第一節 神武景気―設備投資ブーム
増資に次ぐ増資―資本金二四億円
昭和三十一年(一九五六)の好況は「神武景気」とはやされ、鉱工業生産の成長は前年にくらべ二三・四%、国民所得は同じく一三・九%と、政府見とおしの三倍以上に上昇した。この好況をもたらした原動力は、主として民間の設備投資によるものが多く、投資が成長を生み、成長が国民の所得を増加させ、それがさらに新たな投資を可能ならしめた結果であった。この投資ブームのなかにあって、建設支出は約一兆六〇億円にのぼり、前年比で一七%の増大をみた。このうち特に顕著なのは、産業設備投資にともなう工場建築、ビル建築、民間所得の向上による住宅建築等で、建築部門の伸長は前年より二九%増を示している。また、電源開発にも拍車がかけられ、この年下半期の開発費は三五%増加した。社会資本を充足するため、前年設立された日本住宅公団につづき、日本道路公団も発足した。これらが業界の未来に明るい見とおしを与えたことはいうまでもなかった。
この情勢は、大林組の業績にも直接反映した。朝鮮戦争休戦直後の不況期にあっても、業績は確実に上昇の道をたどったことはすでにのべたが、神武景気はさらに飛躍の機会を与えた。昭和三十一年の受注工事高は三一四億円、完成工事高は一九六億円、純利益金も二億四四〇〇万円に達した。株主配当も、前年の一割五分を下期以降二割に復し、この年以来二割配当を維持するようになった。この躍進はその後の日本経済の高度成長と歩みを合わせ、さらにつづくのであるが、これと同時に一つの転機を迎えた。それは大林組にとってばかりでなく、業界全般の問題でもあったが、高度成長に即応するためには建設業の業態そのものに変化がもとめられたからである。
かつて建設業が労働集約産業であった時代、業者は少数の技術者を保有するのみで、あとは必要な労務者を確保し、管理することでこと足りた。資金は原則として発注者が提供し、業者が立て替える場合でも比較的短期間であったから、経営は身軽であり、資本の回転率も他産業より高かった。この伝統は永く尾をひき、戦後までつづいたが、技術の急速な進歩は労働力の不足と相まって、業態を一変させたのであった。
施工の機械化により、固定資本としての機械は不可欠となって、業者はこれに多額の資本を投入しなければならなくなった。また昭和三十三年(一九五八)以後に顕著となってくるのであるが、工事の多様化、巨大化によって工費は高額にのぼり、発注者が支払いに条件をつける傾向もあらわれた。さらに工事量の増大にともない、支店、営業所の増設、職員の増員等、経営規模が拡大するにつれ、営業費が膨張したことはもちろんである。これらの事情は、資本回転率を低下させ、より多くの資本充実を必要とするにいたった。
ほとんどの大手建設業者は、この時期に相次いで増資を行なった。大林組の場合も、昭和二十七年(一九五二)の創業六十年を機として資本金を一億五〇〇〇万円としたが、同二十九年に三億円、三十一年に六億円、翌三十二年に一二億円、三十四年には二四億円と、七年間に五回、いずれも倍額増資を行なった。
経営の合理化―科学的経営へ
工事量の増大は、業界の繁栄をもたらしたが、同時に業者間の競争も激しくなった。工期の短縮、工費の低減が戦いの目標となった。施工の機械化、近代化によってこの競争に打ち勝つとともに、内部でも経営を合理化して体質の改善をはからねばならなかった。いわゆる「ドンブリ勘定」の永い伝統をもつ建設業界は、昭和二十四年(一九四九)制定の「建設業財務諸表準則」によって、一応経理面の近代化をみたのであるが、この段階において、いよいよ強く脱皮をせまられるにいたった。昭和三十一年一月、大林社長は年頭訓示で、経営の合理化、科学化について以下のようにのべている。
これまでわが業界には、いわゆる勘による経営、腰だめ式経営が多かったのでありますが、いろいろな事情がいよいよ複雑化しつつある当代におきましては、到底それだけではやってゆけないのであります。もちろん、建設業の内容は複雑でありますから、多年の経験を充分生かさねばなりませんし、又、常に機を掴むに敏でなくてはならないのでありますが、今後の建設業の道は、あくまで科学的経営ということを基本としなければならないのであります。例えば工事獲得の基礎となる調査、聞き込み、いわゆる手入れでありますが、広くということも大切ながら、力点をどこにおくべきか、何に力を入れるべきかを時に応じて正確に認識してかからなければなりません。それについては内外の情勢分析、産業経済界の推移に対する正確な判断を必要とするのであります。(中略)又、施工の科学化でありますが、これは最も優れた、且つ最も合理的な施工の方法を確立して、これによって施工することであります。ある意味におきましては、それは施工の標準化ということができましょう。建設業は注文生産であって、工事の態様は一つ宛異っていても、これを分析して考えれば幾つかの共通普遍の部分に分析し得て、そこに標準化、規格化の道があるものと思います。標準化、規格化に成功すれば自らより優秀な施工結果と能率の増進、工程の促進という成果を挙げ得るわけであります。かような着眼と、分析総合こそ施工の科学化であります。このようなことは、庶務の業務、経理会計の業務についても同様でありまして、科学化は経営のあらゆる部面について行なわれなければならないのであります。
(「社報」昭和三十一年一月五日、第一号から)
浪速土地株式会社を設立
昭和三十年(一九五五)一月、傍系不動産会社として浪速土地株式会社を新設したのは、このような情勢の分析にもとづき、新規工事を獲得するための開拓手段であった。当時、地価の上昇はいちじるしく、住宅難を増大させたのみか、ビルや工場の建設をも阻害した。これらの新築を意図する発注者はあっても、用地難のため躊躇する場合が往往あり、こうした発注者に対し敷地を斡旋提供することは、工事の獲得につながることでもあった。これまででも、発注者の意図を体してこの種の便宜をはかってきたが、これを強化し、推進する目的でつくられたのがこの不動産会社である。
新会社の資本金は一〇〇〇万円、社長には大林芳郎が就任、多田栄吉が常務取締役としてその衝に当たった。事業内容は、不動産の所有、売買、貸借、仲介のほか東京海上火災、住友海上火災など、有力一四社と保険代理店契約をむすんだ。本店は大林組本店内におき、東京には大林組の東京支店内に駐在員を常駐させて発足した。昭和四十五年(一九七〇)十月、名称を大林不動産株式会社と改めたが、業績については関係会社の項でのべる。
「ナベ底景気」を乗り切る
昭和三十一年十二月、わが国の国際連合加盟が承認され、日本は国際社会に復帰した。経済見とおしはいよいよ明るく、終戦後の荒廃からわずか十年余で立ち直った日本民族のエネルギーは、西ドイツの復興とともに奇跡とよばれた。しかし、この好況は翌三十二年、国際収支の悪化によって一時的に後退し、同三十三年にかけて「ナベ底景気」とよばれる一時的不況期にはいった。公定歩合の引き上げが二回にわたり実施され、金融は逼迫した。政府の引締政策は、建設業界にも相当な影響をおよぼした。財政投融資の一六%くり延べ、地方起債の抑制等によって公共事業に依存度の強い中小業者は特に深刻な打撃をうけた。また民間投資も鉱工業生産の低下とともに抑制された。鉱工業用建築物の着工は、昭和三十二年四月の対前年同月比を一〇〇とすると、九月には五三に低下し、構造別にみても鉄筋コンクリート造、鉄骨造は激減した。黒字倒産の現象も一部にあらわれたが、その打撃はかつてのように激しいダメージを与えるものではなかった。朝鮮戦争によって体力を回復したわが国経済は、二年つづきの好況のなかで経営基盤を強化し、耐久力がととのえられていた。大林組の場合もこの影響を受けないではなかったが、前半年の受注が好調であったため、工事量にそれほどの減少はみられなかった。
IFAWPCA建設業者賞・金賞を受賞
このころ、国連復帰を機として各方面の国際交流はしだいに活発となり、建設業界でも昭和三十一年(一九五六)三月、フィリピンで汎アジア建設業者会議が開かれた。参加国は日本、中華民国、韓国、香港、フィリピン、マレーシア、南ベトナム、オーストラリア、ニュージーランドで、日本からは清水建設清水康雄社長、大林組大林芳郎社長ら一三名が出席した。この会議でアジア西太平洋建設業協会国際連盟(IFAWPCA)が創立され、同連盟は昭和三十三年三月、第一回総会をフィリピンで開催したのをはじめ、以後参加各国で大会を開催、昭和三十八年の第四回大会は東京で開かれた。大林組からは毎回社長あるいは役員が出席、同四十二年(一九六七)の第七回大会(ウエリントン)では、一九六六年度IFAWPCA建設業者賞の金賞を受賞した。
日本業者の海外進出は、おおむね昭和四十年以後であるが、大林組は昭和二十五年(一九五〇)八月、パキスタンの首都カラチで開かれた万国産業博覧会の日本館建設に従事した。通産省の発注による全館アルミ外装の展示館五棟、七五〇坪(二四七五平方メートル)の小規模なものであったが、戦後、海外工事の最初である。
その後、ビルマの水力発電をはじめ、東南アジア諸国の賠償工事が開始され、日本業者が進出するきざしがあらわれた。大林組でも三十年代にはいるとともに将来にそなえるため、次のように役職員を各地に派遣し、これら諸国の事情調査に当たらせている。昭和三十一年(一九五六)二月には、東京支店に海外工事部が設けられた。
昭和三十年―三月、取締役五十嵐芳雄、東京支店建築課長石井敬造(ビルマへ)
昭和三十一年―三月、石井敬造、本店土木課長中川貞雄(タイへ)、五月、五十嵐芳雄、本店建築課浅賀博澄(パキスタンへ)、九月、東京支店土木部長江口馨、同土木課長井上忠熊(タイへ)
また、技術革新時代に即応するため、先進諸国の建設事情視察のための海外出張が相次いだ。昭和三十一年三月、名古屋支店次長大林芳茂はアメリカへ出張し、翌三十二年四月には取締役江口馨、同三十三年三月には本店土木課長関口真二、同年十一月には東京支店設計部次長間野貞吉、同設計部員古橋栄三が、いずれもアメリカとヨーロッパに出張、視察した。また同年十月、ドイツにおもむいた本店設計部次長福田勇雄は、帰途イラクを経由して同地の市場性を調査した。
原子力時代にそなえて―欧米の施設を視察・調査
原子力が電力エネルギーとしてとりあげられ、茨城県東海村に日本原子力研究所が発足したのは昭和三十一年(一九五六)六月であるが、大林組では同年十月、常務取締役稲垣皎三、東電千葉火力発電所工事総主任河田明雄、研究室東京分室長永井久雄をアメリカに派遣し、各地の原子力施設を視察させ、さらにイギリスのコールダーホール原子力研究所を見学させた。本店研究室長菅田豊重も、同三十二年三月、同三十三年一月の二回渡米し、フィラデルフィアおよびシカゴで開かれた原子核学術会議に出席するとともに、欧米各地の原子力施設を視察し、また原子力発電会社のコールダーホール型購入調査班にも参加した。昭和三十六年(一九六一)以後になると、この方面の要求が増大するにつれ、本店工務部次長谷口尚武をはじめ多くの技術者を海外視察に派遣している。
このころ(昭和三十一年~同三十五年)施工した原子力、放射線関係施設の工事には次のものがある。
日本原子力研究所放射線照射室(東海村)、名古屋市立工業試験所アイソトープ室、東洋レーヨン放射線総合研究室(大津)、三菱電機放射線研究室(尼崎)、大阪大学放射線実験所(堺)、東京大学CO60〔二〇〇〇キューリー〕照射室(東京)、三菱原子力工業大宮研究所(大宮)、日本原子力研究所国産第一号炉(東海村)