大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第一章 敗戦の衝撃―虚脱と混迷

第二節 戦時補償の打切りと再建整備

「金よりも物へ」―爆発的な物価高騰

貯蓄や公債割当てを強制され、「ぜいたくは敵である」、「欲しがりません勝つまでは」などの標語によって抑えられてきた国民の消費意欲は、敗戦を機として爆発した。この時期において、それが食料、衣料などの生活必需品に集中したことは、やむにやまれない要求でもあった。昭和二十年(一九四五)十月、警視庁が発表したヤミ物価リストによれば米一升(一・五キログラム)が基準価格五〇銭に対し七〇円、砂糖一貫目(三・七キログラム)三円七〇銭が一〇〇〇円という驚くべき数字を示している。目で見、肌で感じさせられた恐るべきインフレ――これは「金より物へ」の換物思想となり、いったん引出された預金は、ふたたび金融機関へ還流せず、典型的な敗戦型インフレの様相を示しはじめた。

政府が復員その他終戦処理のため支出した臨時軍事費は、年末までの三カ月半で二六六億円の巨額に達し、これがまたインフレに拍車をかけた。昭和二十年八月十五日、終戦の日現在の日銀券発行残高は三〇二億円であるが、同年末は五五四億四〇〇〇万円、翌二十一年二月には六一八億二四〇〇万円と急増した。この経済危機に直面して、ときの幣原内閣は金融緊急措置令を発し、標準世帯一カ月の現金保有を五〇〇円に制限して、過剰購買力を抑制するため日銀券を封鎖預金させ、「新円」とよばれる新紙幣を発行した。これは一時的に効果をおさめたが、通貨措置だけで解決できる問題でなく、かえって「新円成金」を生み、同年末には日銀券発行残高は九三三億円に達し、早くもこの政策は破綻した。

生産再開のための復興金融金庫融資や、日銀引受けによる公債発行などは、新円インフレを招くもとになり、物価の高騰も爆発的であった。昭和九年~十一年(一九三四~一九三六)を一〇〇とすると、昭和二十年末の卸売物価指数は三〇〇・三、小売物価指数(東京)は三〇八・四であるが、翌二十一年(一九四六)末には卸売物価指数一六二七、小売物価指数(東京)は一八九二に飛躍した。これに対して鉱工業生産指数は、昭和二十年末の六〇・二が、同二十一年末には三〇・七に低下し、生産高実数においても、石炭は二〇三八万トン、粗鋼二〇三万トンで、前年末にくらべ前者は三〇%、後者は八〇%の減少を示していた。

戦時補償特別税―業界をあげて激しく抗議

この危機に対処する諸施策の中には、昭和二十一年八月に公布された会社経理応急措置法、同年十月に公布の企業再建整備法、戦時補償特別措置法などがあった。会社経理応急措置法とは、在外資産や戦時補償請求権をもつ資本金二〇万円以上の会社を特別経理会社として指定し、会社経理を八月十日現在で新旧勘定に分けて、新勘定では事業遂行に必要とする資産のみを、旧勘定ではその他の資産および負債を経理することとしたものである。また企業再建整備法は、以上にもとづき旧勘定を整理清算するとともに、新勘定によって企業再建をはかるものであるが、これは戦時補償特別措置法に関連し、戦時補償を打切る意図があった。

この立法は、建設業界に重大な影響をおよぼした。戦時中の陸海軍工事に対し、業者は国庫から全額の支払いを受けたが、戦時補償特別措置法によると、そのうち昭和二十年八月十五日以降の支払い分は戦時補償とみなされ、一〇〇%課税されて政府に還元しなければならなかった。政府にとっては悪性インフレを制圧し、経済を正常化するための通貨収縮措置であるが、建設業者にとっては受入れがたいものであった。業者が支払いを受けたのは、国家機関である軍の命令により現実に行なった工事費であって、戦時利得ではない。したがって、業界はあげてこれに抗議した。石橋蔵相(第一次吉田内閣)自身もその違憲性を認めたと伝えられるが、それにもかかわらずこの法律は強行された。しかし、激しいインフレ下に一年を経過した時点で、この税を納付するだけの蓄積はいかなる業者にもなく、もしこれが実施されたならば、工事量の多かった者ほど打撃は大きい。当時施工高において首位を占めていた大林組は、この法律を適用された場合完納できるなどとは思いもおよばなかった。

戦時中の軍工事は、陸軍は軍建協力会、海軍は海軍施設協力会の名において行なわれるのが原則であった。したがって、形式上は両協力会が軍から工事を請負い、個々の業者はそれを下請負したものである。この解釈によれば、納税義務者は工事を請負った両協力会(すでに解散して存在しなかったから、徴税は不可能であるが)であって、個々の業者ではない。この論理は、陳情、折衝を重ねたすえ、ようやく大蔵省が認めたが、そのためには下請負であった事実を立証しなければならなかった。当局は、契約書や領収書などにより、両協力会が請負ったことの明白なものについてのみ業者の主張を認めて非課税とし、資料のないものは課税することとした。

これらの書類の多くは、終戦に当たって軍命令によりほとんど焼却されていた。当局はその事情を知っており、形式上は業界の主張を認め、実質的に否認しようとしたものである。ただ幸いなことに、海軍施設協力会は海軍施設本部の下部機構であったため、比較的容易に立証することができた。これに反して陸軍の場合は、それに当たる機関がなく、各師団経理部が個々に発注していたため資料を得ることは困難であった。そこで各社とも当時の担当官をさがしもとめ、証明書を発行されるように努力したが、十分とはいえなかった。 また、証明書の効力についても、大蔵省と各地税務署の解釈が一致しない場合もあった。この問題に関する業界の主張が認められ、完全な解決をみたのは昭和二十六年(一九五一)五月で、それまで事態は混迷をつづけた。そして最終的に決定した大林組の課税額は、陸海軍工事費、戦時保険等を合わせ約二八〇〇万円であった。

企業理念の革新をかかげ奮起を要望

戦時補償特別税が大林組にとって死活問題であったことは、措置法分布直後の昭和二十二年(一九四七)一月、社長大林芳郎の新年始業式のあいさつに示されている。あいさつは、前年度における取下げの遅延と金融難、経費の膨張による経営難、施工に当たっての食料、資材、輸送難等をあげたのち、以下のようにのべている。

…尚、昨年中の事柄として、最後に是非一言いたして置かねばならぬことがあります。それは、年末に近づきましてから、終戦以来、種々論議されて居りました、所謂戦時補償打切りといふ経済上の一大事件が愈々実行されるに至ったことであります。この為に、当組も莫大な戦時補償特別税を徴収されることになり、今や当組は経営上の一大難関に直面してゐるのであります。この善後措置は、今後の重大問題として残されてゐるのでありますが、事柄の重要性について、わたくしは、みなさんの深い理解を切望して已みません。…

あいさつは、つづいてこの年の見とおしにおよび、産業界の現状からみて早急には復興工事が期待できないこと、進駐軍工事もやがて一段落するであろうこと、同業者間の競争激化、食料、資材、輸送事情も改善されがたいことなどをあげている。そして、その対策を以下のようにのべ、従業員の奮起を要望しているが、大林社長が現在の業界における問題点を、すでに四半世紀以前のこの時点において指摘していることは注目に値いする。

元来わが土建業界は可成り古い歴史を持って居り、わが国運と消長を共にしまして、国家に相当の貢献をして参りました。このことは、万人の認めるところでありますが、同時に又現在業界の底流をなしてゐるところの根本精神、具体的には業者の経営方針若は施工方法に果してどれ程の積極的な又科学的進歩改革の跡が認められるでせうか。そこに一種特有の封建的精神ともいふべきものが業界を一貫して来たことは蔽ふことの出来ない事実であると考へられるのであります。

これを基調として、所謂「偏狭なる親分子分の仁義道」、「投機的企業観念に基く商業的経営」「数段階にも分たれる不合理なる下請制度」、或は「手工的技能の域を脱しない現場施工主義」等が、一面業界の運営上にある種の効果をつくりつゝも、全般的には業界の堅実なる発達を阻害して参ったことは否定し難い事実であると存じます。…(中略)…

それでは業界の根本的刷新とは如何なることかと申しますに、

第一に、企業理念の革新であります。即ち、これには利潤第一主義より生産第一主義への転換、偏狭なる所謂仁義道より民主的な社会協同精神への発展域は抽象的精神主義より科学的合理主義への転向等

第二には、経営の合理化であります。即ち、経営の科学的組織化、外部に対する利潤の獲得より内部に対する工事費の逓減、企画竝びに研究機関の確立、基礎的統計調査の整備等

第三には、施工の科学化であります。即ち現場作業の機械化、現場施工主義より工場製作過程への可及的な移行、施工技術教育の強化、労務者の科学的知識の向上、作業機械の発明と改良等

第四には、労務体制の整備強化であります。即ち、下請制度の根本的再検討及び改革、労務者直傭制の強化拡充、労働組合の健全なる育成等

(「社報」昭和二十二年一月四日、第一号から)

増資―株主資格を拡大

会社経理応急措置法により、大林組も特別経理会社に指定されたため、昭和二十一年八月十日現在の決算を臨時に行ない、新旧勘定の分離を実行した。旧勘定で棚上げされたのは六六二七万六〇〇〇円で、これには未収金、貸金、有価証券のほか四七二〇万円の封鎖預金を含み、新勘定は一億一三六〇万三〇〇〇円であった。

これにもとづき、企業再建整備法による整備計画を作成したが、大蔵省の承認を得ることは容易でなく、財務担当者の労苦はなみなみでなかった。最終的な計画認可申請書を提出したのは昭和二十三年(一九四八)十月で、翌十一月十五日付で認可された。その内容は、(1) 旧勘定整理による損失は従来の積立金などで処理可能であるから減資や債務切捨ては行なわない、(2) 計画認可後一年以内に、資本金を五五〇〇万円増加し七〇〇〇万円とする、(3) 旧債務は新旧勘定合併後、一年以内に返済する、などを骨子としたものであった。

この場合、固定資産と日常の運転資金は、自己資本でまかなう建前であった。したがって、戦時補償特別税を納付したうえ、インフレ下にあってさらに事業を継続するためには、ある程度の融資を見込んだとしても五五〇〇万円の増資は絶対的に必要とされた。そこで翌二十四年(一九四九)四月、臨時株主総会を招集し、増資を決議した。その方法は、額面五〇円の株式一一〇万株を発行し、これを計画認可日に現在の株主に、所有株一株につき三・六六株の割合で割当てるというものであった。

しかし当時の情勢からみて、社内のみで消化することは困難であったため、取締役会で株主資格の拡大を決議し、社外におよぼすこととした。これによって、役員および従業員のほか三和銀行、三井銀行などの金融機関、日本生命、倉敷レイヨンなどの得意先会社、その他下請業者、材料業者なども株主となった。大林組の株式が外部に出たのはこのときが最初で、完全な株式公開とはいえないが、同族会社から脱皮する第一歩として業界のさきがけをなした。

この年(昭和二十四年)八月末の決算で旧勘定の損益計算を終了し、九月には増資を完了して新旧勘定を合併し、特別経理会社を離脱した。なお、株主配当は特別経理会社指定中は法律で禁じられていたということもあって、昭和二十一年(一九四六)三月、年五分の配当を行なって以来、同二十六年(一九五一)三月まで無配がつづいた。大林組にとっては苦難に満ちた期間であった。

このとき、企業再建、不況対策の方途として、本支店の拡充や機構の整理が行なわれた。昭和二十一年には横浜支店が再開された。京都出張所も再開して支店となり、仙台、札幌両出張所も支店に昇格した。つづいて翌二十二年(一九四七)広島支店を再開したほか、高松出張所を新設し、本店から分離した大阪支店を開設した。

大阪支店は、従来本店が行なっていた業務の一部を切り離し、これに移管したもので、本店をして統轄、指導、監督に専念させるための体制づくりであり、東京支店内にも、本店業務の一部を処理する機構を設けた。この改革は、本店が全店的な視野をもち、総合的に業務を処理し得る利点を期待したものであったが、所期の効果をあげるにいたらず、昭和二十六年(一九五一)三月、大阪支店は廃されて旧制に復した。

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