大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第五章 さらに前進を目ざして―

第一節 転換の時代

産業優先政策を反省―重点を福祉社会の建設へ

昭和四十五年(一九七〇)の日本万国博は史上空前の成功と称され、わが国の国力を象徴するものといわれた。国民総生産も引きつづき世界の第三位を占め、経済大国の地位はゆるがないものとされていたが、一部で憂慮された景気のかげりは、この年になってようやくその色を濃くし、昭和四十年以来継続した好況は五十八ヵ月で終わりを告げた。日本の最大輸出相手国アメリカが、景気後退のために保護貿易政策をとったことが主たる原因である。これによって、繊維、テレビ、洋食器等の輸出規制が問題化し、両国の経済関係は緊張して、他産業もその影響をまぬかれることはできなかった。同時に国内でも、それまで高度成長の主動力をなした自動車、家庭電気製品等の売れゆきが鈍化し、金融引締めの効果と相まって不況感が強くなった。またこのころから産業公害はますます表面化して国民の関心を集め、物価上昇に抗議する消費者運動もおこり、産業優先政策に対する反省が生まれた。経済白書もこの年、福祉社会建設への方向を示唆して、日本経済が転換をせまられつつあることを指摘した。

この情勢は、景気にようやく回復の兆があらわれた翌四十六年八月、アメリカが金とドルの交換を停止し、世界の主要国に対して輸入課徴金を課し、為替レートの調整を要求したいわゆるドル・ショックによって、さらに激変した。ニクソン大統領のこの声明は、国際的にも大きな衝撃を与えたが、特に輸出に依存する日本経済にとっては死活の問題とされ、深刻な打撃を受けた。このショックは、同年末、一ドルの基準価格が三〇八円に改定されるとともに心理的には一応の安定をみたが、不況はついに慢性化した。政府はその対策として金融の緩和、財政投融資の追加、国債増発による大型予算編成等あらゆる景気浮揚策を講じ、同時に福祉政策の採用を公式に声明した。

政治面においても、沖縄返還は決定し、安保条約は満期とともに自動延長されたが、日米共同声明によって内容は変質したといわれ、一方、第四次防衛力整備計画が発表されると、海外には日本軍国主義の復活をおそれる声が聞かれた。また、カナダ、イタリアの中国承認にともない、日中国交正常化の気運が国内に高まった。これに対して、政府は対中政策の再検討を開始したが、昭和四十六年(一九七一)十月、中国の国連加盟が承認され、つづいてニクソン大統領の中国訪問計画が発表されると、さらに窮地に立たされた。七〇年代は転換の時代とよばれていたが、その幕あけはこのように予想を越える激しいものであった。

伸び悩む民間投資―公共投資は大幅に伸長

建設業界も不況の影響を受け、昭和四十五年の建設投資は約一五兆七〇〇億円、対前年度比二〇・三%の成長で、昭和四十四年度の二二・九%におよばなかった。しかも民間建設においては、前年度が二七・一%増であったのにくらべ二〇・五%と大幅な低下を示した。これは民間住宅建設が堅調を維持したにもかかわらず、非住宅建築の伸びが鈍化したためであって、建設投資総額で大きな低下をみなかったのは公共投資のささえによるものであった。

不況時にはその対策として公共工事が増加し、建設業者がこれに依存するのは従来からの例であるが、ドル・ショック以後の慢性不況によって、企業の設備投資、住宅投資は伸び悩み、公共投資への依存度はいよいよ高くなった。昭和四十六年の民間建設の伸び率は、対前年度比一五・五%と落ちこんだのに対し、政府建設は財投計画の弾力条項発動などにより二二・八%増と大幅な伸長を示した。ことに港湾、空港、下水道、公園等への投資は四五%前後の増となり、建設投資総額に占める政府建設の比率は三三・四%に高まった。また、これを建築、土木別にみた場合は、建築の一五・七%増に対し土木は二一・八%増と、これまでと逆の傾向があらわれた。この現象は、従来とかく便宜的不況対策と考えられた公共工事が、国土計画の目標として本格的にとりあげられたことを語るものであった。公共工事の内容も、各地の都市再開発や筑波学園都市、多摩ニュータウン建設等にみられるように、範囲も拡大し多様化して、規模も大きくなった。これは政府が福祉政策に転換し、社会資本の充実により一層の積極性を示すものであったが、それはまた建設業界に対しても、新たな指標を与えるものであった。

増資―資本金一五〇億円

大林組はこの情勢に対応するため、昭和四十四年末には東京支店に、翌年八月には本店に、都市開発室を設けた。公害問題の深刻化にともなってその研究も進められ、同四十六年三月、公害室と公害委員会を設けてこの問題ととり組んだ。また、ますます巨大化、多様化する諸工事にそなえ、同年八月には土木技術開発委員会を新設して新工法の開発を促進した。滑動型枠工法「スウエトーシステム」をスウェーデンから導入したのは、公害防止に用いる超高煙突やクーリングタワー、給水塔等の建設のためであるが、ほかにもグリップジョイント工法、OJP工法その他多くの新工法が導入、あるいは開発された。原子力発電所建設では、すでに関西電力美浜発電所工事に従事して業界のトップを行く豊富な経験を得ていたが、高温ガス炉、高速増殖炉時代にはいったといわれる原子力利用の新しい段階を迎えて、昭和四十五年七月、本店機構の原子力室を東京に設置し、七〇年代のエネルギー問題にそなえた。また住宅産業が勃興し、不動産業者、総合商社、大手建設業者がこぞってこの分野に進出したことはすでにのべたが、大林組も住宅事業本部を設け、同時に関係会社大林ハウジングを設立して本格的に乗り出すにいたった。

このように、建設業界も転換の時代を迎え、大林組もこれに対処する体制をととのえるため、各種の措置をとらねばならなかった。以上にあげた部室の新設等、機構上の問題もそれであるが、資本金も昭和四十五年七月、四七億円を増資して一五〇億円とした。さらに画期的といわねばならないのは、創業八十年を翌年にひかえた同年末、以下にのべるごとく東京に本社を設置し、大阪本店と二本建てとしたことであった。

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