大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第四章 日本万国博覧会

第一節 エキスポ'70開催まで―

アジアで最初の第一種一般博覧会

昭和三十九年(一九六四)のオリンピック東京大会に次いで、国民的行事としてえらばれた目標は万国博覧会の開催であった。これはオリンピックと同様、従来欧米以外で開かれた例がなく、わが国では昭和十五年(一九四〇)に皇紀二六〇〇年記念として東京で開催することが決定し、入場券まで準備しながら、国際情勢の悪化によって中止した歴史がある。東京オリンピックを契機としてこれがふたたび話題となったのは、当時ニューヨークで世界博が開かれ、また一九六七年(昭和四十二年)にモントリオール万国博が決定していたこともあり、アジア最初の開催を目ざす国民の心意気を示すものであった。

昭和四十年(一九六五)二月、政府はまず国際博覧会条約に加盟手続きをとり、万国博覧会誘致の第一歩をふみ出した。これより先、会場候補地として大阪府は南港埋立地(のち千里丘陵に変更)、兵庫県は神戸港埋立地、滋賀県は琵琶湖畔、千葉県は浦安埋立地と、それぞれ名乗りをあげていた。このうち、最も熱心だったのは大阪で、左藤知事、中馬市長、小田原商工会議所会頭を中心に万国博誘致委員会を結成し、地元をあげて運動を開始したのは東京オリンピックの三カ月前、昭和三十九年七月のことであった。経済の中央集権化にともない、年々地盤沈下の傾向にある大阪の地位を回復するとともに、東京都がオリンピックを機として整備された例にならい、万国博に関連して市街地改造、高速道路や地下鉄建設等を行なって社会資本を一気に充実しようと期したためである。

この情勢は、明治三十六年(一九〇三)、第五回内国勧業博覧会の開催をめぐって東京と大阪が開催地を争ったときを想い起こさせるものがあったが、今回もまた当事者の熱意と有利な立地条件によって大阪の勝利に帰し、政府は昭和四十年四月、大阪開催を閣議決定してパリの万国博事務局に申請した。当時オーストラリアでも開催の意向があるといわれたが、オーストラリアは公示期間を過ぎても博覧会条約に加盟しなかったため、同年九月には大阪開催が事実上決定し、翌四十一年五月公式に登録された。会期は昭和四十五年(一九七〇)三月十五日から九月十三日にいたる一八三日間で、「エキスポ'70」と略称された。

これは条約による第一種一般博覧会として公認された最初のもので、外国企業が直接参加することを認めたはじめての万国博である。主催者は政府に代わる日本万国博覧会協会で、開催が事実上承認された昭和四十年十月発足し、担当は通産大臣、会長に石坂泰三(経団連会長)、副会長に芦原義重(関西電力社長)、堀田庄三(住友銀行頭取)、永野重雄(富士製鐵社長)、井上五郎(中部電力社長)の五氏が就任し、のちに菅野義丸氏が専任副会長として追加された。職員は、はじめ大阪府、大阪市、商工会議所、各銀行その他企業の出向者を当てたが、会期が近づくにしたがい外部からも採用した。

テーマ「人類の進歩と調和」―会場・千里丘陵

万国博は、条約によってあらかじめテーマを設けて参加国に通知し、これによって展示を行なうことが定められている。万国博協会では、元東京大学学長茅誠司氏を委員長とする委員会を設け、主テーマを「人類の進歩と調和」、サブテーマを「より豊かな生命の充実を」、「よりみのり多い自然の利用を」、「より好ましい生活の設計を」、「より深い相互の理解を」と決定した。展示はこれにもとづいて行なわれることとなり、東大教授丹下健三、京大教授西山卯三両氏をチーフプランナーとする会場計画委員会が設けられ、岡本太郎氏をはじめ美術家、文化人が多数参加して数次にわたり基本計画を討議した。これが最終的に決定したのは昭和四十一年十一月のことで、計画はパリの博覧会条約理事会に提出され、その承認を得た。内容は以下のごとくである。

  • (1) 自然の地形を生かし、これにふさわしい空間造型とすぐれた会場景観を確保して、大阪中央環状線で二分される会場を空間的に一体化する。
  • (2) 会場中央部にメインゲートを設けて鉄軌道を導入し、東西南北に四カ所のサブゲートを設け、多数の観客にそなえる。
  • (3) 展示空間は、「人類の進歩と調和」の集約的表現を行なうシンボルゾーンと、一般展示ゾーンに区分する。シンボルゾーンは七万人を収容する「お祭り広場」を中心に、総合展示場、劇場、美術館等の基幹的施設をもって構成する。
  • (4) 一般展示ゾーンは人造湖の周囲に配置し、小規模館を湖辺に、大規模館を周辺台地におき、すり鉢型の地形を強調する。
  • (5) 五つのゲートをつなぎ、展示空間の内部を貫通する装置道路(動く歩道)を設け、場内バス、ロープウエー等を導入する。
  • (6) 猛暑と多雨の季節条件を考慮し、「お祭り広場」と装置道路に屋根をつくり、地域冷房を行なって快適な人工環境を設ける。
  • (7) 会期終了後は副都心として発展するよう、公共施設や周辺整備に、跡地利用と地域開発を考慮する。

会場に当てられた千里丘陵は大阪市の北部に位置し、国鉄大阪駅から一三キロ、新大阪駅から一〇キロ、大阪国際空港から八キロの距離にあり、大部分が竹と針葉樹の自然林である。大阪府はここに用地一〇〇万坪(三三〇万平方メートル)を買収し、万国博覧会へ貸与の形式で提供した。

会場計画のあらましを描くと、シンボルゾーンは会場のほぼ中心部にあり、幅一五〇メートル、長さ約九〇〇メートルの帯状をなし、南側から順にエキスポタワー、万国博覧会本部ビル、エキスポクラブ、国際バザール、メインゲート、テーマ館(お祭り広場、太陽の塔を含む)、水上ステージ、美術館、万国博ホール、ばら園となり、各パビリオンはこれを中心として左右にならぶ。駐車場は場外に設けられ、場内の交通機関はモノレール、延長四キロの装置道路(動く歩道)、電気エンジンバス等である。また地域冷房は会場内の全建物におよぼし、会場運営と交通整理にはコンピューターが全面的に活用されることとなった。

会場敷地(昭和42年撮影)
会場敷地(昭和42年撮影)
会場(昭和45年3月撮影)
会場(昭和45年3月撮影)
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