大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第一章 敗戦の衝撃―虚脱と混迷

第三節 危機に立つ経営

経済九原則―インフレ下のデフレ

連合国軍総司令部(GHQ)の占領政策は、日本を民主化し、軍国主義を禁絶することにあったが、そのためには工業国としての発展をおさえ、わが国を無力な農業国たらしめようとした。そしてわずかに残った産業設備も主要なものは賠償用に撤去され、自作農を創設するために、革命的ともいえる農地法を制定して不在地主を一掃した。新生日本の将来を「文化国家」として論議されたのも、このころであった。しかし、米ソの対立はやがて激化して「冷戦」の語が生まれ、国際情勢は大きく変わった。これにともないアメリカの占領政策も修正され、日本民族のすぐれた素質と旺盛なエネルギーを自由主義国側に活用し、その陣営に加えることが考えられるようになった。

日本に対する援助も、はじめは人道的な立場から食料や衣料の供与にとまどっていたが、しだいに産業を復興させる方向に変化した。ドレーバー委員会の勧告にもとづく経済九原則の指令は、インフレをおさえて経済を安定させ、工業生産力を増強し、輸出の促進をはかろうとするものであった。また民主化政策の推進にしても、GHQの内部のニューディール派による理想主義は後退し、二・一ゼネスト禁止や、レッドパージなどにみられるように、反共路線が強化された。

政府は経済九原則の指令にもとづき、増税と独占価格引上げによる均衡予算を実行した。所得税二・五倍の増徴、取引高税の新設を行ない、鉄道運賃、通信料金は二・五倍ないし四倍に引上げられた。公定物価も三次にわたって改訂され、一般物価はいっせいに上昇した。これらの措置はインフレを収束し、経済安定を目ざしたものであるが、増税や融資統制が行なわれたため、金づまり現象がおこった。重点産業である鉄、石炭、電力などは「傾斜生産方式」による特別な保護を受けたが、一般産業はこのインフレ下のデフレによって大きな打撃をこうむった。

公共工事の支払い遅延で深刻な金融難

この情勢は建築業界にも反映し、民間の工事量は伸びなかった。しかし、それより重大だったのは、政府や地方自治体の工事費支払いが遅れたことである。公共工事に依存することの多かった建設業界は、深刻な金融難におちいった。それは、当時国家財政は破産状態にあり、政府自身に支払い能力がなかったためである。このため昭和二十三年(一九四八)九月、全産業に対する未払い金額は三五〇億円に達していたが、そのうち五〇億円は建設業が占めていた。資本金の数倍ないし十数倍を常時動かさねばならない建設業にとって、これが他産業にくらべ、はるかに大きな苦痛だったことはいうまでもない。

また、GHQの指令により、法律第一七一号(「政府に対する不正手段による支払い請求防止に関する法律」)が公布されたことも支払い遅延に拍車をかけた。この法律を制定した目的は、工事費の低減と政府支出の節減にあったが、問題は、工事費請求の基準に、現実には行なわれていない有名無実の統制価格を用いなければならない点にあった。これは当時片山首相が語ったように「政府自身のヤミ行為を徹底的に根絶する」ためであったが、業者としては、諸資材が統制価格で入手できないのを理由に、工事を遅延さすことはゆるされない。この事実は、当局も知っていたのであるが、請求書面の金額が統制価格を超過した場合、この法律によって差額は支払われなかった。そこで公共工事の支払い請求に当たっては、資材のそれぞれについて数量を加減して、書類を適法に作成するなどのことも行なわれた。

政府工事については、まずこの書類を府県当局に提出して査定を受け、さらに東京で戦災復興院と大蔵省の査定を受けねばならなかった。そのために、業者はトラック一台分といわれたほどの書類をつくったが、これは業者の経費をいたずらに増大させ、事務能率をいちじるしく阻害したばかりか、複雑な書類の査定が、支払いをさらに遅延させた。この法律は、昭和二十五年(一九五〇)、一部を残して廃止されたが、大林組もその間、作文作業と資金難に苦しまなければならなかった。

公共工事の支払いが遅延したのに加えてインフレによる物価の高騰が経営を圧迫した。ことに建築資材の値上がりは他の物価にくらべてはなはだしく、これを大阪の場合でみると、昭和二十一年(一九四六)九月の指数を一〇〇とすれば、同年末は一四六・六、同二十二年六月は二九八・一、同年末は四一五・一、同二十三年六月は四八五・四、同年末五〇一・二、同二十四年六月は五二一・一(日本銀行大阪支店調)となり、物価値上り総平均四八九・一を六・五%上まわっていた。そのため帳簿上黒字であるべき工事が、結果的に赤字となって「倒産」する業者が続出した。

急を要する進駐軍工事が一段落したころ、六三制教育の実施によって全国に新制中学校が続々と建設された。大林組も各地で校舎新築に従事したが、新設校舎のほとんどが木造であったため、激しい木材の値上りによって大きな打撃を受けた。当時、横浜支店長から東京支店建築部長となった山田直枝が、転任直後に帳簿を点検したところ、黒字工事は皆無だったといわれる。

そのころの銀行は、金融機関再建整備のために手持ち資金が少なかったこととインフレ抑制政策によって、貸出しをきびしく規制していた。また建設業の融資順位は下位にあったから、こうした業界事情は強く銀行を警戒させ、貸出しをしぶらせた。そのため大林組も、資金繰りは極度に苦しく、その衝にあった取締役田辺信と経理部長酒井弥三郎は、取下げ金の督促と銀行折衝に連日奔走しなければならなかった。

すべての産業が停止した終戦直後、いち早く立ちあがって戦災復旧、進駐軍工事と活発な動きをつづけた建設業界は、一時は時代の花形であり、当時「土建ブーム」が羨望の目でみられたほどであったが、そこに危機を内蔵していた。諸産業が、終戦を機として画然と旧体制を捨てて新発足したのに対し、建設業界にはそれがなかった。至上命令としての進駐軍工事を緊急に、しかも銃剣下に行なわねばならなかったことも理由の一つであるが、みずからが内蔵する旧来の体制をかえりみる余裕がなかったのだ、ともいえよう。

大林組も、会社経理応急措置法、企業再建整備法などにより新旧勘定を分離して再出発をしたが、それは経理面のことにすぎず、業務体制は旧来と変わらなかった。当面の対策としてとられた経営規模の縮小に最も必要だった人員整理も、希望退職による四〇〇名のみでは十分といえなかった。

工事量の減少と支出の増大、資材や労務費の高騰による赤字の累積、金融の逼迫などの悪条件が重なった。この危機を打開するには、さらに人員の整理を徹底し、機構の整理、合理化をはかることが必要であった。これは大林組にとって当然行なわるべきであった終戦処理を、この時点においてせまられたものといえる。そして、これを実行に移そうとしたとき、従業員組合との間に摩擦を生じた。

労使関係の民主化―労働組合法施行

占領軍は、民主化政策の一つとして労働運動の助成策をとり、これまであまりにも封建的であった日本の労使関係を、個人の権利義務にもとづく西欧的なものに改め、新しい労働組合を育成しようとした。これは正常な労使関係によって産業の発展をはかるとともに、わが国から全体主義思想を排除し、民主主義を樹立しようとする根本理念によるものであった。

新憲法の制定に先立つ昭和二十一年(一九四六)三月、まず労働組合法が施行され、労働者の団結権、団体交渉権が保証された。つづいて連合国極東委員会は、日本の労働組合奨励策に関する十六原則を決定し、GHQに実施を勧告した。これによって労働民主化政策は推進されたが、当時GHQの労働担当部門にはニューディール派に属する者が多く、ややもすると急進的、理想主義的に走る傾向が強かった。

その一つのあらわれとして、建設業界を困惑させ、恐慌におとしいれたのが労務下請けの禁止である。昭和二十二年十二月に施行された職業安定法第四十四条は「公共の職業安定所または労働組合が労働大臣の認可を受け、無料の職業紹介を行なう場合をのぞき、何人も労働者供給事業を行ない、またその労働供給事業を行なう者から供給される労働者を使用してはならない」と規定している。これは労働ボスを排除し、アメリカのクラフトユニオン的な労働組合の育成を意図したものであるが、翌二十三年二月、さらに施行規制第四条が追加され、大工、左官、土工、鉄筋工等の職種は、下請負が禁止された。

いうまでもなく下請制度はわが国建設業界の永い慣行で、これを一気に廃止することは不可能というべきであった。そのため業界は大混乱におちいったが、GHQ当局は容赦なく実施を命じ、その状況を監視するため担当官を派遣して、全国主要都市を査察させた。この査察は、担当官の名をとって"コレット旋風"とよばれ、業界にパニックをおこした。これにより、労務者の使用形態は直傭制とせざるを得なくなったが、もとより完全実施は不可能であった。そこで賃金の直接払いはこれを実施し、実施予算制度をとり入れて、下請業者を職長名義とするなど、さまざまな便法が用いられた。

この法律は業界の強い要望により、のちに条文の一部が実情にそうよう改正され、下請負は原則的に認められるようになった。それというのも占領軍が国情の相違を無視した政策の結果であり、彼らが意図した建設労働者のユニオンは成立しなかった。

戦前、わが国の労働組合はブルーカラーの組織と考えられ、ホワイトカラーは圏外におかれていた。ところが占領軍は、それを「勤労者」の名において一括し、あらゆる職域に組合を結成するように指導した。そしてこの勤労者たちも、敗戦による意識の変化とインフレ下のきびしい生活苦によって、みずからを労働者と規定し、いたるところに労働組合が発生した。しかし、欧米の場合とことなり、ほとんどが企業単位に組織された。組合数も昭和二十年(一九四五)末、五〇九(組合員数三八万余名)にすぎなかったのが、翌二十一年は一万七二〇〇組合(組合員数四九二万六〇〇〇余名)となり、さらに同二十三年には二万三三〇〇組合(組合員数五六九万余名)と飛躍的に増加した。

このころ、労働運動の主導権をとっていたのは、はじめて合法政党となった日本共産党で、その指導による争議が頻発した。労働組合による生産管理が各所で行なわれ、昭和二十一年(一九四六)のメーデーには「米よこせ」の旗をかかげた数万の組合員が皇居に向かって行進した。さらに翌二十二年には、全官公庁労働組合が二・一ゼネストを宣言すると各組合も同調し、革命前夜ともいうべき情勢がかもし出された。

しかしこの時期は、米ソの対立が激化し、国際情勢が緊張の度を加わえつつあるときでもあった。占領軍最高司令官マッカーサー元帥は占領軍命令でゼネストを禁止した。民主化運動を推進するため左翼に対して寛大であった占領軍は、この時点で方向を大きく転換し、それはやがてレッドパージなど共産党弾圧に発展した。

大林組従業員組合の結成―労働協約を締結

大林組でも昭和二十一年(一九四六)二月、まず東京支店に組合が結成され、次いで本店および各支店(名古屋、仙台、横浜、京都、神戸、広島、岡山、福岡)ごとに結成し、同年十二月、これを統一して大林組従業員組合となった。初代組合長は吉川勝であった。組合はユニオンショップ制をとり、組合員は当時の職制による社員、准社員、試傭員、雇傭員で構成された。この組合は共産党その他政治団体の指導を受けず、また、いかなる上部団体にも所属しなかった(のちに全日本建設工業労働組合協議会に加盟)。したがって、性格は政治的色彩をもたず、要求も、もっぱら経済的なものにかぎられていた。

昭和二十二年(一九四七)三月、労働法規にもとづく労働協約が会社と組合の間に締結され、経営協議会が設けられた。この協議会に最初にかけられた議題は次のとおりで、当時の生活状態を如実に物語っている。

  • (1)危機突破賃金の支給(預貯金が封鎖されているため、月収の五割を新円で支給すること)
  • (2)遅配の対策(米穀等の配給が十日以上遅れた場合、十日を越える日数に対して貸金をする)
  • (3)宿日直手当の増額(一回につき三十円、雇傭員は二十円)その他時間外手当、別居手当の増額等

これにつづいて、年齢別生活給、物価の地域差に対する地域給支給が決定したが、同年十月開かれた経営協議会で会社側は経営内容を以下のように説明し、組合の協力をもとめた。

施工残高は二億四三〇〇万円にすぎず、取下げ固定額は七億五〇〇〇万円に達し、経営はきわめて苦しい。経費は増大し、ことに給与は労働基準法施行にともない、はなはだしく増加して、時間外手当のみで年額一八〇〇万円に達する。この対策として、工事を積極的に獲得すると同時に施工の合理化をはからねばならない。また執務能率を最高度に上げ、超過勤務を避け、支出の抑制、減少に努力しなければならない。

組合の要求はやむにやまれぬ切実なものであったが、会社の経営も苦しく、そのすべてに応じることは実際問題として不可能であった。この現実は、同年末の越年資金要求に当たって鋭い対立となってあらわれ、組合の要求総額一五〇〇万円に対し、会社回答は一六〇万円で、交渉は決裂した。その結果、大阪、神戸および札幌をのぞく各支部は半日ストあるいは定時退勤を行なったが、その後交渉をつづけ、翌二十三年(一九四八)一月末、一人平均手取額三五〇〇円で妥結した。

この争議が解決した翌二月、大林組は過度経済力集中排除法により、持株会社整理委員会から同法に該当する旨を指定された。この法律は財閥解体を目的としたもので、指定を受けたのは、株式会社大林組が大林家の財産保持の手段とみられたためである。もとよりこれは誤りであるから、所要書類を提出して説明した結果、同委員会も了承し、五月に指定を解除された。

越年資金闘争が解決すると、石田信夫、本田登、久保弥太郎、妹尾一夫の四常務取締役が、任期中だったにもかかわらず辞任し、翌三月、取締役田辺信、河合貞一郎が常務取締役となった。時期こそ遅れたが、これは大林組にとっての終戦処理とみるべきもので、この異動によって体制を一新し、新時代に対処しようとしたものである。

過大な人員―とぼしい工事量

またこれと同時に、経営の合理化にも着手しなければならなかった。当時、会社は企業再建整備法により整備計画を作成中であったが、その進行にともない、人員過剰がおおうべくもない事実としてあらわれた。それは戦時中、応召、応徴による欠員を新規採用によって補充したことや、進駐軍工事の急に応じて、各地支店が現地採用したことなどにも原因があった。昭和二十一年(一九四六)二月、希望退職による四〇〇名の整理を行なったことは前にのべたが、なおこのときの従業員数は三四八二名に達し、終戦時の人員が役員を含め三二八八名だったのにくらべ、かえって増加していたのである。

経営合理化のためには、まずこの過大な人員と、とぼしい工事量との不均衡を是正しなければならなかった。そこで会社側は、昭和二十三年(一九四八)六月、収支目論見書と再建整備計画書を経営協議会に提出し、人員整理のやむを得ない事情を説明した。しかし組合はこれを受入れず、その後も協議を重ねたが、ついに同意を得られず、会社側は摩擦をさけていったん撤回することを余儀なくされた。そればかりでなく、組合の強い要求により、従業員の身分差を撤廃したため、それまで雇傭員の生活給は社員の八〇%だったものが同等となり、さらに負担が増大した。この年十一月、全日本建設工業労働組合協議会が結成され、大林組従業員組合もこれに加盟した。

つづいて十二月、給与体系改正によるベースアップ交渉が開始された。組合の要求は基準内賃金一人平均一万三三八八円で、これに対する会社回答は一万七一四円であった。この回答はCPS(消費者物価調査)にもとづき、国民の標準生活費を基準としたもので、賃金を生活給六五%、能力給三五%の割合とした。当時、賃金交渉は「食えるか食えないか」が焦点で、議論はいつもこれを中心に争われた。

当時の実情を知るために具体例をあげれば、一日の飲食費を組合側は九七円、会社側は九一円二二銭と計算している。これは飲食物の品目、熱量、可食率(魚でいえば、頭、尾、骨等をのぞいた部分)、価格等を、科学的な資料により、それぞれの立場で算出したものである。このとき示した会社案は、建設業界では最高で、一般産業にくらべても中位以上にあった。またこれを支給するためには、年間五八億円の工事を消化し、八分の利益をあげねばならないものであった。

経営の合理化―人員整理による再出発

賃金交渉は、翌二十四年(一九四九)にまたがって継続したが、会社案を了承しない組合は二月十五日スト権確立を宣言し、翌十六日、会社は中央労働委員会に斡旋を申請した。しかし、三月二日ついにストライキは決行され、その後も交渉をつづけた結果、四月五日にいたってようやく解決をみた。妥結金額は一万四〇〇〇円であるが、これは一〇%の時間外手当を加算したもので、基準内賃金は一万二〇〇〇円であった。またこのときの協定により、社員、准社員、試傭員、雇傭員の身分制は廃止され、前年八月にさかのぼって、職員、臨時職員、嘱託員と改められた。

こうした強い労働攻勢によって、人員整理は一時見送られたものの、合理化はしょせん避けられなかった。会社当局は、きわめて慎重な検討を重ねた結果、最小限度八〇〇名の職員(臨時職員は含まない)を整理する必要をみとめ、これを同年九月、臨時経営協議会にはかった。

人員整理については、組合はもとより原則的に反対であった。しかし当時の客観情勢は、ドッジ政策による均衡予算が実施され、発注を予定された工事も延期されるなど、業界は不振をきわめていた。また経営内容も、会社側の誠意をつくした説明によって組合内部に周知されていたから、ある程度の整理がやむを得ないことは執行部もほぼ認めた。組合は会社側との交渉をつづけながら、極力整理を縮小し、有利な解決をはかるため、九月十五日、中央労働委員会に斡旋を申請した。

ところが当時は、GHQの労働政策転換により労働法規が改正されたときであり、組合も規約を改正し、これにもとづく新労働協約を会社と交渉中であったから、両者の間は無協約状態であった。そのことが整理問題とからんだため事態は意外に紛糾し、会社はついに団体交渉を打切り、十月十二日、本支店をつうじ七八五名(希望退職者を含む)の整理を組合に通告した。このとき、整理者名簿中にたまたま組合役員が数名はいっていたため、一部の者はこれを不当労働行為として中央労働委員会に申立てると同時に、東京、名古屋両地方裁判所に解雇無効の仮処分を申請した。

この紛争は、裁判所が和議を勧めたことにより、十二月六日、円満に解決した。すなわち、会社は整理者中から五〇名を再採用し、組合は会社再建に協力するというもので、中央労働委員会の提訴、裁判所の仮処分申請も取下げることとなった。この賃金闘争や人員整理問題の団体交渉には、副社長(注)中村寅之助がみずから陣頭に立って当たり、収拾に努力した。

かつてない業績不振のうちに、法律による企業再建をせまられていた会社幹部は、内部でもこのような困難に直面しなければならなかったのである。また従業員もそれを知りながら、なおかつ生きるために、闘争という手段に訴えねばならなかったのがこの時代であった。しかしこれら数次の闘争が対外的に悪影響をおよぼしたことは事実である。従来関係の深かった得意先で、指名をはずしたり発注を見合わせるものもあった。金融機関からも警戒の目をもって見られるようになった。これらのことは組合員自身も直接体験し、反省の材料としたため、その後の運動は闘争を捨てて協調の方向をとるようになった。そして、世相が安定しはじめた昭和二十五年(一九五〇)三月、組合規約を改正して、臨時職員などを構成員からのぞき、名称も「大林組従業員組合」を、「大林組職員組合」と改称した。

注・中村寅之助は明治二十一年(一八八八)広島県に生まれ、第一高等学校を経て大正三年(一九一四)東京帝国大学政治学科を卒業した。まず内務省にはいり、大正十一年朝鮮総督府に転じて、三十歳代の若さで高等官二等となり、土地改良部長、殖産局長等の要職を歴任した。昭和七年(一九三二)四月退官、翌五月の斎藤実内閣成立に当たり内閣書記官長(現在の内閣官房長官)就任の交渉があったが、大林組入社の約束があったため受けなかった。正式入社は同年十二月で、近藤博夫(のちに大阪市長)とともに取締役支配人として迎えられた。昭和十年(一九三五)常務取締役、同十六年専務取締役となり、さらに同十八年大林義雄前社長没後は副社長として、白杉取締役会長とともに芳郎社長不在(応召)中の留守を守った。この間関係諸会社の役員を兼ね、また日本土木建築工業組合連合会、日本土木建築統制組合(ともに全国建設業協会の戦時中名称)には大林組を代表して参加し、その豊富な法制知識と的確な論理によって、全国業界に名を知られた。大林組が個人企業的色彩を脱し、組織、制度を確立して近代化したのは、主として彼の力によるものであるが、同時にこれが業界全般におよぼした影響は大きい。さらに戦後の危機に際し、白杉相談役とともに社長をたすけ、会社再建を完成した。同二十八年(一九五三)副社長を辞し、相談役となったが、昭和四十年八月十日、七十六歳で病没した。葬儀は八月十七日大阪阿倍野斎場において社葬によって行なわれた。なお中村は在官中、正四位勲三等に叙せられていたが、死去に当たり旭日中綬章を加授された。

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