大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第三章 新宮殿造営

第一節 着工までの経過

皇居造営審議会を設けて諮問

昭和二十年五月二十五日、大空襲によって皇居も被災し、明治二十一年(一八八八)に造営された宮殿は焼失した。以後、天皇陛下は、吹上御苑内の御文庫を仮りの御住居とされ、御公務は宮内庁庁舎でおとりになった。その後昭和二十八年三月、宮内庁庁舎三階事務室を改修して仮宮殿とされ、御住居には依然として御文庫を御使用になられた。しかし仮宮殿は手狭まであり、御文庫も昭和十六年(一九四一)防空施設として大林組が施工したもので、建物の性質上日常の御生活には適さなかった。そこで新宮殿の造営をのぞむ声が国民からおこり、政府もまたこれを意図したが、陛下御自身は国家財政の負担と国民の耐乏生活を配慮されて容易におゆるしにならなかったといわれる。

しかし国力の回復にともない、また外国貴賓の御接見等国家的行事が増加するにつれ、その必要はいよいよ痛感されたので、宮内庁当局は内々造営の準備に着手し、昭和三十三年(一九五八)三月にはほぼ基本構想をまとめた。

昭和三十四年(一九五九)四月、政府は皇居造営審議会を設け、各界の学識経験者に諮問した結果、翌三十五年一月、その答申にもとづいて皇居造営を閣議決定した。このとき両陛下の御生活を公私に分離する方針がとられ、日常の御住居として吹上御所を造営することとなり、昭和三十六年(一九六一)十一月落成したことは、第三編でのべたとおりである。同三十七年、東京芸術大学教授吉村順三氏が基本設計に着手し、同三十八年三月には宮内庁臨時皇居造営部の実施設計にうつされ、作業が進められた。

施工間においては昭和三十七年秋、宮内庁の指示により、まず大林組と清水建設が協力して施工計画を開始し、同三十八年には基本設計にもとづく各種試作工事が行なわれた。そしていよいよ昭和三十九年(一九六四)着工と決定すると、年初から大林組、鹿島建設、清水建設、大成建設、竹中工務店の五社の技術者が宮内庁に出向き、本格的に施工計画を進行させることとなった。

昭和三十九年六月十五日、以上五社の社長は宮内庁に出頭し、宇佐美同庁長官から五社共同企業体による宮殿造営を正式に下命された。工事の責任区分は下のごとくである。(括弧内は完成後の名称)

  • 大林組  表御座所、同付属棟(表御座所北棟〔一部渡り廊下を含む〕)、小食堂(連翠)
  • 鹿島建設 大食堂(豊明殿)、設備センター(設備管制所)
  • 清水建設 大広間(長和殿)
  • 大成建設 ギャラリー(回廊)、第三、第四休所(千草の間、千鳥の間)、地下駐車場
  • 竹中工務店 正殿〔一部渡り廊下を含む〕

共同企業体の組織と運営

共同企業体の意思決定機関としては、構成各社の担当重役による運営委員会があり、その直属の諮問機関として技術研究協議会と本部安全協議会を設け、実施機関としては五社の職員によって組織される工事事務所をおいた。工事事務所は所長および企画、施工、設備、設計をそれぞれに担当する各副所長、事務長ならびに事務次長以下によって構成された。所長は工事期間中交替しないこととして、大林組取締役府川光之助が就任し、事務長は運営委員会事務長の兼任とし、これは年度ごとに交替する代表会社から選任された。運営委員会は、宮殿造営工事共同企業体協定書および同細則にのっとって運営され、昭和三十九年六月を最初として、同四十三年十月にいたるまで、四〇回にわたって開催された。

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