第六節 最近の主要工事
不況の影響―民間製造業部門の発注減少
建設業界に対する不況の影響は、まず端的に民間製造業部門にあらわれ、この分野の受注は絶対額において前年度を下まわった。しかし、非製造部門や公共非産業部門にはかならずしもその現象はみられず、むしろ新築される建造物は、高層化と設備の高度化によってデラックスとなり、巨額な投資が行なわれるようになった。この時期大林組が受注した主要工事も、製造業部門にトヨタ自動車東富士工場、麒麟麦酒京都工場発酵貯蔵室、三菱レイヨン養老工場、神戸製鋼加古川工場第一製鋼工場、川崎製鐵水島製鉄所第二棒鋼工場等があるが、率においては比較的少ない。これにくらべて名古屋伊藤忠マンション、住友商事番町ハイム、近鉄新宿マンション、シャトー松山等の住宅関係や、京都ロイヤルホテル、名古屋観光ホテル、野村不動産第二江戸橋ビル、日生不動産天王寺ビル、日本生命谷町ビル、近鉄上本町ターミナルビル、髙島屋東京店東別館その他、サービス、商業部門に属するものは数も多く建物も高度化した。また、青森市や富山市の中央卸売市場、大阪曽根崎警察署、東京の千代田区立体育館、同台東区役所、池田、府市合同庁舎等、公共建築工事が増加したこともこの時期の特色である。
さらに、中之島センタービルのごとく、多目的の超高層ビルが大阪に建設されるようになったことも、これまでになかった現象である。このビルは大阪地区開発株式会社の発注により、はじめ三六階建として計画され、のちに二九階建および九階建の二棟に変更されたのであるが、店舗街、食堂街、事務所、コンピューター室、ホテル、貸会議室等を含み、大阪都心部の偉観をなすものと予想される。大林組と竹中工務店が共同で受注し、昭和四十六年六月着工したが、大阪の軟弱な粘土層地盤を克服して建てられる超高層ビルとして、OWSソレタンシュおよび大口径ピア工法にとって、テストケースとされる。
以下にのべる諸工事は、いずれも現に施工中のものであり、この時期における代表的建築である。なお、海外ではシンガポール開発銀行の超高層ビル、バンコックのタイ国駐在西ドイツ大使館工事が進行している。
住友不動産三田ハウス 〈昭和四十五年七月~同四十七年三月〉 住宅産業の進展とともに、大都市におけるマンションの普及はいちじるしいが、その傾向は次第に巨大化、高級化の方向を示している。東京都港区三田五丁目、慶応大学の西に新築された住友不動産の三田ハウスは、その典型というべきもので、総面積においては日本一を誇り、近代的設備を完備している。
このマンションは高層部と低層部からなり、高層部は鉄骨鉄筋コンクリート造、地上一五階(一部一四階)、塔屋三階、低層部は鉄筋コンクリート造、地上四階、一部地下一階、塔屋二階で、その総面積は三万四二四七平方メートルに達する。住居部分は二階以上に配置され、中央部の広いハウジングプラザを中心に、一階には駐車場、ショッピングセンター、クリニックセンター、レストランなど近代生活のパターンに即応したコミュニティー施設をそなえている。エレベータは六基、間取りはファミリー用、シングル用の二二タイプあり、総戸数は三三四戸である。施工は大林組、鴻池組の共同企業体により、請負金は一六億二七〇〇万円、工事事務所長は出島晴男である。
鹿児島県住宅供給公社ビル 〈昭和四十六年一月~同四十七年十一月(予定)〉 鹿児島県住宅供給公社ビルは、市街地再開発、市街地における住宅難の緩和、職住近接等を目標として、鹿児島市の中心部新屋敷に建設される。計画はA、B、Cの三棟であるが、第一期工事はAとBの二棟で、Aは九州第一の高層公営住宅である。
A棟は、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下一階、地上一六階、塔屋二階、総面積は一万六〇六八平方メートルで、地下階は有料駐車場、一~四階は貸店舗と貸事務室、五階は遊戯場および貸倉庫で、六~一六階は分譲住宅一一〇戸となっている。B棟も、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下一階、地上九階、塔屋二階、総面積は五一二〇平方メートルである。この地下階は貸店舗、一~二階を公社事務所とし、三~九階が賃貸用住宅四二戸である。請負金は一七億六四〇〇万円、工事事務所長は永崎重徳である。
国際赤坂ビル 〈昭和四十六年二月~同四十八年二月(予定)〉 国際赤坂ビルは、東京の大手タクシー業者国際自動車の発注により外堀通に面した港区赤坂二丁目に建設される。ここには、かつて鉄筋コンクリート造四階建の同社本社ビルがあったが、これを解体して、軒高七四・八メートルの高層ビルを新築するものである。新ビルは鉄骨鉄筋コンクリート造、地下四階、地上二〇階、総面積六万二二八四平方メートル、外装はアルミカーテンウォール、一階外回り柱型は本石貼りである。基礎はベタ基礎、一部を深礎とし、OWS連続壁を用いた。
空調、排煙、消火等の設備を完備し、地下一階に防災センターを設け、エレベータは低層階用、高層階用に各六基をそなえる。ビルは、地下階を同社赤坂営業所の駐車場に当て、一階はショールームおよび貸店舗、二階以上は日商岩井がオフィスとして使用する。請負金は設備工事とも五九億円、工事事務所長は木内司郎である。
日本興業銀行本店 〈昭和四十六年三月~同四十八年十二月(予定)〉 東京丸ノ内一丁目の日本興業銀行本店は、大正十二年(一九二三)六月、大林組の施工で完成した当時の代表的ビル建築である。設計は渡辺節建築事務所で、構造は内藤多仲氏、意匠は村野藤吾氏であるが、竣工後間もない同年九月一日、関東大震災に遭遇し、周囲の大ビルがほとんど損傷したなかにあって、まったく被害を受けなかった。これは構造設計の正確と施工の優秀を語るものとして、そのころ建築界の話題となり、大林組にとって記念すべき建物であった。
戦後、昭和二十六年(一九五一)~同二十七年の増築工事をも特命されたが、今回の工事はこの旧館を解体し、そこに地下五階、地上一五階、塔屋三階(地下は鉄筋コンクリート造、地上部分鉄骨造)、総面積七万六一五八平方メートルの新本店を建設するもので、設計もゆかりのある村野、森建築事務所である。解体工事は、地下部分を三ブロックに分けて着手し、確認申請の認可を得た七月からOWS連続壁工事に着工した。OWS壁は厚さ六〇〇ミリ、深さ二四・二メートルである。この掘削に当たっては、GLマイナス二二メートル付近が東京礫層であるため、ケリー工法を併用した。
主要外装は、外壁が米国産花崗石本磨き打込みのショックベトン、サッシュは一~二階がブロンズ、三階以上はアルミである。各階の用途は、地下階を機械室、駐車場、貸金庫、書庫等に当て、一階は玄関と営業室、二階以上が一般事務室および厚生施設等となっている。工事事務所長は丸山俊一である。
大阪データ通信局舎 〈昭和四十六年六月~同四十九年一月(予定)〉 大阪堂島の大阪データ通信局舎は、情報社会の要請に対応し、大阪地区のデータ通信サービスを行なうために建設される。敷地は大阪市外電話局と福島電話局の間にはさまれ、道路をへだてて阪大付属病院と相対する堂島西町二番地である。日本電々公社の施設中最大級のものといわれ、高層部は地下三階、地上二五階、低層部は地下三階、地上一階で、総面積は一一万九八七一平方メートル、軒高は最高部一二〇メートル、構造は地下部分と地上一階が鉄骨鉄筋コンクリート造、地上二階から二五階までは鉄骨造である。
電々公社の局舎は、電話回線網の中心に位置するために都心部の人口密集地帯におかれ、しかも、自動交換装置等を収容する各階の階高は一般ビルの一・五倍以上が必要とされる。特にこのデータ通信局舎は、収容する機器の量が一般局舎にくらべてはるかに多いので、大きな床面積を必要とし、そのため特定街区として第六種容積地区の指定を受け、二五階建の超高層建築となった。局舎の周囲には緑の広場を設け、キャンドル型や水盤型の噴水を設置するなど、都市美に対する配慮がなされている。
施工は大林組、竹中工務店、錢高組、間組の四社による共同企業体であるが、この共同企業体では業界最初の試みとして、施工部門と別個に、品質管理、工程管理、資材管理のために総合品質管理委員会を組織し、自主管理を行なうこととした。この委員会は、管理基準を設けて合理的、能率的な工事管理を行ない、特に設置した電々公社のデータ通信装置DEMOS―二〇〇B端末機を使って、資材の分析や統計確立的手法の導入によるフィードバック、工程のフォローアップを実施した。また遠隔管理システムとしてテレビカメラを用い、現場内に簡易テレビカメラ一〇台、管理事務所にモニターテレビを二台そなえている。
この工事に要する鉄骨量は四〇〇×四〇〇シリーズH型鋼を主材として約一万七〇〇〇トンにおよび、継手は地下柱がHTB(F11T)、高層部は現場熔接で、梁はHTBと現場熔接の併用である。外装は超高層ビルとしてはユニークなアルミカーテンウォールで、大型ユニットにプロフィリット(特殊加工ガラス)を組合わせ、二液性シリコンで接着した部材を組みこんだものが使われている。スパンドレルもアルミパネルを用い、重量は一ピースで一トンにも達する。
この建物には微妙な構造の機器を多数収容する関係から、さまざまな計器類が装置される。地下三階と地上一、九、一九、二四階にはSMAC型強震計五台が構造体と一体として設置され、風圧計は南側外壁面に五台、西側外壁面に七台ある。また、地動測定器としてGLマイナス三〇メートルの地中に起動用感震計が、GLプラスマイナス〇、マイナス一五メートル、同三〇メートル、同六〇メートルの地中に加速度換振器があり、それぞれ自動的に記録する。
以上のごとく、この工事には多くの特色があるが、地下工法にOWSソレタンシュのほか、ソレタンシュとエルゼが組合わせて用いられ、またケリー工法が関西で最初に採用されたことなどは、大林組として特筆しておかねばならない。請負金は設備工事をのぞき九八億九〇〇〇万円、工事事務所長は満田裕である。
東京海上ビル本館 〈昭和四十六年六月~同四十九年三月(予定)〉 大正七年(一九一八)に完成した東京海上ビル旧館は鉄筋コンクリート造、地階なしの七階建、当時三菱ガ原とよばれた丸ノ内に建てられた最初の貸ビルで、「ビルディング」の名称を用いた第一号であった。海上ビル新本館は、この旧館跡の敷地に建設し、将来は、隣接する旧新館を解体してこの新本館と同規模の高層ビルを建て、二棟を合わせて全館を完成する計画となっている。
新本館の規模は、地下五階、地上二五階、塔屋二階で、軒高は九九・七メートル(最高一〇八・七五メートル)総面積は六万三六六四平方メートルである。構造は高層部の地下三、四階と低層部の地下一~五階は鉄筋コンクリート造、高層部の地下一、二階は鉄骨鉄筋コンクリート造、一階から二五階までは鉄骨造である。基準階の外装は壁が窯変タイル打ちこみのプレキャストコンクリート、サッシュにはコールテン鋼、ガラスはペアガラスが用いられる。地下階は車庫、機械室、倉庫、貸店舗で、営団地下鉄二重橋前駅にも接続する。一階はピロティ、ホール、営業事務室で、八階および二五階に機械室、二四階に食堂をおき、他の階を事務室用とする。この建物は、当初四五階、高さ一五〇メートルとして計画されたものであるが、種々の事情によってこの規模に変更されたもので、構造上は原計画まで増築することが可能となっている。施工は大林組、鹿島建設、清水建設、竹中工務店の四社による共同企業体が行ない、工事事務所長は太宰庵里である。
サンワ東京ビル 〈昭和四十六年六月~同四十八年十月(予定)〉 東京大手町一丁目に新築中のサンワ東京ビルは、三和銀行が関東の本拠とする専用ビルで、コンピューターセンターを兼ねたものである。規模は高層部が地下四階、地上二五階、低層部は地下四階、地上二階建で、軒高は九九・七メートル、総面積九万四五七八平方メートルである。構造は地階部分が鉄筋コンクリート造、低層部分(三階床まで)は鉄骨鉄筋コンクリート造、高層部分は鉄骨造である。外装は花崗石板打ちこみのプレキャストコンクリートで、基準階の内装は、床がビニールアスベストタイル貼り、壁はスチールパネル、天井にはアルミ目地の岩綿吸音板が用いられる。
地下階は機械室、駐車場、大会議室、書庫、売店、貸金庫室であるが、地下三階および地下一、二階の一部を占める駐車場は、面積九一九〇平方メートルで、二七七台を収容する。営業室は地上一、二階で、一階には玄関およびプラザが設けられる。三階ないし一〇階、一五階から一七階、一九階から二一階はいずれも事務室で、コンピューターセンターは主として六階を中心に設置される。一一階は食堂、一二階は医務室関係、一四階には図書室と厚生施設、交換機室は一三階、会議室は一八階、役員室、応接室は二二、二三階で、最高部二四、二五階は機械室である。
設備は最新のものを完備し、空調は外周部を四管式ファンコイル方式、中央部をデュアルダクト方式として、ファンコイルは外気供給系統と組合わされ、部屋によって三段階の可変風量装置がある。またヒートポンプ方式を採用して、建物中心部の照明熱を外周部の暖房および湿度制御に利用し、蓄熱槽を設けて深夜電力の利用と建物余剰熱の蓄積をはかっている。消火設備にはスプリンクラー、泡消火、炭酸ガス消火の設備をするほか、全階に消防隊専用栓が設けられる。電気設備は最適環境の維持と、災害時を含めて広範囲な安全性を確保するため、プロセス用コンピューターを導入し、限られた保守人員によって集中管理される。電源容量は将来の需要を予測し、停電時にもビル機能を維持し得る大容量の発電機を設置する。またシャフト内配管、便所の配管等がすべてプレハブ化されているのも設備工事における特色である。
設計上特記すべきことは、高層部事務室を内柱のないワンルームとし、フレキシブルな平面を採用したことである。そのため高層部の梁間方向鉄骨梁を二四メートル、一九・九メートル、一三・六メートルのロングスパンで構成し、スパンに対する梁の剛性を高めるため、鉄骨梁とコンクリート床版の合成梁として計画されている。またラーメンの剛性に対しては、四隅のコア部分にパイプK型偏心ブレース複合架構を採用して、桁行方向と同周期、同モードの構造となるようにしてある。
この工事に当たっては、前記の日本興業銀行本店工事と同様、ケリー工法とOJP工法が採用された。OJP工法は逆打ち工法と組合わせて用いたが、OJPの上に、直接に本体第一節鉄骨を正確に建てこむ工法も開発された。また逆打ち工法では、一一・四×六・三メートルのスパンのスラブコンクリート打設に超大型パネルの吊下げ工法が採用された。外装は全面本石貼りのプレキャストコンクリートで、これは超高層ビルでは最初のことであるが、一ピース四トンもあるPC版取付けには、新しい取付け機械が開発された。工程管理のため、カルコンプ社のオートマティック ネットワーク ディスプレイ方式を導入したこともこの工事が最初である。工事事務所長は高屋猛、請負金は設備工事とも百数十億円に達するものと見込まれる。
三菱本館等改築 〈昭和四十六年九月~同四十八年三月(予定)〉 三菱地所株式会社が昭和三十六年(一九六一)、丸ノ内地区改造計画に着手したことはこの編の第一章、三菱電機ビル新築に関連してのべた。昭和三十九年の帝劇・国際ビル新築もその一環をなすものであったが、この工事もこれにつながり、三菱電機ビルと東京中央郵便局にはさまれた一ブロックを整備する事業である。
このブロックは、東側を三菱本館と同新館が占め、西側は三菱重工業ビルおよび同旧館となっている。これらのうち三菱重工業ビルおよび同旧館は、かつて大林組が施工したもので、昭和三十九年(一九六四)竣工の三菱重工ビルをのぞき、三菱本館は大正七年(一九一八)、同新館は大正十年(一九二一)、三菱重工ビル旧館は昭和十二年(一九三七)に落成した戦前の建築である。改造計画はこれら戦前建築物を解体し、ここに高層部は地下四階、地上一五階、塔屋二階、中層部は地下三階、地上一〇階、塔屋二階の三菱本館を新築するとともに、中層部を三菱重工ビルと接続させ、さらに現在九階建の同ビルを増築して一〇階建とするものである。
新本館の構造は、地下三、四階は鉄筋コンクリート造、高層部の二階以下と中層部は鉄骨鉄筋コンクリート造、高層部三階以上は鉄骨造で、その総面積は八万五五〇七平方メートルである。外装は高層部を擬石小たたきのプレキャストコンクリート版、中層部をアルミカーテンウォールとして、三菱重工ビルの外装と同調させてある。地下から一五階までは事務室、地下二、三階は駐車場、地下四階は機械室に当てられるが、この機械室には、丸ノ内地域一帯の集中暖房プラントが設置される。
地下工事にはオープンカット集中切梁方式を採用し、昭和四十六年末現在、既存建物の地下部分解体と並行して切梁や桟橋の支持杭打ちこみ作業を行なっているが、東側に隣接して国鉄湘南新線の地下鉄工事が進行中であるため、地下構築は難工事である。また上記のように複雑な工事でありながら、工期は比較的短期であるところから、原設計の段階においてプレハブ化、ユニット化による合理化、省力化をはかり、打放し部分のサッシュ先付け工法等が考えられている。施工は大林組、清水建設、竹中工務店の三社による共同企業体で、工事事務所長は薮内吉一である。
創価大学文科系校舎(増築) 〈昭和四十六年十月~同四十八年三月(予定)〉 創価学会が東京都八王子市に創価大学を開校したのは昭和四十六年(一九七一)四月である。校舎建設は昭和四十四年二月着工し、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下一階、地上八階、塔屋二階、総面積一万平方メートル余の文科系校舎、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下三階、地上二階、総面積六四〇〇平方メートル余のラーニングセンター、鉄筋コンクリート造、地下二階、地上一階、総面積一四三五平方メートルの大講堂、同地下三階、地上一階、総面積七四〇〇平方メートル余の体育館を施工し、昭和四十五年に竣工した。引きつづき、資料館、学生寮、教職員寮、福利厚生棟等も完成して、同四十六年四月一段落したが、この工事はさらにその継続である。
増築される文科系校舎は、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下一階、地上八階、塔屋二階、総面積は一万一七八〇平方メートルであるが、次期計画としては理科、工科、医科、薬科系の学部を設け、これらの校舎とともに、地上三〇階の大学本部棟を建設することとなっている。また、記念講堂、情報センター、陸上競技場も設けられるが、以上の学部が開設されると学生数八〇〇〇名の総合大学に発展する。これまでの請負金は累計二八億九四〇〇万円を越え、工事事務所長は松田次郎である。
なお創価学会関係の工事では、このほか昭和四十三年(一九六八)十月着工した富士山麓の日蓮正宗総本山大石寺の正本堂建立がある。これは河川、道路のつけかえ、墓地の移転等を行なったのち、同四十四年十月十二日、定礎式を挙行し、現に工事は進行中である。正本堂は鉄骨鉄筋コンクリート造、地下二階、地上一階(一部四階)、長さ三八〇メートル、幅一八〇メートル、総面積四万平方メートルに近い巨大な建物で、妙壇、思逸堂、円融閣、法庭の四部によって構成される。妙壇は半剛性吊屋根構造で高さ七九・二メートル、思逸堂は長さ五〇メートルの中空三角型断面PSコンクリート梁八基をもち、円融閣は独立柱四本、半面三〇メートル×二〇メートル、高さ四〇メートルの屋根でおおわれる。また法庭は中央部に八葉形の池があり、ここには三〇メートルの高さに噴きあげる噴水が設けられ、その壮大さは目を見はるものがある。昭和四十五年十月十二日、上棟式を行ない、竣工は同四十七年の同日(日蓮上人忌日)に予定されている。施工は大林組、鹿島建設、清水建設、大成建設、竹中工務店、戸田建設の六社による共同企業体である。
AIU東京ビル 〈昭和四十六年十一月~同四十九年二月(予定)〉 アメリカの損害保険会社AIU(アメリカン・インタナショナル・アンダーライタース・ジャパン)は、先に東京赤坂の外堀通と青山通の交差点角にAIU赤坂ビルを新築した。鉄骨鉄筋コンクリート造、地下二階、地上九階、塔屋二階、総面積二六〇〇平方メートルの建物で、昭和四十五年六月着工、同四十六年十月完成したが、設計、施工とも大林組である。この建物は隣家と密接し、敷地いっぱいに建てられたため、地下土留壁構築に際し、この章の第四節でのべたONS工法を採用、工期短縮に成果をおさめた。
AIU東京ビルは、これに次いで丸ノ内一丁目一〇番地に建設されるもので、赤坂ビルが同社営業所であるのに対し東京ビルは本社のオフィスビルであり、一部は貸室に使用されるはずである。アンダーソン・ベックウイズ・アンド・ハイブル設計事務所と大林組の共同設計で、監理は大林組、施工は大林組と竹中工務店の共同企業体によって行なわれる。地下四階、地上一五階、塔屋三階、総面積は三万七五六六平方メートル、構造は地下階を鉄筋コンクリート造とし、地上階は鉄骨造である。
外装はショックベトンであるが、仕上げをほどこした構造柱と梁を浮き出させるのがいちじるしい特色をなしている。設備工事にも最新の方式がとられ、事務室系統の空調はインテリアとペリメーターの二系統に分け、ペリメーターの負荷変動力に対応させるとともに、インテリアにバリアブル エア ボリューム(可変風量吹出し口)を採用し、間仕切りに対する多用性が考慮されている。これは自装されたサーモスタットによって室温をとらえ、吹出し風量を自動的に可変させ、室温が高くなれば風量を多くするものである。したがって、暖房に使用することはできないが、インテリアであれば冬期でも冷房負荷と考えられるため有効とされる。全館にわたり、ペリメーターの照明器具は中央監視室において、リモコンスィッチによって夜間の点滅を可能としているが、中央監視室は一般とちがって地下階におかず、防火センターと兼用して一階に設け、すべての設備の監視制御が行なわれる。六基のエレベータも全自動群管理方式で、カーポジション インジケーターによる選択式デジタル表示方式が中央監視室に設けられる。請負金は四〇億五二七〇万円、工事事務所長は山下良弘である。
東京電力鹿島火力発電所 〈昭和四十三年八月~同四十九年六月(予定)〉 鹿島臨海工業地帯開発についてはこの編の第二章でのべたが、東京電力鹿島火力発電所はこの地域一帯の動力源をなすとともに、年々増大する首都圏の電力需要に応じるため建設された。工期は四期に分かれ、第四号機本館の完成によって第三期工事を終了し、一基六〇万キロワットの発電機四機は、昭和四十七年(一九七二)四月から営業運転を開始した。現在施工中の第四期工事は第五、第六号発電機本館工事で、それぞれが一〇〇万キロワットというわが国における最大の容量をもち、これが完成すると鹿島発電所の総出力は四四〇万キロワットに達し、わが国最大の火力発電所となる。
基本設計は米国GE社、実施設計は東電設計株式会社で、各号発電機建家はいずれも鉄骨造地上三階、その総面積は七万八〇一平方メートルにおよぶ。工事は発電機建家のほか、機械台基礎、ボイラー基礎、集合煙突基礎、ボイラーフレーム鉄骨建方等に加え、付属建物として公害防止用の排煙脱硫装置棟四棟、鉄筋コンクリート造二階建の事務棟、同厚生棟、木造二階建和風の宿泊会合施設等を施工した。この工事に使用した資材は、径六六〇ミリ、長さ二〇メートルの鋼管杭八八〇〇本、鉄筋一万一七〇〇トン、鉄骨二万一二〇〇トン、コンクリートは一四万八〇〇〇立方メートルに達した。請負金の総額は八〇億円を越え、ほかに約三五億五五五〇万円の支給材があった。工事事務所長は吉沢一虎である。
九州電力玄海原子力発電所 〈昭和四十六年三月~同四十九年十月(予定)〉 九州電力玄海発電所は、九州地方最初の原子力発電所として佐賀県東松浦郡玄海町に建設される。大林組にとっては、関西電力美浜発電所一号機、二号機に次ぐ三回目の原子力発電所工事で、内容はほぼ美浜の二号機と同様であるが、設計から施工にいたるまで純国産によった点では、わが国最初のものである。基本設計および機器関係設計は三菱重工業であるが、建家の設計は機器設計と不可分であるところから、同社と設計契約をむすんで大林組が担当した。原子炉の型式は、軽水減速、軽水冷却加圧水型で、発電所出力は五五万九〇〇〇キロワット、昭和五十年(一九七五)七月から営業運転を開始し、二二〇キロボルトの超高圧送電線によって全九州の主幹系統に送られる。
施工に当たり特に要求されたのは、いうまでもなく原子炉の安全を確保することである。そのため遮蔽体であるコンクリートの品質管理、特殊塗装の施工管理等には厳密、細心の注意をはらい、機器関係の取付け作業と一体化した協力体制をととのえた。工事は土木、建築にわたり、土木工事としては基礎掘削、生コンクリートプラント建設、上水道用の貯水池ダム建設等、建築工事は本館および付属建物である。コンクリートプラントは、所要総量一〇万立方メートルを生産するためのもので、貯水池ダムは高さ一九メートル、堤頂長九五メートルの重力式コンクリートダムである。
本館の原子炉建家は、鉄筋コンクリート造、一部鉄骨造、外径三八メートルの原子炉格納施設、鉄筋コンクリート造、厚さ〇・八メートル、高さ四三・二メートルの外部遮蔽壁、内径三三・四メートル、高さ六六・五メートルの鋼鉄製格納容器によって形成される。原子炉補助建家は鉄筋コンクリート造、地下五階、地上二階で、使用ずみ燃料ピット、安全補機室、ディーゼル発電機室、コントロールタワー、タンクエリアからなり、総面積は一万二一八七平方メートルである。また、タービン建家は鉄骨造で、面積は九一八八平方メートル、ここに鉄筋コンクリート造タービン架台、同変圧器基礎、鉄骨造脱気器架台を施工する。付属建物は鉄骨造の開閉所、鉄筋コンクリート造の事務所、同PR館の三棟である。なお、この工事では、OWSソレタンシュ工法により連続地中壁延二〇〇〇平方メートルを施工した。請負金総額は、主要材料を支給されたほか約二五億円。工事事務所長は山崎坦である。
シンガポール開発銀行 〈昭和四十六年五月~昭和四十九年十二月(予定)〉 大林組のシンガポール進出は、この編の第一章海外工事の項でのべたように、昭和四十年(一九六五)七月、シンガポール政府の発注によるベドック~タンジョンルー海岸埋立工事が最初で、現に第三期工事が進行中である。その後、ジュロン火力発電所の基礎工事を受注し、同四十三年五月には駐在員事務所を開設したが、シンガポール開発銀行(DBS)の工事獲得は、同地における工事実績により、大林組の実力が評価されたことを物語るものである。
この銀行はシンガポールの工業化を促進するための中期、長期の融資や、貿易関係融資のために設けられ、政府が資本金の四九%を出資する半官半民の組織である。位置はシンガポール市の中心部シェントン通にあり、地下二階、地上五〇階の高層部と、地上二階ないし五階の低層部で構成され、総面積七万九五〇〇平方メートル余の超高層建築である。その最高部は地上一八六メートルに達し、同地で最も高いブキテマ高地より一〇メートル高く、現在日本で最高のビルとされる京王プラザホテルの一六九・七五メートルをしのぎ、東洋一の超高層ビルとなる。しかもその構造が鉄筋コンクリート造であることは大きな特色で、これは同地に地震のおそれがないためである。設計は現地のチーム・スリー事務所、基礎工事を現地業者が行なったのち建築に着手したが、低層部は二十四ヵ月、高層部は三十八ヵ月で完成する見込みである。竣工後は、低層部は貸店舗、高層部はシンガポール開発銀行が使用するほか貸オフィス、レストラン等が収容される。請負金は約四三億円、工事事務所長は岸隆司である。
このほか東南アジアの建築工事では、タイ国バンコック市でアメリカの石油会社エッソスタンダード タイランド社のエッソビルが完成、また、タイ国駐在西ドイツ大使館の新築工事を受注した。これは鉄筋コンクリート造三階建の大使館本館、同二階建の大使公邸、同二階建の使用人宿舎、車庫等を含む総面積二四一五平方メートルの工事で、昭和四十七年一月着工、同年十二月竣工の予定である。
福祉優先、公共投資主導で土木工事が急増
昭和四十六年度の建設省関係予算は、一兆一九七七億円、公団公庫に対する財政投融資は一兆五八七億円で、それぞれ対前年度比一八・〇、二二・一%の増加を示し、過去五年間で最も高い伸長をみせた。その後いわゆるドル・ショックがおこると、昭和四十六年三月、この予算の七二%を目標として、年度上期の契約促進措置を決定し、同年六月、七月の二回にわたり、合計四八一〇億円にのぼる財政投融資費を追加した。これはもとより不況対策でもあるが、同時に高福祉社会の建設を目ざし、立遅れたといわれる社会資本の充実をはかる国策のあらわれであった。
これら公共事業関係費のうち、特に重点をおかれたのは上下水道、公園緑地の整備や、ネットワーク計画による幹線高速道路および国道、新幹線鉄道、港湾、空港等の交通関係で、伸び率が最も顕著である。もともと土木工事は民間工事よりも政府や地方自治体、公団、公社等によるものが多いのであるが、この時期においては圧倒的な優位を示した。建設業界もこの情勢を反映して公共工事の増加が目立ち、大林組の場合も交通関係工事が集中した。以下にのべるのは、この時期の主要土木工事である。
新東京国際空港(成田) 〈昭和四十五年四月~同四十七年十一月(予定)〉 国際航空の発達とともに、旅客機の増加と大型化、高速化は目ざましく、ジャンボジェット機の就航によって羽田の東京国際空港の機能は限界に達した。運輸当局は早くからこれにそなえ、東京付近に新空港候補地を物色した結果、宮内庁の下総御料牧場を中心とする成田三里塚一帯の地域を適当と認めて決定した。しかし用地買収を約九〇%終わって工事に着手した段階で、一部地元農民の反対を受け、いわゆる成田闘争がおこった。そのため東京国際空港公団は土地収用にふみ切り、昭和四十六年(一九七一)三月から強制代執行を行なわざるを得なかったが、当初の計画によれば、四十六年三月は第一期工事完成の予定時期であった。
新空港は四〇〇〇メートルのA滑走路、二五〇〇メートルのB滑走路、三二〇〇メートルのC滑走路を中心に、延べ約三〇キロの誘導路、総面積約二五〇万平方メートルのエプロン、旅客ターミナルビル、管制棟、整備施設、駐車場等によって構成され、その規模は羽田空港の約三倍に当たる。このうち大林組は、土木工事では第一工区(主滑走路および誘導路)を日本国土開発との共同企業体により、構内道路地区造成および構造物設置を鹿島建設、熊谷組との共同企業体により、また建築工事では旅客ターミナルビル北棟を大成建設との共同企業体によって受注した。
滑走路工事は長さ四〇〇〇メートル、幅六〇メートルのA滑走路中、北端部約四二〇メートルとその周辺敷地を造成するもので、舗装は六七四八平方メートルである。道路工事は、ターミナルビルに接続する東関東自動車道の延長四三二メートル(幅員一〇・五メートル、二車線)を主とし、同ビル地下二階へ進入するサービス道路をも施工するが、ほかに駐車場区域の造成、共同溝、ターミナル高架橋、排水溝その他の工事もある。
旅客ターミナルビルは、空港公団事務室、店舗、駐車場等を含む中央棟と、出発、到着の各ロビー、待合室、検査室、航空会社事務室等のある南棟、北棟の三棟によって構成される。南北両棟はいずれも鉄骨鉄筋コンクリート造、地下二階、地上四階で、総面積は各四万六四八四平方メートルである。この両棟の鉄骨大屋根トラスの建方については、経済性および安全性を考慮し、リフトアップ工法が採用されることとなった。この工法は万国博のお祭り広場工事にも用いられたが、大屋根の鉄骨はスパン八五・七七×軒桁二一七・八メートル、面積約一万五二〇〇平方メートルにおよび、これを国産ジャッキによってリフトアップする。はじめに北棟、つづいて南棟と、同一作業所において同一工法を二回実施するため、北棟を受けもつ大林組、大成建設はもとより、中央棟、南棟を担当する鹿島建設、竹中工務店、清水建設の各社も協力して工事を進めている。完成は昭和四十七年十一月末の予定である。
このほか、成田空港に近い成田ニュータウン三住区四号地で、日本航空女子寮をも建設中である。これは昭和四十六年八月着工、三井建設との共同企業体によって施工しているが、鉄骨鉄筋コンクリート造、地上一三階、塔屋一階の高層寮(独身者用四八〇室)棟と、鉄筋コンクリート造地下一階、地上二階の共用棟の二棟である。総面積は一万三六三一平方メートル、竣工は昭和四十七年十一月末と予定されている。以上諸工事の請負金と工事事務所長は次のとおりである。土木工事―約二二億円 寺尾英二、ターミナルビル―六二億四四〇〇万円 高橋義一、日航成田女子寮―九億九三五〇万円 平間由男。
武蔵野線稲城隧道 〈昭和四十五年四月~同四十八年二月(予定)〉 衛星都市の急速な膨張によって、首都圏の輸送力は通勤、貨物ともほぼ限界に達した。国鉄はこれに対処し、輸送力を増強する種々の方策を講じつつあるが、特に貨物輸送についてはこれまでの山手線、東北線等による都心通過を廃し、武蔵野、小金、京葉の三線を新設して、延長約二〇〇キロの東京外環状線によって円滑を期することとなった。この環状線は、昭和四十九年(一九七四)三月、全線開業を目ざして建設が進められている。
このうち武蔵野線は、東、西、南の三線に分かれ、大林組が担当する稲城隧道工区は、南線の新鶴見を起点として二一・四〇キロから二二・七五五キロにいたる区間である。工区は第一稲城隧道、第二稲城隧道と橋梁路盤区間の三部で、延長二一〇メートル、掘削断面七二・二平方メートルの第一稲城隧道は側壁導坑先進リングカット工法により昭和四十六年三月、掘削を完了した。第二稲城隧道は第一隧道と同断面の二隧道および開削箱型の二隧道で、竪坑によって掘削を進めたが、位置が稲城市立病院に近く、騒音振動を避けねばならないことや、湧水が予想されたこともあり、OWSソレタンシュ工法を用いて施工し、連続地中壁の一部を本体構造物に利用した。
路盤、橋梁区間は両隧道の中間に位置し、橋梁工事はほぼ完了しているが、路盤工事は、昭和四十六年末現在まだ着手していない。それはこの区域が多摩ニュータウンの都市計画区域内にあり、用地買収も未解決で、今後開削隧道に変更される可能性もあるためである。また、第二稲城隧道の一部も用地問題のために着工が遅れ、これも将来多少の変更があることを予想される。請負金は一三億一五〇〇万円、工事事務所長は大友昭である。
東京湾岸線沈埋トンネル 〈昭和四十五年六月~同四十九年三月(予定)〉 東京湾周辺の広域総合開発を目ざし、建設省は首都高速道路公団と協力し、東京湾岸環状道路の建設に着手した。神奈川県横須賀市から千葉県富津(ふつ)にいたる一六〇キロの自動車道がそれである。このうち、とりあえず東京都大田区平和島の京浜二区埋立地と江東区第一三号埋立地をむすぶ一〇・五キロが首都高速道路公団によって建設されるが、東京港の第一航路を横断する一三二五メートルの区間は船舶の通行に支障を与えないよう沈埋函海底トンネルとし、大林組、鹿島建設、熊谷組、大成建設、前田建設工業の五社共同企業体が施工することとなった。
隧道は、幅員三七・四メートル、高さ八・八メートルで、六車線の高速道路と、換気ダクト、共同溝を含み、水面下二二メートルに建設される。沈埋トンネルについては、さきに国鉄京葉線羽田隧道の項でのべたが、京葉線のそれが鋼殻エレメントを用いる米国方式であったのに対し、この湾岸線では鉄筋コンクリートのエレメントを用いる欧州方式が採用され、規模もさらに大きく、長さ一一五メートルの鉄筋コンクリート造沈埋函九函を用い、一函体の重量は約三万九〇〇〇トンにおよぶ巨大なものである。このエレメント九函は、大井埠頭埋立地に仮設したドライドックで製作し、これを運搬して浚渫溝底に一函ずつ沈設して接合する。この両端取付部の竪坑には、排気ガスを排出する地上高約五〇メートルの換気塔が建設されるが、世界的にも例の少ない設備といわれる。
工事は、まず長さ六五〇メートル、幅一五〇メートル、深さ一四メートルのドライドックの建設から開始された。この埋立地は造成後の日が浅いため地盤が軟弱で、ドック法面の地すべりや、底面のヘドロ処理などで工事は難行したが、昭和四十六年五月、ようやく完成した。沈埋函九函は約十五ヵ月の予定で製作に着手したが、これに要する資材は鉄筋二万五〇〇〇トン、鋼材五〇〇〇トン、コンクリート三二万六二五トンという巨大な量にのぼり、鉄筋コンクリート造の壁面および底面は鋼板で被覆し、上床はゴム系防水膜によって接着される。沈設作業は昭和四十七年九月から開始する予定であるが、これと並行して大井埠頭側に一八〇メートルの陸上部アプローチと、換気塔およびその基部をなす竪坑二ヵ所が施工される。
このトンネルが横断する東京港第一航路は、一日約一〇〇〇隻の船舶が航行し、工事占用水面はきわめて制約される。また、海底は軟弱なシルトの冲積層であるうえ、海水は不透明で視界がきかない。ここに広大な据付け基底面をもつ大トンネルを沈設することは至難のわざといわねばならないが、函底と浚渫底面とのすきまにベントナイト系モルタルを注入するなど、各種新工法の開発によって悪条件を打破しつつある。請負金は約一二五億円、工事事務所長は松下照夫である。
東京港大井埠頭第五バース(岸壁) 〈昭和四十五年七月~同四十六年十月〉 海上輸送の革命ともいうべきコンテナ時代の到来に当たり、京浜外貿埠頭公団はその受入れ施設として、東京大井埋立地に外貿コンテナ船専用岸壁八バースを建設することとなり、昭和四十二年着工、同五十年の完成を目ざして工事を進めている。その一部をなすものが第五バース岸壁で、バースは延長三〇〇メートル、幅員七〇メートル、水深は一二メートルで三万五〇〇〇トン級の繋船能力がある。
岸壁の築造には、直径九一四ミリおよび七一一ミリの鋼管杭を、地表面下二七メートルないし三八メートルの東京礫層に打ちこみ、これを下部構造とした。上部構造は、幅員七〇メートルのうち海側二〇メートルは前桟橋で、ここには重量七〇〇トンのコンテナクレーンが走行する。これに次ぐ幅員一七・四メートルの中桟橋は軌道式コンテナ輸送車の走行用で、幅員三一・六メートルの後桟橋はコンテナ置場となる。この中桟橋は鋼床版構造であるが、前後両桟橋はそれぞれ鉄筋コンクリート造である。この桟橋に接岸した船は、コンテナクレーンによってコンテナを荷上げし、その背後にあるヤードクレーンがヤード内に運搬する。また一部のコンテナは、無人輸送車によって運搬される。請負金は八億四五五〇万円、工事事務所長は森実二である。
成瀬土地区画整理事業 〈昭和四十五年四月~同四十八年九月(予定)〉 首都圏人口の急増にともない、各地に活発な宅地開発が進められたが、なかでも小田急電鉄、国鉄横浜線、東急電鉄田園都市線の沿線一帯における土地造成は、目を見はるほどの急テンポで行なわれた。成瀬地区は東京都町田市の東方約三キロ、これらの電車線にかこまれ、都市計画街路に接する至便の地域であるため、付近はほとんど不動産業者によって開発された。このうち東西約七〇〇メートル、南北約一四〇〇メートルの区域が取り残されたのは、地形に起伏が多く、連絡道路が不備であることなどによるものであるが、早晩宅地化されることは必至とみられた。しかし地元としては、個人あるいは私企業による無秩序な開発を好まず、成瀬土地区画整理組合を設立して計画的な住宅地建設を行なうこととした。
組合は昭和四十五年(一九七〇)三月、設立を認可され、大場土木建築事務所と委託契約を締結し、調査、設計、工事監理、換地計画等に当たらせることとなった。これより先、大林組はこの地区に約一〇万八〇〇〇平方メートルの土地を取得していたため、組合設立準備に際し営業不動産部職員三名を出向させ、組合発足後も役員を送ってその運営に参加していた。そこでいよいよ工事に着手するに当たり、設計、監理は大場土木建築事務所、施工は大林組が行なうことが組合総会で決議され、五月、起工式が挙行された。
事業計画は、東京都町田市成瀬一六号地~二八号地の総面積九二万一八三〇平方メートルの区域を造成し、ここに約二六〇〇戸、一万人以上の人口をもつ新住宅都市を建設するものである。施設としては、上下水道、調整池、汚水排水処理施設、ガス施設等を完備し、延長二六キロの街路と五つの公園、小学校、中学校を建設することとなっている。
雑木林の伐採、土工事、排水工事等はすでに終わり、現在は中盤戦ともいうべき擁壁法面工事、公園工事、街渠工事等が進行中である。なおこの工事に当たり、東京本社技術部の援助によって、はじめて電算デジグラマーが使用され、現場管理、計画盤の設計等に大きな効果をあげている。工事事務所長は大塚穣、請負金は二八億二七〇〇万円である。
東北電力新仙台火力発電所 〈一号機・二号機―昭和四十四年五月~同四十七年十二月(予定)〉 新仙台火力発電所は、東北地方の電力需要増大に対処し、仙台湾臨海新産業都市に建設されたが、出力三五万キロワットの一号機はすでに昭和四十六年(一九七一)八月営業運転を開始し、同六〇万キロワットの二号機も同四十八年六月には運転開始を予定している。この工事は、一、二号機の本館建家ならびに基礎、逆洗弁ピット、集合煙突基礎、機械台基礎等で、基礎関係の工事はすでに完了、建築工事にはいり、一方構内の造園緑化、道路整備等を行なっている。現場は海岸の砂丘地帯で、表層から一〇メートルまでは砂層、一四~三〇メートル付近は岩盤となっている。そのため、設計に際しては、特に地震時における基礎下の砂の流動と不同沈下を考慮し、これを防ぐ措置として基礎の外周を直接シートパイルでかこみ、シートパイルには、一号機の場合Ⅲ型七・五メートル、二号機にはⅢ型九メートルのものが用いられている。
この火力発電所の冷却用水循環路工事は他業者の担当であるが、排水口の沿岸が海苔の養殖地となっているため、高温排水による影響が問題化した。そこで一号機の排水計画を取水口と同じ仙台新港入口に変え、ここに仮排水庭を設けて温水調査を行なっているが、二号機が運転を開始した場合は、取水温度が上昇して冷却効率が悪く、外洋に排水庭を設置する必要がある。そのため、地元漁業協同組合が補償を要求するなどの問題がおこり、つづいて予定されている第三、第四号機新設工事は、この解決をまって着手される。一号機、二号機の請負金は七億三二八〇万円、土木工事事務所長は北村信之である。
なお、建築工事は、一号機本館は昭和四十四年(一九六九)八月着工、同四十六年六月竣工した。発電所本館(総面積八一八八平方メートル)、同サービスビル(同二〇二三平方メートル)の二棟で、ともに地上四階の鉄骨造である。二号機建家は同四十五年十月着工、現に建設中(昭和四十七年末竣工予定)であるが、建築工事事務所長は田村庄次、請負金は一〇億三〇〇〇万円である。
名古屋市古沢公園地下駐車場 〈昭和四十六年一月~同四十七年八月(予定)〉 名古屋市では、都市整備計画の一環として副都心金山地区の古沢公園を整備し、ここに鉄筋コンクリート造、地上一階、地下二階、収容力二四七台の地下駐車場を建設することとなった。同市計画局都市再開発部が発注した第一号工事である。この公園には、これまで児童公園として樹木のほかに多くの遊戯、休養施設が設けられていたが、工事はまずこれらを撤去し、市内の各公園に移設することから開始された。
現場は各辺七〇メートルのほぼ正方形で、これを地下一一・三メートルまで掘削し、土留にはPSアンカー工法を採用した。駐車場の躰体頂部は地下二メートル、総面積は八七四九平方メートルで、地上に約六〇平方メートルの入口上屋がある。入車路と出車路がγ一二・七五メートル、八・二五メートルの同心円でスパイラル状をなしていることが特色で、この円の中心部を料金徴収所と事務室に当て、第二円が出車路、第三円が入車路となっている。内装工事は四十七年七月中旬完成するが、これと並行して児童公園の復元造成が施工される。請負金は五億三〇〇〇万円、工事事務所長は安井史朗である。このような公園と駐車場の立体化は、狭小な土地を利用する市街地再開発の新しい試みで、このほか姫路でも同種工事を施工した。
中央自動車道西宮線明世工区 〈昭和四十六年九月~同四十八年四月(予定)〉 国土開発幹線自動車道路の中央自動車道西宮線は、東京駅から兵庫県西宮市にいたる五五〇キロの高速国道であるが、愛知県小牧市から長野県富士見町までの二〇〇キロは道路公団名古屋支所が所管する。明世工区はこのうち岐阜県東部の瑞浪市(一部は土岐市)に所在し、昭和四十八年(一九七三)十月に開通を予定される多治見~瑞浪区間の最終工区に当たる。工事内容は延長一七〇〇メートルの道路構築と、インターチェンジ一、橋梁一、跨道橋一、横断構造物十六ヵ所、排水工延長二〇キロ等の建設である。
ここにつくられるインターチェンジは、立体交差Y字型の全国でも珍しい型である。各種構造物はこのインターチェンジに密集して建設されるため、工程の関係上、約半年で完成させなければならない。施工は大林組、徳倉建設両社の共同企業体で行ない、責任分担施工で工区を分けた。請負金は一四億円、工事事務所長は小西明夫である。
西へ、さらに西へ―山陽新幹線工事
国鉄山陽新幹線は昭和四十七年(一九七二)三月、新大阪と岡山間が開業し、所要時間を一時間に短縮したが、さらに同五十年四月、博多までの全線開通を目標として工事を進めつつある。この線は中国山脈が海にせまって平坦部が少なく、しかも都市密集地帯を避けて山間部を通過するためにトンネルの多いことが特色をなし、総延長五六二キロのうちトンネルの延長は二七六キロを占め、全線のほぼ五〇%に当たる。大林組施工の山陽新幹線工事は、すでに完成した六甲トンネル(北山工区)、大阪の野中西地区高架橋、同加島東地区高架橋、岡山駅および東部高架橋、岡山南方第一、第二高架橋のほか、現在施工中のもの九工事があり、そのうちトンネル工事は六つを数える。
今立トンネル西工区(岡山県笠岡市園井地区) トンネル一八五〇メートル、路盤三二メートル、昭和四十六年七月~同四十八年六月(予定)、請負金八億五〇〇〇万円、工事事務所長 山本健次郎
備後トンネル東工区 (尾道市栗原町川上~三原市東町)トンネル八九一〇メートル、昭和四十五年九月~同四十八年三月(予定)、請負金一七億八〇〇万円、工事事務所長 村井喜一
尾道工区(尾道市内) 路盤延長六八〇メートル、跨線橋一、跨道橋橋台一、道路および川溝付替工事、昭和四十六年十月~同四十八年二月(予定)、請負金一億三四五〇万円、工事事務所長 村井喜一
広島駅東部高架橋(新幹線広島駅) 駅プラットホームの東部二四七メートル、昭和四十六年四月~同四十九年三月(予定)、請負金一三億七九〇〇万円、工事事務所長 塩出武
大野トンネル東工区(広島県佐伯郡大野町) トンネル二三一〇メートル、昭和四十六年九月~同四十九年三月(予定)、請負金一五億円、工事事務所長 陽山秀昭
周東トンネルおよび第一、第二米川トンネル(山口県玖珂郡周東町) 周東トンネル一九九〇メートル、第一米川トンネル八八メートル、第二米川トンネル四三五メートル、橋梁一九〇メートル、路盤一一〇〇メートル、昭和四十六年四月~同四十八年十二月(予定)、請負金一七億二二五〇万円、工事事務所長 中川敏雄
厚狭工区(山口県厚狭郡山陽町) 殿町高架橋四三〇メートル、厚狭川高架橋(橋台二、橋脚一、延長八二メートル)、第一厚狭線路橋(橋台一、橋脚四、延長一〇八メートル)、厚狭高架橋五七八メートル、昭和四十七年一月~同四十八年八月(予定)、請負金四億一二七〇万円、工事事務所長 福永豊
これらのほか、現在施工中の新幹線工事のうちの代表的なものとして、新関門トンネル工事がある。
新関門トンネル奥田工区 〈昭和四十五年九月~同四十九年三月(予定)〉 下関市椋野から関門海峡の海底を横断し、北九州市小倉区富野にいたる新関門トンネルは、全長一八・五六キロにおよび、日本では第一位、世界でも第二位の長大トンネルである。これを七工区に分割し大手業者七社が分担施工しているが、奥田工区は、新大阪起点四八八・七四キロから四九一・七六キロにいたる間、北九州市門司区大字伊川字柿小迫の三・〇二キロの区間である。
奥田工区の斜坑は勾配約一四度、掘削断面一八平方メートルで、斜坑部の延長は一九六メートル、水平部延長八〇メートルである。本坑の掘削断面は約七六平方メートル、隧道内空断面は六六・三平方メートル、巻厚は五〇センチないし七五センチ、トンネル掘削量は約二三万七〇〇〇立方メートル、コンクリート量約三万七七〇〇立方メートルで、掘進には底設導坑先進上部半断面工法を採用した。
当初、上部半断面掘削の支保工には、鋼アーチ支保工(H-一五〇×一五〇~H-二〇〇×二〇〇)の従来工法を用いたが、のちに設計変更によって硬岩部区間にはコンクリート吹付工法が採用された。この工法は青函トンネルの調査斜坑工事で試験的に用いられたものであるが、新幹線のような大断面トンネルにおいては最初のことである。しかし吹付工法によるのは硬岩部区間約二〇〇〇メートルのみで、他の軟弱地盤では従来どおり鋼アーチ支保工H-一七五×一七五、あるいはH-二〇〇×二〇〇を併用して施工する。
これまでの工法では、上部半断面の穿孔、発破を行ない、ズリ取りを完了してから鋼アーチ支保工を建てこみ、木矢板で土留をしたのち次の穿孔にかかるのが順序である。それを吹付コンクリート工法による場合は、まずミキシングプラントで計量空練りした骨材を、切羽近くに設けた移動式吹付プラントまで運ぶ。ここでセメントや急結剤を加えてさらに混練し、トルクレット等の吹付機に投入して、輸送ホースによって切羽に送る。このコンクリートに、ノズルの手もとで適当に水を加え、岩盤に吹付ける工法がすなわち吹付コンクリート工法で、鋼アーチ支保工や木矢板は使用しない。吹付けは一発破ごとに行ない、厚さは一〇センチとし、これをさらに五〇センチ巻厚に仕上げるものである。
吹付コンクリート工法は、現在のところ所要時間が長く、また技術的に高度の熟練を要するなどの難点がある。しかしこれらはやがて機械の改良、設備の改善等によって解決され、将来は鋼アーチ支保工に代わり、ますます多く採用されることが考えられる。
導坑貫通は昭和四十八年三月末と予定され、その後約一年で本体工事を完了する。請負金は約二三億円、工事事務所長は小原順である。