第一節 すべてを戦力に結集
物資の不足深刻―激化するインフレ
昭和十五年(一九四〇)五月、ベルギー、オランダを征服したドイツ軍は、翌月パリを無血占領した。オランダ政府はロンドンに亡命し、フランスにはビシー政権が成立して第三共和制は終わった。ロンドンは二カ月余にわたって爆撃下にさらされ、独軍の英本土上陸は必至であるかにみられた。この情勢はただちにアジアに反映して、日本の南進政策を決定的なものとした。近衛内閣は小林一三商相を特派大使として蘭領東インド(インドネシア)に送り、武力を背景とした経済交渉を開始し、仏領インドシナに対しては、重慶政権への援助物資輸送の禁絶を名として北部仏印に兵力を進駐させた。果てしない日華事変の拡大により危機に直面した日本経済を、南方資源の獲得によって打開しようとする努力であった。
日本の南進政策は、イギリスの東南アジアにおける権益をおびやかし、アメリカの太平洋政策と対決するものであった。石油、鉄屑の対日輸出を禁止したアメリカは、さらにイギリスと防衛協定をむすび、重慶政権に借款を供与し、公然たる敵意を表明した。日本もこれに対抗して、ドイツ、イタリアとの防共協定を強化し、三国軍事同盟に発展させた。それでもなお平和への望みを捨てず、野村吉三郎大使を送って日米会談に当たらせ、一方では日ソ中立条約を締結して北方の安全をはかった。しかし、もはや米英との衝突は不可避とみて、御前会議が昭和十六年十月下旬を目途に開戦準備を決定したのは、この年(一九四一)九月六日のことである。
国際情勢の悪化とともに物資不足はいよいよ深刻となり、インフレは激化して国民生活は破綻に直面した。その焦燥は主戦論をあおり、きびしい言論統制のもとに平和論は反軍思想とされて影をひそめた。この年七月に行なわれた南部仏印進駐は、国民から拍手をもって迎えられ、世論は開戦に統一されたかにみえた。またこの十月、近衛内閣がしりぞき東条内閣が出現したことも、アメリカに日米交渉の真意を疑わせ、破局にみちびく原因となった。そしてついに交渉は決裂し、海軍の真珠湾奇襲、陸軍のマレー半島敵前上陸によって、十二月八日、太平洋戦争に突入することとなった。
南進政策の具体化にともない、前進基地としての台湾の地位が重要さを加え、台北出張所の業務も繁忙となった。それまでも台湾電力の霧社発電所準備工事、花蓮港の日本アルミ会社清水発電所などを施工していたが、台湾電力は大甲渓流域で一挙に五〇万キロワットの水力発電計画を立て、その第一着手として天冷発電所を、また東部では円山発電所の建設工事を受注した。さらに高雄では金属マグネシウム製造の旭電化工場、台湾肥料工場や、海軍の命による大々的な軍港工事、海軍病院の設計施工、あるいは陸軍兵站倉庫などがあった。
ところが、太平洋戦争の開始とともに工事は軍施設に集中され、海軍からは地下式油槽、燃料廠石油精製工場、台南飛行場拡張その他、陸軍からは台中州鹿港飛行場兵舎、台北南部に資材格納用の隧道、台湾軍司令官指揮所用隧道などの緊急工事が殺到した。また陸軍築城班によって、台湾全島の大防衛工事がはじまり、大林組は南部鳳山丘陵地区と樹林口地区の担当を命ぜられた。
このころ台湾でも現地召集が行なわれ、出張所職員や下請関係の応召者も多く、本島人(台湾人)の下請や労務者を主にして施工に当たった。これら諸工事のなかには、戦争末期にいたり、アメリカ軍飛行機の爆撃下で行なわれたものも数多い。
軍建協力会の結成
すでに政党は解消され、軍事政権下にあった日本は、国をあげて決戦体制にはいった。建設業界も前記のように各府県に土木建築工業組合を結成し、中央団体である日本土木建築工業組合連合会の統制下にはいったが、陸海軍の工事だけは例外であった。昭和十六年二月、陸軍が軍建協力会、翌十七年三月には海軍が海軍施設協力会を設立して、工業組合を所管する商工省(のちに軍需省)の統制外におき、とぼしい建設機器、資材、労力を、独占的に用いようとした。
しかし、実際問題として、有力業者はすべて両協力会のどちらにも属したので、この意図は達せられず、同一機器にそれぞれ陸海軍の標記プレートを打つなどして、業者を困惑させたことが伝えられている。両協力会とも会長は清水組の清水揚之助常任監査役であったが、大林組からは軍建協力会中部支部長に石田信夫常務取締役が就任し、鈴木甫常務取締役東京支店長は、のちに両協力会の副会長を兼任した。
軍建協力会の工事は、主として昭和十七年(一九四二)以後の南方占領地建設で、大林組は蘭印のバタビヤ(ジャカルタ)と昭南(シンガポール)に出張所をおいた。バタビヤ出張所は、所長岡部正二、次長手島政男、土木主任上山敏夫、建築主任石通太郎以下十数名の職員と、大工、鳶のフォアマン数名が駐在した。工事はワナラジヤ硫黄鉱山の精製工場や鉄道の建設、スラバヤ、バタビヤの各飛行場と兵舎、バンドン近郊の高射砲陣地、兵舎などの建設が主たるものであった。またスマトラでもパカンバルとハヤクンブ間の鉄道および油送管工事に従事し、岡田正、森本利男、高橋六郎、宮崎元久、松原精一らがこれに当たった。
フィリピンではネグロス島の飛行場建設を命ぜられ、関喜久男を隊長とする職員一二名と下請工員三五名が、昭和十八年(一九四三)の年末に同地に赴任した。資格は陸軍嘱託および陸軍雇員である。現地雇用のフィリピン人を使用して、ファブリカ、サラビア、タンザ、シライ、マナプラに飛行場を建設したが、占領下とはいえ米比軍やゲリラが残存して治安が悪く、数名の軍雇員が殺害された。
そのうち戦況が悪化して米軍機の空襲がはじまり、翌十九年末には米軍上陸が予想されたため、工兵隊の陣地構築にも協力した。二十年三月、米軍上陸後はまったく軍と行動をともにし、戦車壕やタコツボ掘りや負傷兵の収容、運搬にも従事した。この間、ある者は密林中で栄養失調でたおれ、またある者は米軍と戦って死に、関隊長もピストルで自決した。一行中最後まで生き残り、部隊とともに米軍に投降して帰ったのは河見章由、蓬田久一の二名のみで、下請工員もほとんど戦没した。次に大林組犠牲者の名をかかげる。
建築―関喜久男、北野久門、土木―館林薫、中村恵、中村徳一郎、坂本基次、渡辺要一、事務係―太田行雄、飯尾正、森前喜一郎、機械係―加唐定一
情勢急迫―一般産業の工場建設にストップ
昭和十七年(一九四二)一月マニラを占領し、二月にはシンガポールを攻略したわが軍は、つづいてジャワ、スマトラ、ビルマに進出して南方を制圧したが、六月のミッドウエー海鮮を機として戦局は逆転した。翌十八年にはニューギニア、ガダルカナルから敗退し、山本元帥の戦死、アッツ島玉砕などの悲報が相次いだ。またヨーロッパでも、ソ連に侵入したドイツ軍がスターリングラードで壊滅し、イタリアは単独降伏するなど、いわゆる枢軸側の敗色は日を追って濃厚となった。
国内情勢も窮迫の度を加え、昭和十七年六月、政府は工業規制地域、工業建設地域に関する暫定措置を閣議決定して、京浜、阪神、北九州工業地帯における一般産業の工場建設を禁止した。しかし、物資、労力の不足は、それまでにもこれら産業の工事を事実上不可能としていて、大林組もすでに三月には横浜、京都、神戸の三営業所を廃止していた。そして九月、軍施設と軍需産業の集中した広島営業所を、規模を拡大して支店に昇格させた。
当時受注した軍需工場は、日立航空機千葉工場、三菱重工業名古屋製作所、川崎重工業明石工場など戦局を反映した航空機工業や、神戸製鋼所H工場、同長府工場、日鐵八幡製鉄所戸畑工場などの鉄鋼関係、また日本発送電寺沢発電所、同岩本発電所など、いずれも超重点的産業ばかりである。三菱重工業が岡山県連島町に建設した航空機工場は、工事主任岩崎甚太郎以下職員四九名が配属された大工事であるが、他もこれに準ずる規模のものが多かった。
軍工事では、陸軍航空本部命令による暗号名マネ工事が代表的なものとしてあげられる。正式名称は岩国市に建設された陸軍麻里布第一燃料廠で、宝来佐市郎を主任(のちに新居恒人)に昭和十六年三月着工、完成までに工期四年余を要した大工事であった。しかし竣工直後の昭和二十年(一九四五)五月、米空軍二百余機の爆撃を受け、三日三晩燃えつづけて灰となった。このほかユコ工事、ギフコ第一号工事、チタ工事、カミク工事など、暗号名でよばれる多くの軍工事があったが、これらは完成後設計図をはじめ仕様書など書類全部の返納を命ぜられるきびしい工事であった。
この種工事のほか、特記すべきものに皇居内御文庫の建設がある。昭和十六年(一九四一)四月着工、翌十七年七月竣工し、同二十年五月、米機の東京大空襲で皇居炎上後は天皇の御座所に用いられた。地下防空壕をそなえ、ポツダム宣言受諾に関する御前会議はここで開かれた。
建設業の基幹産業としての重要性が真に認識されたのはこの時代であった。東条首相は昭和十七年(一九四二)十二月十五日、重要産業経済代表を招き、時局に関する官民懇談会を開催するに当たり、列席者三六九名中にはじめて建設業者を加えた。竹中藤右衛門(竹中工務店)、清水康雄(清水組)、鹿島精一(鹿島組)、原孝次(大倉土木)、林米七(西松組)、小谷清(間組)の諸氏と大林義雄の七名である。会議ののち、一同は宮中西溜ノ間において天皇に拝謁を許されたが、業者がこうした待遇を受けたのは空前のことであった。
昭和十七年四月、相談役白杉嘉明三は山西派遣軍司令官岩松中将の懇請により、現職のまま経済顧問に就任、同地におもむいた。山西省は華北の奥地にあり、軍閥の巨頭閻錫山がここに拠って自給自足し、山西モンロー主義をとなえただけあって、鉄、石炭をはじめ豊富な天然資源にめぐまれていた。ドイツ人顧問によってすでに開発に着手されていたが、わが軍が占領後これを大規模に発展させるため、民間に協力をもとめたものである。経済顧問は白杉のほか、東洋紡績常務取締役進藤竹次郎、大分セメント社長河野音治の両氏がいた。
当時大林組北京支店(支店長 妹尾一夫)は、軍の作戦に随伴して奥地深く進出していたが、山西省でも太原の山西郵政管理局庁舎その他の新築工事、同蒲線の寧武~段家嶺間鉄道工事、あるいは水害復旧工事に従事した。白杉が顧問を委嘱されたのは、これら大林組の実績と、岩松軍司令官が大阪師団長時代の旧知であったためと思われる。
白杉の任務は省都太原市の都市計画、国策会社山西産業の工場建設、鉄道施設の改革などであったが、最も急を要したのは住宅問題の解決であった。そこでまず日中合弁の山西房産会社を設立し、首義門外の区画整理を行なって煉瓦造住宅や蒸気暖房つきのホテルなどを建設した。
彼は滞在約二カ月で計画を立案し、いったん帰国して、さらに翌十八年ふたたび同地におもむき任務に当たった。彼が六十六歳から六十七歳にわたる期間で、召集令状によらざる応召というべきものであった。
昭和十八年(一九四三)四月、工事量の増大、インフレーション激化などの諸事情により、株式会社大林組の資本金を四九〇万円増加し、一五〇〇万円全額払込とした。これによって同年九月期の決算では、株主配当金を前期に比し一分減じて年九分とした(翌年三月決算で一割に復配)。
満州国法人大林木材工業株式会社を設立
昭和十八年二月、満州国法人大林木材工業株式会社が奉天に設立された。関係会社内外木材工芸の奉天支店および同社工場、満州大林組牡丹江製材工場等の木材関係事業を合併し、満州および関東州における木工事業の一元化をはかったものである。資本金は満州国国幣二〇〇万円で、大林組、満州大林組、内外木材工芸の三社が出資し、役員は次のとおりであった。
社長 大林義雄(大林組社長)、常務取締役 高橋誠一(満州大林組常務取締役)、取締役 中村寅之助(大林組専務取締役)、同 松本儀八(内外木材工芸常務取締役)、同 吉川勝(満州大林組建築部長)、同 中西博(内外木材工芸取締役、前奉天支店長)、監査役 田辺信(大林組監査役)、同 塚本浩(満州大林組取締役支配人)、同 佐藤辰夫(内外木材工芸本店会計課長)
同社は新京特別市、牡丹江市に支店をおき、製材、造作、建具工事や、家具の製造販売を主たる業務としたが、ここにも戦局は影響を与えた。航空機増産の要請により、昭和十九年(一九四四)十月、社名を大林航空機工業株式会社と改め、もっぱら木製の偽装用飛行機の製作に当たり、終戦にいたった。