務店4,834
間組4,300
西松組3,471
鹿島組2,804
鴻池組1,956
錢高組1,955
広島藤田組1,787

古川修氏著「日本の建設業」による

大林組が昭和十一年(一九三六)に受注した工事も、次のように時局を反映したものが多くなっている。

三菱重工業横浜造船所、同東京および玉川機器製作所、川崎造船各務原飛行機工場、昭和鉱業竹原電錬工場、日本電気三田第四~第七工場、同玉川向第四~第八工場、東北振興電力蓬莱発電所、東京電燈信濃川発電所、日本電力黒部川第三発電所、東邦電力下原水力発電所、東京地下鉄四谷見付~新宿御苑間、大阪地下鉄阿倍野線、阪神電鉄大阪駅前地下延長線

これらの工事のうち、あらゆる産業の動力源である電力の開発には最も力が注がれ、東京電燈(昭和十四年、電力国家管理により日本発送電会社に統合)の信濃川発電所新設工事は、当時における最大のものであった。大林組の担当は、発電所、放水路、鉄管路、水槽、調整池およびこれを連絡する複線隧道工事で、昭和十一年(一九三六)八月着工、同十六年十月完成まで五年余を要し、請負金額は六七七万円であった。

工事が長期にわたったのは、現場が豪雪地帯で冬期作業が困難だったこと、当時のこととて重機械類がなかったことなどによるものである。掘削用にエアコンプレッサと削岩機、運搬用にガソリン機関車や蓄電池機関車、木製トロッコがあった程度で、その他はミキサ、ウインチ、渦巻きポンプなどが主たる機器であった。また運搬には架空索道も用いられた。信濃川の河原から隧道坑口まで、約四~五キロの間隔にケーブルを架設し、骨材、セメントなどをバケットで運搬するもので、全工区に五基設けられた。豪雪地帯の工事でありながら、除雪機械などがなかったための手段で、バケットは五〇秒ごとに一台の割合いで送られ、作業は昼夜兼行で行なわれた。この発電所の出力は一九万キロワット、東洋一と称された鴨緑江水豊発電所に次ぐ規模であった。

工事の増大は内地だけでなく、朝鮮でも飛行第九連隊本部、東洋紡績京城工場などがあり、京城出張所を支店に昇格させ業務の拡大にそなえた。こうして業績は大いにふるい、株主配当金も一割三分と、前期に比して三分の増配を行なった。

日本電力株式会社黒部川第三発電所
〈富山〉昭和15年8月竣工
日本電力株式会社黒部川第三発電所
〈富山〉昭和15年8月竣工
東京電燈株式会社信濃川発電所
〈新潟〉昭和16年10月竣工
東京電燈株式会社信濃川発電所
〈新潟〉昭和16年10月竣工
東北振興電力株式会社蓬莱発電所堰堤
〈福島〉昭和14年2月竣工
東北振興電力株式会社蓬莱発電所堰堤
〈福島〉昭和14年2月竣工
朝鮮貯蓄銀行本店
〈朝鮮〉昭和10年6月竣工
設計 横浜中村建築事務所
朝鮮貯蓄銀行本店
〈朝鮮〉昭和10年6月竣工
設計 横浜中村建築事務所
三菱新京康徳会館
〈満州〉昭和11年12月竣工
設計 三菱地所株式会社
三菱新京康徳会館
〈満州〉昭和11年12月竣工
設計 三菱地所株式会社
三菱銀行本店(増築)
〈東京〉昭和12年3月竣工
設計 三菱地所株式会社
三菱銀行本店(増築)
〈東京〉昭和12年3月竣工
設計 三菱地所株式会社
満鉄凌承線承徳駅
〈北支〉昭和11年7月竣工
満鉄凌承線承徳駅
〈北支〉昭和11年7月竣工
日本郵船株式会社横浜支店
〈横浜〉昭和11年7月竣工
設計 和田順顯建築事務所
日本郵船株式会社横浜支店
〈横浜〉昭和11年7月竣工
設計 和田順顯建築事務所
大鉄百貨店阿倍野店
〈大阪〉昭和14年1月竣工
設計 久野建築事務所
大鉄百貨店阿倍野店
〈大阪〉昭和14年1月竣工
設計 久野建築事務所
満州鋳鋼所鞍山工場
〈満州〉昭和10年12月竣工
設計 大林組
満州鋳鋼所鞍山工場
〈満州〉昭和10年12月竣工
設計 大林組
東洋紡績株式会社京城工場
〈朝鮮〉昭和12年5月竣工
東洋紡績株式会社京城工場
〈朝鮮〉昭和12年5月竣工
倉敷絹織株式会社岡山工場
〈岡山〉昭和11年12月竣工
設計 倉敷絹織株式会社
倉敷絹織株式会社岡山工場
〈岡山〉昭和11年12月竣工
設計 倉敷絹織株式会社

時局に対応―倍額増資

このような工事量増加は、物価騰貴と相まって資金需要を旺盛にさせ、増設業界も増資する企業が相次いだ。大林組も資本の倍増を計画し、その方法を合併増資によることとして、昭和十一年(一九三六)末、資本金十万円の株式会社第二大林組を設立した。役員は社長大林義雄、取締役は白杉亀造、近藤博夫、中村寅之助、監査役大林亀松の五名である。この間準備をととのえ、翌十二年三月、これまでの株式会社大林組を、第二大林組に吸収合併し、資本金を一〇一〇万円に増加し、商号を株式会社大林組とした。役員は次のとおりである。

社長 大林義雄、専務取締役 白杉亀造、常務取締役 植村克己、同 鈴木甫、同 近藤博夫、同 中村寅之助、取締役 本田登、同 高橋誠一、同 石田信夫、同 久保弥太郎、同 宇高有耳、監査役 大林亀松、同 小原孝平、同 妹尾一夫

昭和十二年(一九三七)七月七日、北京市外芦溝橋でおこった日華両軍の衝突は、たちまち華北全土に拡大し、さらに上海におよんで日華事変となった。前年末の西安事件により、国民政府と中国共産党は抗日戦線の統一を決定して、戦線はさらに広がった。日本陸軍は北支那方面軍、第一軍、第二軍を編成し、海軍は中国沿岸封鎖を宣言して、宮中に大本営が設置された。宣戦布告こそ行なわれなかったが、事実上の日中全面戦争であり、のちには太平洋戦争に発展した。

日本は国をあげて戦時体制を強化し、事変勃発二カ月後の九月十日、二二〇〇億円余の臨時軍事公債を発行すると同時に、臨時資金調整法、軍需工業動員法の適用に関する法律、米穀応急措置法、臨時肥料配給統制法、輸出入品等臨時措置法、臨時船舶管理法など重要統制法六件を公布した。建設業関係では翌十月、鉄鋼工作物築造許可規則が制定され、鋼材の使用は大幅に制限された。鉄骨造、鉄筋コンクリート造の普及により、建設資材としての鋼材使用量は漸増し、この年の鉄鋼総使用量五五〇万トンのうち、業界の消費は一五六万トンと第一を占めていたが、これを頂点として急落を示した。昭和十三年には六〇万トン、同十四年は二一万トン、同十五年は一三万トンと、実に三年間に一〇分の一以下に激減したのであった。

昭和十三年(一九三八)四月、経済統制の基本法として国家総動員法が公布され、わが国経済は完全な強権下におかれた。建設生産もほとんど軍事施設と軍需産業部門に限られ、一般公共施設の建設などは資材の面からも不可能となった。また、消費物資の欠乏による使用制限や配給制の実施は、必然的に物価騰貴を招き、ヤミ価格を生む原因となった。昭和十二年の東京卸売物価指数(日銀調査)は前年に比し二一%の急上昇を示し、これにともない労務賃金も高騰した。価格等統制令、賃金臨時措置令などにより、物価、賃金の釘付けを行なったのは、昭和十四年(一九三九)九月十八日であるが、これを励行するのは至難のわざであった。

このころ大林組が施工した例外的なものに、京都(淀)競馬場がある。昭和十二年二月着工、翌十三年七月竣工したが、請負金額四〇〇万円を越える大工事で、「不急不要事業」の最後というべきものであった。次にかかげるのは大林組の労務賃銀表のうち、満洲事変当時と、日華事変当時における京阪神地方のものの比較である。京浜、東海、北陸、中国、四国、九州など各地区それぞれに若干の相違があるが、京阪神が最も高額であった。

京都競馬場
〈京都〉昭和13年7月竣工
設計 安井武雄建築事務所
京都競馬場
〈京都〉昭和13年7月竣工
設計 安井武雄建築事務所
定傭職工人夫標準賃銀表
職別賃銀
(昭和六年七月)
賃銀
(昭和十二年三月)
職別賃銀
(昭和六年七月)
賃銀
(昭和十二年三月)
大工(甲)一、九〇二、三〇 硝子工二、〇〇二、二〇
同(乙)一、七〇二、〇〇 畳職二、〇〇二、二〇
木挽工一、九〇二、〇〇 経師二、〇〇二、二〇
建具工一、八〇二、三〇 塗師二、一〇二、三〇
一、七〇二、〇〇 敷物工二、〇〇二、二〇
人夫一、三五一、五〇 瓦葺工二、一〇二、三〇
女人夫〇、五〇〇、六〇 同手元一、五〇一、七〇
コンクリート打土工
(世話役)
一、八〇 土居葺工二、〇〇二、二〇
コンクリート打土工
(甲)
一、六〇一、八〇 スレート工二、〇〇二、二〇
同(乙)一、四〇一、六〇 アスファルト工二、〇〇二、二〇
普通土工(甲)一、五〇一、七〇 電気工(甲)二、〇〇二、三〇
同(乙)一、三五一、六〇 同(乙)一、九〇二、一〇
左官(甲)二、一〇二、五〇 同(丙)一、八〇一、九〇
同(乙)一、九〇二、二〇 工事機械運転手(甲)二、〇〇二、二〇
同手元一、四〇一、六〇 同(乙)一、八〇一、九〇
煉瓦工二、〇〇二、五〇 同(丙)一、六〇一、七〇
同手元一、五〇一、七〇 仲仕(甲)二、〇〇二、二〇
タイル工二、一〇二、六〇 同(乙)一、七〇一、八〇
石工(甲)二、五〇三、〇〇 運送、馬力四輪車自三、〇〇
至四、〇〇
四、五〇
同(乙)二、七〇
同手元一、五〇一、七〇 運送、馬力二輪車自二、五〇
至三、五〇
錺工(甲)二、〇〇二、三〇
同(乙)一、八〇二、一〇 同手挽荷車自一、七〇
至一、九〇
鉄筋工(甲)一、九〇一、九〇
同(乙)一、五〇一、六〇 同貨物自動車 一噸
(運転手及ガソリン共)
自一〇、〇〇
至一一、五〇
一七、〇〇
同手元一、五〇
鉄工二、一〇二、五〇 同貨物自動車 二噸
(運転手及ガソリン共)
自一三、〇〇
至一五、〇〇
二五、〇〇
斫工一、五〇一、七〇
洗工二、〇〇二、二〇

華北・華中に出張所新設

時局の進展にともない、大林組の大陸における体制整備が、このころ次々に行なわれた。満州では昭和十二年(一九三七)九月、鞍山に出張所を設け、翌十三年二月、業務の中心を奉天にうつして奉天出張所を支店に昇格させた。また華北では昭和十二年一月、天津に出張所をおき、翌年二月、北京に支店を開設し、同十四年八月には華中の拠点として上海出張所が設けられた。

通州事件―天津出張所の六氏殉職

日華事変の勃発は天津出張所開設の半年後であるが、その直後の七月二十九日、通州事件がおこり、出張所関係者六名が犠牲となった。

通州は北京の東方二五キロ、天津の西北一〇〇キロの地点にあり、当時地方政権の冀東防共自治政府がおかれていた。事件は前々日の二十七日、中国第二十九軍が日本守備隊を攻撃したことにはじまり、わが軍はこれを撃退したが次いで自治政府の保安隊が反乱をおこし、婦女子を含む日本人三百数十名が殺害された。

このとき大林組は同政府との契約により、二階建回廊式の中央市場建設のため、天津出張所から左記七名を赴任させていた。

技術社員―(主任)蔵本長久、山下磐夫、技術員―長島謙一、同夫人ますの、事務雇―大住勉、定夫―瀬田千代熊、下請負人―明渡高一

彼らは二十九軍の来襲に際し、居留民団、在郷軍人分会などに属し、守備隊の防戦に協力したが、ことが終わってのち、負傷者の手当てや戦死者の収容につとめ、二十八日夜は旅館や事務所などに分宿した。その翌朝未明、保安隊の襲撃を受けたもので、定夫の瀬田は奇跡的にまぬかれ、他はいずれも遭難したのであった。

出張所主任中原忠衛の報告により、本社から社長代理として常務取締役近藤博夫、役員代表として監査役妹尾一夫が現地に派遣され、八月十八日、大連市東本願寺別院において取締役大連支店長高橋誠一を葬儀委員長とする社葬が盛大にいとなまれた。大林組が大陸に進出して以来はじめての殉難者であった。

阪神大水害―救急本部を設け復旧作業

昭和十三年七月五日夜、阪神地方に未曽有の集中豪雨があり、東は芦屋川から西は生田川にいたる住吉、石屋、都賀、西郷など六甲山系河川の大水害がおこった。死者九三三名、家屋の破壊流失は一万三二〇〇戸にのぼった。この地区は関西有数の高級住宅地で、多くの大邸宅が被害を受けたが、本店住宅部が施工した安宅弥吉、阿部孝次郎、林市蔵諸氏の邸をはじめ数十戸の邸宅が浸水あるいは埋没した。また、甲南女学校、同小学校(現・甲南学園)、灘中学、沢之鶴工場その他、かつて大林組が施工した建造物で被災したものが多かった。

これらの救援復旧のため、翌六日早朝、阪神国道灘中学校前の大林組所有松林に救急本部を設け、住宅部長河合貞一郎を本部長として処置に当たった。まずたき出しの食料、つづいて土嚢、縄、籠などの応急材料を満載したトラックが社旗をひるがえして続々送られ、土工、手伝いら数百名の人夫が動員された。

土砂に埋まった建物の掘り出し、土砂の搬出など応急処置に約一週間を要し、つづいて三木栄逸を復旧工事主任として本格的な復旧工事に着手した。なお住吉川の改修工事も受注、これには島村如雲が主任として当たった。

なお、この年四月一日、監査役大林亀松が死去した。六十八歳であった。株式会社創立以来引きつづいて監査役の任にあり、内外木材工芸、大林農場の監査役をも兼ね、円満な人格で衆望を集めていた。

OBAYASHI CHRONICLE 1892─2011 / Copyright©. OBAYASHI CORPORATION. All rights reserved.
  
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