第一節 「請負業」から「建設産業」へ
せまられる企業体質の一新
池田内閣による所得倍増政策の実施は、その結果として高物価、人口の過密・過疎、公害の発生など多くの問題をともなったが、国民総生産の成長はいちじるしく、これとともに産業構造も大きく変わった。農村人口は昭和三十六年(一九六一)に三〇%を割り、同三十八年には、そのうち兼業農家が四〇%以上を占めるようになった。これは経済白書(昭和三十七年版)が説いているように、わが国が先進国への道を歩みはじめたことを示すものであり、工業面でも業種別生産高に大きな変化があらわれた。従来、輸出商品の首位を占めていた繊維製品は機械製品に王座をゆずり、エレクトロニクスの心臓部をなす半導体の生産は世界第二位となった。発電量においても火力が水力を抜き、いわゆる火主水従の発電方式が決定的となったのは昭和三十七年(一九六二)のことである。
この経済成長と産業構造の変化は建設業界にも大きな影響をおよぼした。土木、建築をつうじて工事は大型化し、多様化した。大林組は新工法の開発、施工の機械化の徹底等によって、この新しい時代の要請にこたえたが、そのためには資本の増大と経営規模の拡大を必要とした。また受注競争がさらに激化することは必至であったので、これに対応するには経営の合理化によって企業体質を改善するとともに、より積極的に新分野を開拓せねばならなかった。
経営計画の策定―短期計画・長期計画
昭和三十六年三月、本店に企画室を設け、取締役大林芳茂が初代室長となったことはさきにのべたが、企画室は経営に関する資料、統計類の調査収集に当たり、トップマネージメントを補佐する部門として、当時、大企業が相次いで新設する傾向にあったが、建設業界では大林組がさきがけて新設した。つづいて同年八月、企画室を中心に事務合理化委員会が設置され、文書類保存期間の制定や提案制度の検討など、多くの合理化施策が行なわれた。また昭和三十八年(一九六三)三月、本店に機械計算室を新設し、のちにのべる電子計算機導入について業務機械化委員会を設けるまでの間、事務合理化委員会が企画室とともに事務機械化を推進した。同三十九年五月には、経営計画規程が制定され、きたるべき五年間を展望した総合計画として長期計画、これを達成するための半期ごとの実施計画としての短期計画を策定することが定められ、経営計画委員会が設けられた。
科学的経営、これは戦後に登場したことばであるが、大林組においては初代社長芳五郎が創業当初からこれを理念とし、常に実行してきたことは第一編でのべた。この精神は伝統として受けつがれ、特に大林賢四郎が副社長の時代には強調された。大正十年(一九二一)四月、現業部員渡部圭吾(のちに取締役)がその命を受け、アメリカのテーラーシステムの理論を導入、工事施工計画のシステム化をはかっている。その後発刊されたポケットブック「現場従業員指針」はその成果であるが、そこにはすでにオペレーションズリサーチの理論がとり入れられていた。「指針」は作業現場を中心としたもので、企業経営そのものについてではなかったが、創業以来の伝統精神をあらわすものであった。現社長大林芳郎が、全国建設業協会会長時代に最も努力したのは業界の体質改善、建設企業の経営合理化であったが、業界全般の問題としてそれを叫ぶとともに、社内においても機会あるごとに強調し、実行につとめてきた。
機構改革―土木、建築両本部制の実施
昭和三十七年(一九六二)九月、機構改革を行ない、これまでの土木部、建築部を、土木本部、建築本部に拡充強化した。別掲の機構図のうち、土木本部の営業部と技術部、建築本部の営業部、技術部、設計部は、いずれも全社的統括業務を担当する部門で、土木本部工事部と建築本部直轄工事部は、本店所管工事の処理に当たる部門である。この改革の主眼は、営業部を新設したことにあり、工事の積極的獲得をはかるためであった。
注文生産である建設業の営業活動は、従来とかく受け身のものとなりがちであった。本店業務部、土木部、建築部が、それぞれの立場において営業面を担当、「手入れ」と称する受注活動が行なわれてはいたものの、活動範囲は得意先関係に限られ、そのため伝統の古い繊維部門では業績があがっても、新興産業などの分野では立遅れたような例もあった。営業部の新設は、この欠陥を是正し、市場調査、情報の入手等により、積極的に新分野を開拓するのが目的であった。土木本部が東京におかれたのは、大規模工事の発注関係が主として中央官公庁であることを考慮したからにほかならない。
設置当時の土木本部長は専務取締役の江口馨、建築本部長は同じく宮原渉で、それぞれ次長をおいたが、昭和三十九年(一九六四)十二月、これをさらに強化して土木本部長に副社長徳永豊次、建築本部長には同五十嵐芳雄が就任した。同時に次長を副本部長と改め、土木本部副本部長の東京駐在に常務取締役高畠嘉雄、大阪駐在に同近藤市三郎が、建築本部副本部長には大阪駐在に専務取締役荒川初雄、東京駐在に同山田直枝がそれぞれ就任した。これに先立ち前年三月、名古屋支店および横浜支店に営業部が設けられ、本店と東京支店に営業不動産部が新設された。不動産の仲介斡旋を営業活動の一助とすることは、さきの浪速土地(現・大林不動産)の創立趣旨にもみられるが、営業不動産部はこれと並行し、大林組が直接行なうものである。
次いで昭和四十年(一九六五)六月、建築本部直轄工事部に集合住宅部が新設された。住宅公団、住宅供給公社等の発注による集合住宅建設を担当する部門である。大都市における住宅不足は終戦以来の問題で、政府は住宅金融公庫、日本住宅公団を設置するなど対策を講じ、国民総生産に対する住宅の投資比率は昭和三十年(一九五五)の三・三%から同三十九年(一九六四)には六%に上昇していたが、急速な人口の都市集中、家族構成の変化、地価の高騰等の事情により住宅難は依然としてつづいていた。しかし、この当時、住宅建設に関しては大手建設業者は未だ積極的な関心を示さず、二次的な活動分野としていた。それを反省し、住宅建設の将来を見とおして新設されたのがこの集合住宅部であった。
これと同時に、各地連絡事務所を出張所に昇格させ、また、工事現場の主任制を改め工事事務所長制とした。これは現場の人員管理の効率化をはかるとともに営業活動強化の一端として採られた改正で、工事事務所長に対し、現場の責任者であるのみならず、その地域において積極的に工事獲得の工作に当たる任務を与えたものである。このとき神戸出張所を支店に昇格し、新たに滋賀県大津、山口県徳山、同宇部に出張所を開設した。
事務の機械化―機械計算室を新設
以上はいずれも合理化計画のうち営業面の強化に関するものであるが、事務関係の改善についても、昭和三十七年四月から社内文書の左横書きが実施されている。また電子計算機の導入によって事務および技術計算の効率化をはかったのもこの時代である。事務の機械化に関しては、すでに昭和三十三年(一九五八)三月から、総務部、経理部を中心に検討に着手していた。当時の研究対象はパンチカードシステム(PCS)で、会計の収支および振替、給与計算、工事機械賃貸料計算、人事統計、財務統計、営業統計等の機械化処理を目標としていたが、企画室ならびに事務合理化委員会が設置されてからは、両者が中心となって検討を重ねた。
昭和三十七年(一九六二)十月、PCSによる日本レミントンユニバック会社のU―一〇〇四を採用することに決定し、翌三十八年三月、本店に機械計算室を設置して準備段階にはいった。全面的な実施に移されたのは、翌三十九年(一九六四)で、工事の現況表作成、給与計算、超過勤務統計、昇給、賞与支給通知書の作成、工事機械賃貸料計算、同償却金計算、請負工事勘定の内訳簿、収支一覧表の作成等が当時の処理作業であった。また同年末には、東京支店にもカード穿孔機を設置し、東京支店のデータをカード穿孔して、支店と機械工場の給与計算をはじめ、順次段階的に適用範囲をひろげた。
技術計算の機械化については、設計部を中心に研究を進め、当時は機種の関係で事務の計算処理とは別途の機械によることを得策と考え、設計計算、耐震設計、施工計画、工程計画等の技術計算などは社外機を使用して行なった。昭和三十九年七月、技術計算機械化委員会を設置、同年末には技術機械計算準備室(本店所管)が東京におかれ、コンピューター導入に関する調査研究を行なうとともに、同室が社外機利用の窓口となり、三菱原子力計算所(MCC)等を利用したが、昭和四十年(一九六五)八月、MCCに加入してからは、同四十三年七月まで、IBM七〇九〇型によって計算処理とプログラム開発を行なった。またこの準備室では、技術系職員を中心に、プログラム講習、ネットワーク講習等を実施し、講習用テキストの整備にも当たった。
その後コンピューターの機種としては、技術用、事務用に共通に使用し得る汎用コンピューターの採用が望ましいという結論に達し、これを総合的な見地から再検討するため、昭和四十年九月、技術計算機械化委員会を廃止し、新たに業務機械化委員会を設けた。この委員会の成果と、大型汎用コンピューターの導入については次章でのべる。
昭和三十九年(一九六四)七月、海外留学制度が設けられた。すでに昭和三十七年九月、本店人事部に教育課をおき、新採用職員の訓練、中堅職員の再教育を実施してきたが、社員教育の規模をさらに広げ、海外留学によって人材を養成するとともに、社内に新知識の流入をはかったものである。留学先は欧米の大学、研究所、建設関係会社などで、毎年五名以内を派遣、発足以来昭和四十六年末現在までの留学者は二四名にのぼっている。
経営規模の拡大―資本金六二億円へ
昭和三十七年(一九六二)七月、資本金を増加して六二億円とした。前年四〇億円に増資してから十六カ月しかたっていなかったが、次にのべる数字が物語るように、この間における工事量の増加と業績の上昇はいちじるしかった。この年三月決算にみる昭和三十六年度の完成工事高は七九六億円六三〇〇万円、税引純利益金は二〇億一五〇〇万円に達し、前年度の完成工事高五九四億二六〇〇万円、利益金一五億二七〇〇万円を大きく引き離した。株主配当金は引きつづき年二割であるが、昭和三十六年九月期には創業七十年を記念して四分の特別配当を加えた。
経営規模の拡大にともない、東京支店のために東京大林ビルを新築したことは前にのべたが、本店の社屋も大正十五年(一九二六)以来の建物で、人員増加のために狭隘となった。昭和三十八年(一九六三)八月、本店ビルの西隣りに新館(西館)の建設に着工、翌三十九年四月竣工した。構造は鉄骨造、地下一階、地上九階、塔屋一階で、総面積は一九二一平方メートル、外装は南北がアルミカーテンウォール、東西はシポレックスカーテンウォールである。この新館は旧建築基準法による制限高三一メートルのビルとして設計されたが、構造は特に鉄骨造のカーテンウォールとし、超高層建築の基本型をとり、工事の各段階で超高層建築の建設に必要な各種のテストを行なった。建設省建築研究所の中川恭次博士に依頼し、大振幅の振動実験を行なってカーテンウォールの「層たわみ」などをテストしたが、実物大のカーテンウォールを用いてこのような動的実験を行なったのは世界で最初といわれた。
昭和三十九年四月の春の叙勲に際し、相談役白杉嘉明三は勲三等瑞宝章を受けた。業界に対する多年の功績を認められ、すでに昭和三十年黄綬褒章を授与されていたが、戦後初の生存者叙勲が行なわれるに当たり特にえらばれたもので、生え抜きの業界人に対する栄典としては当時最高のものであった(四十七年四月、さらに勲二等に昇叙)。また同年六月には郷里京都府宮津市の名誉市民第一号となった。なお、これに先立ち昭和三十五年(一九六〇)五月には副社長田辺信、同十月には専務取締役徳永豊次が、翌三十六年十一月には副社長五十嵐芳雄が、次いで四十二年十月には顧問稲垣皎三が、いずれも黄綬褒章を与えられている。