第二節 北浜銀行事件
岩下氏、頭取を辞任―実業界を引退
大正三年(一九一四)四月、一新聞の記事は大阪電気軌道会社の増資失敗を報じ、同時に岩下氏が頭取である北浜銀行の大軌に対する貸出しを放漫として攻撃した。これが動機となって取付けがおこり、芳五郎をはじめ松方幸次郎、谷口房蔵、小林一三、志方勢七ら有力諸氏が奔走し、日本銀行から三〇〇万円の救済融資を受けたが、事態は収拾できなかった。
そのため岩下頭取は辞任し、杉村正太郎氏が後任となったが、事後の処理が適切を欠き、また行内の不正事件が暴露するなどのこともあって、ふたたび取付けとなった。その結果、同年九月から休業のやむなきにいたり、頭取は杉村氏からさらに高倉藤平氏に交代した。減資その他各種の手段により、ようやく更生開業したのは同年十二月で、以上が北浜銀行事件とよばれるものの概要である(北浜銀行はのちに三十四銀行に合併され、さらに鴻池、山口、三十四の三行が合併して現在の三和銀行となった)。その後岩下氏は背任罪に問われ、それが私利のためでないのは明らかであったが、実業界を引退して富士山麓に余生をおくった。
この事件と芳五郎との関係には、きわめて緊密微妙なものがあった。個人としては岩下氏となみなみならぬ交遊があり、大林組としては、北浜銀行に債務を負い、大軌に対しては大口債権者の立場であった。したがって両者の利害はまったく共通であり、北銀、大軌が苦境にあることは、大林組にとっても危機にほかならなかった。
この事件に先立つ明治四十三年(一九一〇)五月、岩下氏の援助のもとに創立された日本醤油醸造会社が破産したとき、芳五郎はみずから進んでその整理に当たった。工場建設を請負った関係もあるが、北浜銀行融資の損害を軽減するためで、彼の努力によって最小限に食いとめることができた。彼が社長となった日本製樽会社は、この目的で設立されたものである。
また大正元年(一九一二)八月、当時関西電気業界の花形といわれた才賀商会が破産した。日露戦争後の好況に乗じて全国各地に支店を設け、関係会社数は八十余社、資本金総額は三〇〇〇万円と称されたが、そのほとんどは岩下氏の援助によるものであった。しかし前年末来の不況によって金融が逼迫し、積極的にすぎた経営方針が行きづまった結果の破産であったが、このとき岩下氏は桂前首相とともに外遊中であった。芳五郎は才賀商会と無関係であったにもかかわらず、その破綻が北浜銀行におよぶことを恐れ、片岡直輝氏や弟の片岡直温氏(日本生命社長、のちに加藤内閣商工相、若槻内閣蔵相)らの協力を得て救済に奔走した。そして岩下氏の帰朝を待ち、同商会整理のために電気信託会社、日本興業会社設立に参加し、みずからも取締役に就任して解決に努力した。
私財いっさいを提供―岩下氏の恩顧に酬う
この両事件に挺身したのは、岩下氏のためを思ってであるが、北浜銀行事件は彼自身の問題でもあった。生駒隧道工事着手直前には、同銀行への預金は一〇〇万円を越えていたといわれるが、その工事費はすでにのべたように、ほとんど約束手形で現金化できなかった。また、一方に東京中央停車場その他の工事があり、北浜銀行の融資にまつものが多く、大軌、北銀の両者に深い関係をもつ芳五郎としては、自己の責任を痛感せざるを得なかったのである。
彼は北銀が取付けにあったとき、その急を救うべく白杉に命じて私財の目録を作成させ、委任状をそえて岩下氏に提供したが、その総額は三〇〇万円を越えていた。岩下氏はこれをしりぞけたが、北銀が整理の段階にはいると債権回収をせまられ、大林家所有の土地、建物はもちろん、収集した美術品にいたるまで私財いっさいを供出した。しかし大軌の工事費回収がなお遅延したため、これを完済したのは芳五郎の死後、大正七年秋であった。