第一節 混乱に対処して
至上命令―「進駐軍工事」
昭和二十年(一九四五)九月二日、米艦ミズーリ号上における降伏文書調印により、日本は古い時代に別れをつげた。このとき以来、明治維新におとらない大変革が相次いで急テンポに行なわれたが、それは敗戦の衝撃で虚脱状態におちいった国民をとまどわせた。彼らはこの変革に対処する前に、まず日常の衣、食、住を解決しなければならなかったからである。買溜めや隠匿によって一部に偏在した物資は、公然と姿をあらわしたが、これらは投機の対象となって高値をよび、爆発的なインフレーションを生んだ。すべての価値観は転倒し、倫理観は失われ、法の権威も低下した。
あらゆる産業が壊滅していた。立ちあがるべき方途がないまま、航空機や戦車を生産していた大企業が、わずかの手もち資材でナベやカマをつくり、従業員が街頭で売る風景もみられた。隠退蔵された皮革や綿製品が驚くべき価格で青空市場で売られ、あるいは物々交換された。浮浪児とよばれる戦災孤児が街頭をさまよい、物乞いや盗みをしたのもこの時代であった。
この混乱のなかで、他の産業にさきがけ、いち早く生産活動を開始したのは建設業である。荒廃した国土の復興も産業の再開も、まず文字どおり建設からはじめなければならなかったからであるが、さらに急務は、いわゆる「進駐軍工事」であった。各地に駐留する占領軍のために飛行場の整備、新設、兵舎や家族住宅の建築、高級将校用の接収住宅の改築などが至上命令として要求された。
これらの工事は、連合国軍総司令部(GHQ)から外務省終戦連絡事務局(のちに特別調達庁)を経由、各府県当局から発注され、各業者に対する工事の配分は、昭和二十二年(一九四七)二月までは日本建設工業統制組合、その後は同二十三年二月まで日本建設工業会(いずれも現・全国建設業協会の前身)が行なった。それは、木材、釘、鉄線をはじめ諸資材が個々の業者では入手が困難だったことや、労務者を動員するにも生活物資を確保せねばならないなどの事情があり、入札制度を再開するにいたらなかったためである。大林組からは、日本建設工業統制組合に副社長中村寅之助が、日本建設工業会には社長大林芳郎が、いずれも理事として参加した。
進駐軍工事、復旧工事については別にのべるが、終戦直後の昭和二十年(一九四五)九月から年末までの間に受注した主な工事は次のとおりである。
- 本店―伊丹飛行場、日本麦酒西宮工場、神戸製鋼本社工場各復旧
- 東京支店―三信ビル、東京商船学校各改修、石川島芝浦タービン鶴見工場復旧
- 名古屋支店―三菱重工業第五製作所、川崎重工業知多工場、中部日本新聞社、日本板硝子四日市工場各復旧
工事は発注されはじめた。しかし、決戦体制下の工事量にくらべると、件数においても請負金額においても比較にならなかった。それはひとり大林組についてのみでなく、二、三の例外をのぞけば業界全般にみられるところで、八月十五日を境として、いかに工事量が低下したかを別表が示している。