第四節 国土開発に官民混合方式
民間資本の進出を期待―土木工事活発化
昭和三十七年(一九六二)に策定された全国総合開発計画は、地域格差の是正を目標に、新産業都市(八戸、秋田地域など一五地域)、工業整備特別地域(鹿島地域など六地域)設置等の拠点開発方式をとったが、予期したような成果を得られず、過密過疎現象はいよいよ深まっていった。それでこれを修正し、同四十四年には新全国総合開発計画を発足させ、ネットワーク方式により分散開発をはかることとなった。新計画の特色は、開発を進めるに当たり官民の混合方式や民間開発業者の参加をもとめている点で、政府の長期計画に民間の進出を期待する画期的というべきものであった。これによって、従来ほとんど公共工事にかぎられていた土木工事においても、市街地再開発、宅地造成工事等に民間資本が投下されるようになった。また、このころから、道路、港湾、空港、鉄道等の交通投資が増大し、上下水道など都市整備に関する公共投資も大幅に増加した。
この新旧両国土開発計画の過渡期に際し、大林組が施工した主要土木工事は以下のごとくである。
鹿島臨海工業地帯開発
工業整備特別地域整備促進法にもとづき、昭和三十八年茨城県が鹿島地区で着手した臨海工業地帯開発は、わが国空前の大プロジェクトといわれた。ここは鹿島灘に面し、四〇〇〇万平方メートルにおよぶ不毛の砂丘地であるが、その平坦な海岸線に人工の港湾をつくり、三〇万トン級の船舶によって原料を搬入し、また製品を搬出する構想で、鉄鋼、精油、石油化学等の近代的大企業を誘致した。開発は現在もなおつづき、わが国の主要建設業者のほとんどが動員されているが、大林組も昭和四十二年(一九六七)七月、住友金属工業の圧延工場工事を手はじめに参加した。
工事は土木、建築の両面にわたっており、昭和四十六年末現在、施工済みあるいは施工中の主要工事は以下のごとくである。
- 東京電力―鹿島火力発電所第一期工事(本館基礎、同上部建物、機械台基礎、集合煙突基礎、開閉所、水処理室その他)、第二期工事(本館基礎、同上部建物、機械台基礎、集合煙突基礎)、第三期工事(本館基礎、同上部建物、機械台基礎、集合煙突基礎、開閉所および水処理室、厚生館その他)、第四期工事(本館基礎、同上部建物、屋外機械台基礎その他)
- 住友金属工業―北航路製品岸壁工事、中央水路製品岸壁工事、圧延工場一、二、三期工事、厚板工場、第一製鋼工場第一期その他
- クラレ―鹿島工場専用線軌道その他土木工事、社宅敷地造成および新築
- 鹿島メラミン―プラント土建工事
- 三菱油化―鹿島ポリエチレンプラント土建工事
- 日東化学工業―化工機鹿島事務所
- 日本電気―宇宙通信用パラボラアンテナ基礎および付属建家
- 三菱重工業―第一号および第三号ボイラーフレーム据付工事
- 日立プラント建設―第四号ボイラーフレーム据付工事
- 武田薬品工業―鹿島工場プラント、南航路岸壁工事、家族寮新築その他
- 鹿島アンモニヤ―尿素バラ積倉庫その他
- 鹿島南共同開発―独身寮
- 茨城開発―宝山ビル新築
- 茨城県企業局―浄水場関係諸工事
- 運輸省第二港湾建設局―中央航路掘削、土砂運搬その他
- 公害防止事業団―鹿島共同福利施設
- 日本鉄道建設公団―国鉄潮来駅新設その他
以上の諸工事はほとんどが施工済みで、その請負金合計は総額一〇三億九五〇〇万円を越え、なお大部分は引きつづき追加工事が行なわれている。現在施工中のものも、請負金合計は六八億一〇〇〇万円に達し、東京電力、茨城県企業局等からはさらに追加工事の発注が予定されている。昭和四十三年(一九六八)九月には鹿島出張所を開設して、小椰豊が所長に就任した。
東播磨港伊保地区埋立地造成 〈昭和四十一年一月~同四十三年一月〉
東播磨臨海工業地帯造成は、兵庫県が高砂市伊保町地先に行なったもので、大林組が造成した五九万八五〇〇平方メートル、護岸延長四一七〇メートルの埋立地は、電源開発会社および関西電力の両火力発電所敷地に当てられた。またこの工事に引きつづき、電源開発から高砂火力発電所本館建設工事をはじめ、同冷却水路第一、第三、第四工区その他の土木工事を、関西電力からは特高開閉所建設工事と放水路工事一式を受注し、敷地造成から工場建設にいたるまで一貫して施工した。
この地区は播磨灘に面し、台風期はもとより冬季は季節風で波が高く、護岸用の捨石やコンクリート工事は難渋した。また浚渫に用いた佐伯建設のポンプ船日進丸が、海底に埋没していた爆弾にふれて損傷する事故がおこった。これは終戦後、アメリカ軍から処分を請負った業者が不法投棄したもので、他にもあることが判明したので、磁気探査法によって捜索し、海上自衛隊の協力を得て外洋に運搬して処分した。これらのことにもかかわらず、造成は工期よりも六カ月早く竣工し、建築工事に着手することができた。工事の請負金は三二億四〇〇〇万円、工事事務所長は小鹿孔彦である。
安治川大水門 〈昭和四十一年六月~同四十五年三月〉
安治川水門は、大阪市を高潮の被害から守るため、伊勢湾台風級の大型台風にもたえるものとして港区魁町五丁目地先に建設された。この水門の規模は世界最大級と称され、幅員五七メートル(円弧長九五メートル)の鉄製アーチ型ゲートと、幅員一五メートルのフラット型ゲート副水門とによって一気に安治川を締切り、満潮時における高潮の遡上を阻止しようとするものである。基礎には二四メートル×一二メートルの潜函一基と、二〇メートル×一〇メートルの潜函二基を、水面下五〇メートルの第二砂礫層まで沈下させてある。
施工に際しては、潜函初期の荷重軽減、函内テレビやマンロックの開発等、さまざまの問題があったが、これらは関係各部の緊密な協力のもとに解決され、気圧軽減のためには潜函周辺にディープウエル工法がとられた。函内テレビは当時においては珍しく、多数の見学者が事務所をおとずれ、左藤大阪府知事も現場視察に当たり函内テレビによって掘削の進行状況や、函内におけるブルドーザの活躍などを視察した。請負金は一五億七六〇〇万円、工事事務所長は中店輝邦である。
中央高速道路大鶴工区 〈昭和四十一年三月~同四十三年九月〉
東名高速道路を新東海道とするならば、中央高速道路は新甲州街道に当たり、東京と富士河口湖をむすぶもので、昭和四十四年(一九六九)四月全通した。このうち山梨県上野原町日野地区の大鶴工区を、大林組は日本機械土木と共同企業体によって受注し、道路延長四〇五二メートル、橋梁延長六八メートルを施工した。
この工区は山岳地帯であるため、切土量がきわめて多く、土工量は一〇〇万立方メートルを越えた。これを処理することと、また経済上の理由から、本来橋梁を架設すべき場所も盛土に設計された結果、高さ三〇メートルにもおよぶ盛土施工をした場所があった。請負金は九億三三〇〇万円で、工事事務所長は小西明夫である。
首都高速道路第六一八工区 〈高架橋下部―昭和四十二年三月~同四十四年三月〉
首都高速道路のこの工区は、日本橋浜町河岸から対岸に架けられる高架橋が、隅田川の上で、千葉、水戸方面へ分かれる地点の工事である。隅田川の中央部で行なう橋脚の基礎工事は、満潮面より一二メートルも掘削するため二重締切りとし、内側の矢板二五メートルは基礎完了後、上端で水中切断した。一基二一〇〇立方メートルのコンクリート基礎は二回に分けて打設したが、軽量コンクリートによる大型基礎はこれが最初であるため、クーリングや温度測定を行ない、施工の完全を期した。請負金は六億八八八〇万円、工事事務所長は大隅幸男である。
首都高速道路では、このほか横浜~羽田線多摩川橋梁の橋脚九基、飯田町付近第五二三工区の潜函三基、フーチング基礎四基、船河原橋下部新設と河川バイパス一五六メートル等を施工した。また昭和四十二年(一九六七)十月から、四号線の東京駅八重洲口から呉服橋にいたる延長四五五メートルの地下工事を施工、また高井戸および横浜でも現在工事に従事している。
九州高速道路植木工区 〈昭和四十四年三月~同四十六年三月〉
九州縦貫自動車道路は北九州から福岡、熊本、八代を経て鹿児島にいたる高速道路で、これが完成すれば九州縦断に要する時間は五時間以下となり、九州は現在の二分の一にミニ化されるといわれる。植木工区は熊本県鹿本郡植木町から北部町までの延長七一八〇メートル、ダブルトランペット型インターチェンジおよびサービスエリアを含む工事で、青木建設との共同企業体によって受注した。
この地方の火山灰土は、施工上最も困難といわれる関東ローム層にくらべさらに土質が不良で、施工に先立ちまずこの火山灰土が使用できるか否かを解決しなければならなかった。このため試験盛土工事がまず発注され、これを受注した大林組は技術研究所と協力して延長四二四メートルのテスト盛土を行ない、火山灰土に対する問題点を解明し、以下のような施工法を立案、本工事において実施した。
(イ)曝気効果を利用するため、夏季を土工の最盛期として、サンドフィルターで土中の水を早く抜くこと、(ロ)新しい地肌での作業を極力さけ、バックホーを有効に使用すること、(ハ)灰土層上にある黒ボクを混入し、強度の増加をはかること(黒ボクは空隙の多い土で、これに灰土の水を吸収させたものである)。
従来このような悪質土の場合、捨土するか化学的処理を行なうのが普通で、この工事でも当初は安定処理の方法が考えられたが、現場と技術研究所の緊密な協力により、土質化学的研究をした結果、盛土材料として灰土の使用を可能ならしめたことは技術的にも経済的にも大きな成果であった。請負金は一四億三二〇〇万円、工事事務所長は宮本正道である。
尾道大橋 〈昭和四十一年三月~同四十二年三月〉
尾道大橋は、広島県尾道市を水道をへだてた向島とむすぶ主径間二一五メートル、両側径間八五メートル、幅員八メートルの大橋梁で、橋台および橋脚各二基を施工した。
この工事では地形上、鋼矢板土留を安定させるためにPSアンカーによる特殊工法を採用した。また尾道側の橋脚は交通量のきわめて多い国道二号線に隣接しており、橋脚基礎には海中に潜函に沈設したが、この沈設作業は岩盤のなかに全面発破を使用し、二・五メートル以上も沈下させる特異なものであったので、安全面においても技術面においても、きわめて慎重に施工せねばならなかった。
向島は造船工業地帯で尾道市とはきわめて密接な関係にあるが、これまではフェリー以外に運輸手段がなかった。それがこの大橋の完成によって陸つづきとなり、自動車交通が可能となった。請負金は一億一八五六万円、工事事務所長は湯浅寿輝である。
早瀬大橋 〈昭和四十四年十二月~同四十七年三月(予定)〉
早瀬大橋は広島県倉橋島早瀬と、能美島大柿をへだてる早瀬の瀬戸をむすぶもので、一般県道大柿~釣土田線の音戸町早瀬~大柿町大君間に架橋される。倉橋島は音戸大橋(大林組施工)によって呉市と直結しているが、早瀬大橋が完成すれば、さらに能美島、江田島も広島広域都市圏に含まれ、産業および観光開発が急速に促進されることが期待される。
橋梁工事は早瀬側が橋台一基と橋脚二基、大君側が橋台一基、橋脚三基、海中橋脚二基であるが、橋脚の最高のものは三六・五二メートルに達する。取付道路は早瀬側が延長五三〇メートル、大君側は六二〇メートルで、早瀬大橋そのものの延長は六二三・五メートル、幅員九・五メートルである。ここに採用された海中橋脚の基礎は、大口径場所打杭基礎工の一種で、この方式による施工は、本四連絡橋における基礎工のテストケースとして注目されている。請負金は五億三三〇〇万円、工事事務所長は森本茂三郎である。
大阪南港連絡橋 〈昭和四十五年七月~同四十七年十月(予定)〉
昭和三十三年(一九五八)に着手した大阪南港の埋立工事(埋立地八九〇万平方メートル)は、同四十七年度完成を目ざして進められているが、さらにこれを西方に延長して、新南港防波堤を築造し、港湾施設を整備する工事が行なわれている。この完成によって予想される年間貨物取扱量は、新南港防潮堤を築造し、港湾施設を整備する工事が行なわれている。この完成によって予想される年間貨物取扱量は、現在の二倍に当たる九〇〇〇万トンとみこまれ、この港湾施設を中心に、臨海工業用地、一般商業用地、住宅用地、公園緑地用地を完全に区画区分した新港湾都市の建設が予定されている。
これまでに大林組が担当した南港関係工事は、六〇〇~一〇〇〇トンのケーソン製作据付け(内貿埠頭岸壁)、ケーソン据付けL型岸壁(埠頭岸壁)、コンテナ埠頭(マイナス一二メートル岸壁)、コンテナ埠頭第二バース、フレートステーション、南港道路環状線、上下道配水管付設等数多いが、この新港湾都市建設計画の一つとして発注された南港連絡橋の南港側基礎工事を、白石基礎との共同企業体で受注した。
南港と大阪都心をむすぶこの連絡橋は、ゲルバートラス方式のダブルデッキ構造で、上下各四車線の自動車専用道路橋である。全径間の長さは九八〇メートル、中央径間は五一〇メートル、幅員一九・二五メートル、桁下高五一メートルで、中間橋脚は二基、この型式による長大橋としては、カナダのケベック橋、イギリスのホース橋に次ぐ世界第三位であるが、これらは一般道路橋であるから、自動車専用橋としては世界第一位といえる。この建設は本州四国連絡橋のテストケースといわれ、大林組の土木技術が真価を発揮するものとして、業界の注目を集めている。工事事務所長は中店輝邦である。
以上のほか、この時代に行なわれた道路・橋梁工事には、国道一号線西湘バイパス(国府津森戸川~酒匂川間)、国道一号線蒲原高架橋、阪神電鉄新淀川橋梁、山陽本線猿猴川橋梁等があり、市街地では東京新宿の副都心一一号高架道、また大阪では万国博関連工事として、北大阪急行電鉄江坂高架橋、新御堂筋線新大阪駅工区等がある。
京葉線羽田隧道 〈昭和四十三年一月~同四十五年九月〉
国鉄京葉線は、京浜、京葉臨海埋立地を通過し、川崎市から千葉県木更津市にいたる約一〇〇キロの貨物線として計画され、将来、これらの重工業地帯の大動脈となるものである。このうち起点川崎市塩浜から大井埠頭までの約五キロの間に、羽田隧道と称する数カ所の河底、海底トンネルがあるが、大林組と鹿島建設が共同で受注した多摩川河底トンネルはその一つで、わが国鉄道建設史上希にみる難工事とされた。
隧道の延長は五八〇メートルであるが、そのうち四八〇メートルは沈埋トンネル(長さ八〇メートル、幅一三メートル、高さ八メートルの沈埋函六基)で、両岸取付け部は潜函となっている。沈埋トンネルはアメリカでは過去七十年の歴史をもち、サンフランシスコ湾の海底横断に用いられて有名であるが、わが国で本格的に採用されたのはこれが最初である。この工法は水底トンネルのプレハブ工法ともいうべきもので、プレハブのエレメントは全熔接水密鋼殻をもつ鉄筋コンクリート造であり、各エレメントの接手は、沈設後、水圧圧接によって完全止水されるため防水が確実であること、圧気の必要がなく水上から直接作業ができることなど、多くの利点がある。
これが難工事とされたのは、多摩川の航行規則や羽田空港滑走路延長線上にあるための上空制限等、立地条件による工事の制約があったことと、多摩川河口が感潮水域で台風と洪水の脅威にさらされ、また河水の汚染によって川底が暗く、直接水中測量を行なうことができないなど、多くの原因によるものであった。そのため沈埋工法が用いられ、沈埋函底にしく砕石基層の施工には、水上からの遠隔操作により水中走行するスクリード機械を用いたが、作業はきわめて困難であった。請負金は一三億五二〇〇万円、工事事務所長は松下照夫である。
山陽新幹線六甲隧道北山工区 〈昭和四十三年一月~同四十六年三月〉
新大阪、岡山間一六〇・九キロをむすぶ山陽新幹線は昭和四十二年(一九六七)三月着工、同四十七年三月開業を目標に工事を進めている。これが完成すれば両市間の往来は一時間に短縮されるが、全線一六〇・九キロのうちトンネル部分が総延長五八キロ、全区間の三六%を占めている。なかでも、西宮、神戸間の六甲トンネルは全長一六・二五キロで、昭和四十六年十月全通したが、これは日本第一であるばかりか、鉄道トンネルとしては世界第三位である。大林組はこの六甲隧道のうち西宮市を横断する北山工区を担当した。延長は二・七五キロ、掘削断面八五平方メートル、掘削土量二三万立方メートル、巻立コンクリートは五万立方メートルにおよび、作業用の斜坑は延長四三〇メートル、掘削断面は二〇平方メートルであった。
六甲山系は海底隆起による花崗岩質であるため、数本の大断層が交差し、膨張性のモンモリロナイトを含む脆弱な破砕帯があり、切羽の鏡を破って水と土砂が噴出するなど、悪戦苦闘の超難工事であった。この難工事を進めつつ、北山工区の工事担当者たちはこれまでにないいくつかの新しい試みを断行、成果をあげた。その第一は坑内用誘導無線装置の開発で、これにより従来トンネル内で使えなかった無線電波を、二キロ以上におよぶ切羽と通行車輌への指令連絡に用いることができるようになった。第二は仕事の流れを自動表示、自己記録するオペレーショングラフを考案、このデータ解析によって仕事の隘路を発見し、改善の方策を立て、処置方法を講じた。第三はレーザー照準器を使用、レーザー光線によって測量を代行させ、土木係の業務をいちじるしく簡素化させた。請負金は二三億円、工事事務所長は黒沢重男である。
東京地下鉄九号線和田倉門工区 〈昭和四十三年十月~同四十六年四月〉
帝都高速度交通営団九号線は国鉄常磐線綾瀬から小田急線代々木上原にいたる三五・五キロで、昭和四十六年(一九七一)四月、綾瀬~霞ガ関間が開通し、全線開通は同四十七年に予定されている。また都営地下鉄六号線は東上線大和を起点として桐谷までの三五キロであるが、一部はすでに開通し、九号線と前後して全線開通が見込まれている。
和田倉門工区は、皇居前濠端を丸ノ内ビル街から日比谷公園にいたる第六工区二・三キロのうち、丸ノ内一番地先三九〇メートルの区間である。この第六工区の区間には、営団地下鉄、都営地下鉄ともにそれぞれ三つの駅があり、各駅が地下一階の遊歩道で連絡されている。また大手町では東西線、日比谷では日比谷線、丸ノ内線とも交差し、東京駅を中心に二キロ四方の「地下東京」を形成しているが、和田倉門工区はその心臓部に当たる。施工に際しては、この周辺が特別風致地区であり、巨大ビルの密集地帯でもあるため、種々のきびしい規制を受けた。請負金は一四億九五〇〇万円、工事事務所長は中沢忠である。
都営地下鉄錦町工区 〈昭和四十四年三月~同四十六年七月〉
この工区は、埼玉県大和から東京都桐ヶ谷にいたる都営地下鉄六号線のうち、都心部千代田区神田錦町一丁目から一ツ橋一丁目にいたる四二三メートルの区間である。工事は複線断面のシールド工事で、これに用いたシールド機は外径一〇・七メートル、長さ七・六メートル、重量四五〇トンの超大型である。このシールド機は大阪市交通局で二基、近畿日本鉄道で一基使用したことがあるが、東京の地下鉄工事では最初の試みとして業界の注目をひいた。このあたりは家屋の密集地帯であるため、工事に先立ち湧水、圧気、薬注等の諸試験を行ない、民家や井戸に被害がおよばないよう慎重な準備をした。一次覆工用のRCセグメントには、ショックベトンを用いた。請負金は二〇億一七〇〇万円、工事事務所長は森実二である。
これより先、昭和四十一年十一月、東京地下鉄九号線の小川町工区を施工、同四十四年八月完成した。これは小川町と錦町との間で延長五〇四メートル、工事は開削工法で施工、一部は地下二階で、地下一階はコンコースである。また昭和四十四年一月には、前記錦町工区と隣接する都営一ツ橋工区一〇五メートルを受注した。これも開削工法で施工、この両工区の完成によって神田橋、一ツ橋の間がむすばれた。
札幌地下鉄北五条~北大通間工区 〈昭和四十四年一月~同四十六年十一月〉
札幌地下鉄は、市の中心部で交差する東西二〇キロ、南北二五キロの二つの路線を基本として計画されているが、そのうち二〇キロを緊急整備することとし、特に南北線の一二キロは昭和四十七年(一九七二)の冬季オリンピック開催を目標とした。この北五条と北大通四丁目間六一四メートルはその一部に札幌駅を含み、地質が砂利層であるため、土留H杭の先端を山型鋼と鋼板で補強したもので打ちこみ、開削工法で施工した。構造は地下一階型である。なお、この札幌地下鉄は、都心部以外は高架構造となっているので、高架部走行のときの騒音防止にゴムタイヤ、案内軌条方式の車輌が採用されている。請負金は一四億二三〇〇万円、工事事務所長は加藤䧉久である。
名古屋地下鉄新尾頭工区 〈昭和四十四年三月~同四十六年三月〉
名古屋市営地下鉄二号線が、金山駅から中央埠頭まで約六キロ延長されるに当たり、金山、堀川間の単線並列型、延長一一八三メートル(一番線五一八メートル、二番線六六五メートル)をシールド工法によって施工した。一次覆工には外径六・四メートルの鉄筋コンクリートセグメント、二次覆工には平均厚さ三〇〇ミリのコンクリートライニングを施工した。地質は粘土と砂が互層する熱田層であるため掘進には圧気法を用い、また地下水位が高く砂層が主であることから、シールドの両側に深さ約二八メートル、径八〇〇ミリの深井戸を掘り、地下水の低下をはかった。請負金は一六億円、工事事務所長は安井史朗である。
以上の工事は名古屋市発注によるものであるが、このほか国鉄金山駅構内を横断する二号線と四号線の地下工事を国鉄岐阜工事局の発注により施工した。これは東海道本線、中央線、名鉄の路盤下に隧道を構築するもので、列車密度の高い営業線下の工事であり、特に慎重な工法が要求された。なかでも中央本線の下は、乗降場と前後配線などの関係で切替工法が不可能であることや、地下鉄の土かぶりがわずか一・五メートルしかない特殊条件下にあった。そこで各種工法を検討した結果、東海道本線と名鉄線の下は線路を切りかえて開削工法によるが、中央本線下の約二六メートルは大林組が開発した鋼矢板水平押込工法を採用することを提案し、国鉄当局もはじめてこの新工法の実施にふみ切った。
この工法は地下鉄構造物の周辺に、二二五トンのジャッキ八基を装備したサイレントパイルマスターを用いて鋼矢板を水平に押しこみ、上部と側部を完全に防護した上、内部を掘削する。つづいて支保工建込みを行ない、覆工コンクリートを打設して地下構造物を構築するもので、国鉄技術当局はその成果を高く評価し、都市土木、ことに土かぶりの浅い地下に大断面の地下構造物を建設する場合、最もすぐれた工法として推奨された。
このころ並行して施工した隧道工事には、昭和四十四年十一月施工の国道一六七号線新二見トンネル、同四十五年一月完成した国道三九号線大雪トンネル等がある。
八重洲第二自動車駐車場・八重洲地下街 〈昭和四十一年二月~同四十四年五月〉
東京駅は丸ノ内側を正面として設計されたが、戦後は八重洲口の利用者が増加し、ことに新幹線開通後の乗降客は一日七〇万人に達するようになった。そこで八重洲口広場下の地下街を大拡張し、駐車場や店舗を増設するとともに、公共地下道および羽田につうじる首都高速道路四号線を設け、交通緩和に資することとした。これによって地下二階の駐車場は自動車五〇〇台の収容が可能となり、有名店舗が軒をならべ、東洋一の規模を誇る大地下街が出現した。またこれと同時に鉄道会館(東京駅八重洲本屋・大丸東京店)も上層部に六階を増築、当初の計画であった一二階建てを完成して駅前の景観も首都の玄関にふさわしく整備された。
大林組が施工したのは地下街北工区で、施工面積は地下一階一万一七平方メートル、同二階六一三二平方メートル、同三階四一〇六平方メートル、合計二万二五五平方メートルという大規模なものであった。
工事に当たって苦心したのは、電気、ガス、水道等の埋設物が縦横に走り、その防護処置をしなければならなかったことで、二万ボルトの電線を移設するに際しては、労務者に対して特別の講習を受けさせた。またこのころは、過激派学生のデモが駅前でしばしば行なわれ、現場の安全維持には容易ならぬ努力を要した。請負金は一八億五八四〇万円、工事事務所長は安芸恒夫である。
なお、この地下街工事中の昭和四十五年十一月二十七日、他業者担当の地下工区で出水事故がおこり、一時は地下街全体が水没の危機に瀕したが、幸いにも間に止水壁が設けてあったためことなきを得た。この止水壁は同工区に隣接する首都高速第四五五工区の大林組工事事務所長江頭成人が、不測の事故にそなえて進言し、それにもとづいて設けられたものであった。事件は新聞に大きく報道され、大林組の慎重な配慮が賞讃されて、同所長は会社から表彰された。
東京駅地下乗降場 〈その一工事―昭和四十三年四月~同四十六年九月〉
この工事は、東京駅丸ノ内側の広場を地下二八メートルまで掘削、地下五階の新駅を構築する空前のもので、これが完成すると東海道線と総武線の相互乗入れが実現し、湘南と総武地方は都心を経て直結される。地下駅の全長は七三五メートル、幅員四四メートルで、地下一階は出改札口等の駅設備とコンコース、地下二、三階は機械室、電気室、中央制御室等、地下四階はコンコース、地下五階に延長三二〇メートル、幅員三・二メートルのプラットホームがあり、一五輛編成の列車が発着する。地下一階と地下四階間は直通エスカレータでむすばれ、地下四階と地下五階のプラットホームとは階段とエスカレータで連絡される。大林組が施工したのはこのうち中央部約三〇〇メートルの躯体工事である。
この躯体工事では、大林組が誇るOWSソレタンシュ工法が全面的に採用され、地中連続壁は土留壁、止水壁として完璧の効果を発揮したのみならず、これがそのまま躯体の外側壁として使用された。
地下駅の一部は丸ノ内駅舎の下に伸び、このため本屋の仮受工事をも行なった。この本屋は第一編でのべたように、大正三年、大林組によって建てられたもので、すでに六十年を経過し、しかも関東大震災と戦災により、二回も火をくぐった歴史的建築物である。この仮受工事は時間的にも場所的にもきわめて難工事であったが、一ミリの沈下もおこさず完成した。またこの地下駅上部には将来高層ビルを建設する予定の部分があり、ここにはそれにたえられるよう、最大八〇ミリ肉厚の鉄骨が使用された。請負金は三七億一九四〇万円、工事事務所長は佐藤信三である。
住宅産業を背景に―活発となった宅地造成
土木工事はその性格上、これまで政府や地方自治体、公団、公社等による公共事業として発注されるものが多く、民間の土木工事として大規模なものはダム建設であった。しかし電力が火主水従となるにともない、ダム工事は後退し、これに代わるものとしては臨海工業地帯の項でのべたように、重化学工業関係の大規模な土木工事が活発となった。またタンカーの大型化、コンテナリゼーション等、海運界の情況が変化するにつれ、大型ドックの新設や造船所の拡張増設工事も行なわれた。さらに顕著な現象として、住宅産業の勃興を背景に、民間企業が宅地造成に進出したことがあげられる。ここでは大林組が施工した造船関係の工事と、宅地造成について概説する。
石川島播磨重工業相生工場第三ドック 〈昭和四十二年二月~同四十三年八月〉
石川島播磨重工業の相生工場第三ドックは、長さ三四一メートル、幅員五六メートルで、三〇万重量トンの船舶修理用乾ドックとして建設された。このドックは本体の約二分の一が海中に突出して築造されるため、仮締切りの延長は四七五メートルにおよび、長さ二四メートルの鋼矢板約二三〇〇枚を一二メートルないし一五メートル幅に二列に海中に打ちこみ、その間を土砂で中埋めした大規模工事であった。
指名入札の条件が設計施工となっていたので、設計の段階から経済性を十分に考慮し、渠底部分に有孔ヒューム管を主とした減圧装置を設けて渠底のコンクリート厚を大幅に減少する、また仮締切りのうち延長約二八〇メートルの部分は艤装岸壁とするなど、建設費の低減をはかった。仕様書に規定された完成後の湧水量は一時間一〇〇トンで、これについては施主側のきびしい要請があったので、技術研究所や京都大学で模型実験を行なって万全を期した結果、竣工後の湧水量は毎時三五トンにとどまり、特にゲート戸当たり部ではほとんど漏水をみなかった。請負金額は一六億一〇〇〇万円、工事事務所長は小鹿孔彦である。
三菱重工業神戸造船所船台延長 〈昭和四十四年十二月~同四十六年一月〉
この工事は、渠幅三三・八メートルの第一船台は長さを七九・四メートル、渠幅六一・五メートルの第二、第三船台は長さを一一三・一メートル延長して、それぞれ三〇〇メートルの長さとするとともに、第三岸壁も一〇〇メートル延長して完成時の長さを三〇〇メートルとする大型船建造用拡張工事である。当時造船界は繁忙で、この工事期間中に八隻の新造船を進水させる計画であったから、建造作業に支障を与えず施工を行なわねばならなかった。
この工事は、渠幅三三・八メートルの第一船台は長さを七九・四メートル、渠幅六一・五メートルの第二、第三船台は長さを一一三・一メートル延長して、それぞれ三〇〇メートルの長さとするとともに、第三岸壁も一〇〇メートル延長して完成時の長さを三〇〇メートルとする大型船建造用拡張工事である。当時造船界は繁忙で、この工事期間中に八隻の新造船を進水させる計画であったから、建造作業に支障を与えず施工を行なわねばならなかった。
造船所関係の大規模な工事としては、このほかに昭和四十五年四月に受注、同四十六年七月竣工した三井造船玉野造船所の第五船台拡張工事がある。
宝塚中山台ニュータウン 〈昭和四十五年二月~同四十九年二月(予定)〉
住宅産業の勃興とともに、商社、生保、不動産業者等による宅地造成、ニュータウン開発が盛んとなり、大林組でも各地で工事に当たった。昭和四十年以後のものだけでも、野村不動産の寺分(鎌倉)、丸山(同)、大阪府岸和田、奈良市学園前、住友商事の桂台(鎌倉)、日本生命の三日市(大阪府河内長野市)、阪急日生ニュータウン(兵庫県川西市)等があるが、ここには代表的な工事として宝塚市中山台の開発をあげる。
中山台の造成は、昭和四十二年(一九六七)二月、クラレ不動産の発注により施工に着手し、同四十四年五月に一応完成して、一七万平方メートルの宅地は大半分譲を終わった。ニュータウン計画はその延長で、クラレ不動産と大林組の共同出資により、この団地につづく山の急斜面を一八八万平方メートル造成し、宅地七九万平方メートル、世帯数五〇〇〇、人口約二万人の都市を建設しようとするものである。この計画のユニークな点は、自然環境を極力保存することにあり、全計画用地は二二〇万平方メートルであるが、三二万平方メートルは山林原野のまま存置する。また宅地面積も開発面積の四二%にとどめ、教育、娯楽その他の公共施設、道路、公園等に余裕をもたせたことはレイアウトのぜいたくさを物語るもので、この種の開発計画において他に例がない。
この造成は、一〇〇〇万立方メートルの切土を行ない、これを渓谷に盛土する設計であるが、斜面がきわめて急であるため、施工中あるいは施工後の豪雨時には土砂が流出して既設団地に災害をおよぼすおそれがあった。そこでまず防災工事を先行的に施工し、二三〇〇メートルにわたる河川改修、二万五〇〇〇メートルの仮排水管埋設、堤高三〇メートルの洪水調節ダム二基を建設した。本工事は現に進行中であるが、宅地のほかにロックフイルムダム(下流盛土崩壊防止用)八基、道路(幅員二二~六メートル、アスファルト舗装)二六万五〇〇〇平方メートル、橋梁(PC桁橋、鉄板桁橋)延べ二四〇メートル、排水路、汚水処理場等の建設、ガス管、水道管の埋設等が並行的に進められている。住宅区域計画は一戸建用地が主であるが、山荘用地、中高層住宅用地もあり、昭和四十七年八月から同五十年十月にかけて、六区画に分割して分譲される予定である。工事事務所長は海津智琢、総事業費は約二〇〇億円と見込まれている。