第二節 好転―企業の投資意欲上昇
業績伸長―五年ぶりに配当を復活
朝鮮戦争は、首都ソウルの攻防をくりかえしたのち、韓国、国連連合軍は三十八度線を突破北進し、これに対して中華人民共和国は人民義勇軍の名のもとに紅軍を出動させた。このため事態はさらに重大化したが、アメリカ大統領トルーマンはマッカーサー元帥を解任し、破局をふせいだ。このときソ連も停戦を提案したので、昭和二十六年(一九五一)七月、休戦会談が開かれた。
これによって世界の危機感はやわらぎ、各国の軍事支出も緩慢となった。約一年、急速な伸長をみたわが国の輸出は後退し、異常なブームは終わって、この年下半期にはふたたび不況がおとずれた。しかし、ブームは終わったとはいえ、ドッジ政策で抑制された企業の投資意欲はしだいに高まり、事務所用ビルや工場の建設が相次ぎ、また官公庁舎の新築も開始された。
大林組の業績も、外に向かっては繊維関係工場、進駐軍、沖縄と、積極的に工事獲得につとめ、内に対しては人員整理の断行、経費節減、工事費低減、技術改善の各委員会を新設するなど再建への努力が実って、ようやく配当を復活するまでに回復した。昭和二十六年(一九五一)六月、企業再建整備を終わり、整備計画実行完了報告書を大蔵省に提出することができた。この年の九月決算における完成工事高は四三億円となり、純利益金三二〇〇万円を計上した。これによって年一割の株主配当を行なったが、昭和二十一年三月以来、五年ぶりの配当復活であった。
この時期の主要建築工事に東京で永楽ビル、大阪では国際見本市会館の建設がある。
永楽ビル
永楽ビルは三菱地所会社から特命発注され、昭和二十五年八月着工、同二十七年一月竣工した。三菱信託銀行の本店として使用するもので、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下二階、地上八階、延七五一五坪(二万四八〇〇平方メートル)、東京支店が戦後に施工した最初の美術建築であった。請負金額は四億一八三〇万円、工事総主任は山根力三である。
根切りはオープンカット工法、スチームハンマで周囲にシートパイルを打ちこんだが、隣接する日本工業倶楽部、三菱仲二十八号館、大川田中事務所の地下階が浅いため、地下二階部の四周にはさらにシートパイルを打ち、角材による切梁をかけわたした。鉄骨建方はガイデリックにより、また現場に大型のコンクリートミキシングプラントを設けるなど、設備はものものしかったが、当時のことで、部品の不良や故障の続発等に苦しめられた。
国際見本市会館
東京の永楽ビルとほとんど同時に、大阪では国際見本市会館の第一期工事に着手した。これは大阪府の外郭団体である国際見本市協会が、輸出商品の見本市、展示会の会場とするほか、外人バイヤー用のホテルとして建設したものである。鉄骨鉄筋コンクリート造、地下二階、地上七階、延三六九〇坪(一万二一七七平方メートル)で、翌二十六年十一月末に竣工した。請負金額一億二六〇〇万円、工事総主任は若田久作であった。
この建物は、戦時中に基礎工事を終わっていて、地上第一柱まで鉄骨が組まれていた。そのため戦後の鉄骨と材質がちがい、第二柱をつなぐのに苦心した。竣工に際し、戦後最初の本格的美術建築の完成を祝い、本店従業員一同にまでマンジュウがくばられた。当時、この建物によせられた期待がいかに大きかったか、その一端がうかがわれる。(その後昭和三十二年~同三十三年に第二期、同四十三年~同四十五年に第三期工事を施工した。名称も国際見本市会館を改め大阪コクサイホテルとなった)
これにつづき、昭和二十六年(一九五一)九月、阪神電鉄から新阪神ビルの建設を設計施工とも受注した。請負金額四億九五一〇万円。このビルは設備工事において特筆すべきものがあった。全館空気調節とまではいたらなかったが、銀行および店舗部分に冷暖房を、事務室部分には暖房が設備され、この種施設をした建物として、戦後の大阪では最も新しいものの一つであった。竣工は昭和二十八年三月、工事総主任は若田久作である。
渡良瀬川砂防・足尾堰堤
土木工事では、昭和二十五年九月に決定した栃木県足尾の渡良瀬川砂防堰堤がある。築造地点は足尾銅山より約一キロの上流、三支川の合流点で、堤高三七メートル(溢流部二〇メートル)、堤頂長二二五メートル、推定貯砂量六六〇万立方メートルで、砂防ダムとして全国一といわれた。足尾銅山の鉱害や山林乱伐の結果、降雨のたびごとに多量の土砂が流出し、下流におびただしい被害を与えたため、ダムによって流下する土砂を貯留し、河床の低下を防ぐことが目的であった。
工事は、水圧による河床面下の土砂流出を防止し、堰堤の安定をはかるため、ダム上流部に幅七二メートルにわたり、約一八メートルの深さまで五号型シートパイルを二列打ちこみ、その間にモルタルを注入して河床下に遮水壁を設ける工法をとった。骨材プラントを設けて機械による骨材のふるい分けを行ない、バッチャープラントを設置してコンクリート打設のスピードアップをはかったほか、ワイヤロープによる両端移動式(ブライドル式)のケーブルクレーンなども用いたが、これらはいずれも大林組にとって最初の経験であった。完工は昭和二十九年(一九五四)十月、請負金額は二億五七六〇万円、工事主任は秋山学、のちに安井史朗であった。
このダム工事は、大林組にとって特別な意義があった。それは、産業の復興にともない、近い将来に大規模な電源開発のダム工事が予想され、これにそなえねばならなかったからである。当時、建設省のダム工事指名入札には堤高五〇メートル以上の工事実績を必要としていたが、大林組にはそれがなかった。足尾ダムは、この標準にはおよばなかったが、以上にのべた技術的経験は大型ダム施工のテストケースとして役立ち、のちの北海道糠平ダム工事の施工に生かされた。進駐軍工事の飛行場滑走路建設が、のちに道路工事に貢献したこととともに、土木部門における大きな収穫であった。
再建ようやく成った昭和二十七年当時における主要工事には、以上にあげたもののほか、次のものがある。(進駐軍関係、繊維工場等の項でのべたものをのぞく)
- 官公庁関係―米国大使館館員アパート第一期および第二期、関東逓信病院、大阪第二船場電話局
- 銀行・会社―日本興業銀行本店、東京日本生命館(髙島屋)各増築、三和銀行京都支店、千代田(のち三菱)銀行大阪支店、大和ビル、日綿実業本社、神戸銀行大阪支店、新光ビル、大阪(のち住友)銀行備後町ビル
- 工場関係―日東紡績泊工場、富士紡績小坂井工場、呉羽紡績鈴鹿工場、山陽パルプ岩国工場、大阪瓦斯酉島工場第三期、明電舎大崎工場、トヨタ自動車挙母工場、日本パルプ米子工場、大洋漁業東京冷蔵庫
- 土木関係―尼崎港高潮対策工事、国鉄信濃川発電所余水路、北陸電力伊折発電所、北海道電力然別第二発電所、東京電力幸知発電所、川崎製鐵千葉製鉄所岸壁
なお、昭和二十六年五月十七日、貞明皇太后の崩御に当たり多摩東陵御造営を下命された。伏見桃山御陵、伏見桃山東陵、多摩御陵御造営の伝統によるものである。引きつづき御陵御造営本工事にも奉仕し、翌二十七年三月、使命を果たして五月一日の山陵竣功奉告祭には大林社長も参列をゆるされ、田島宮内庁長官から感謝状を贈られた。