第二節 伏見桃山御陵の造営
昼夜兼行・万全を期し奉仕
明治四十五年(一九一二)七月三十日、不世出の英主と仰がれた明治天皇が崩御され、年号は大正と代わった。京都府下伏見桃山(現・京都市伏見区)の地に御陵がえらばれ、九月十三日、東京青山練兵場で大喪(葬)の儀が、同十五日未明、御斂葬(御埋棺)の儀が桃山で行なわれた。御陵造営工事は大林組に特命された。
特命の理由は明らかでないが、明治三十年一月、英照皇太后崩御に当たり、芳五郎の旧師砂崎庄次郎氏が泉山御陵造営を命じられたとき、彼が旧師に代わり施工の総監督をしたことがあった。このとき彼が宮内省当局に深く信頼されたことと、東京中央停車場工事その他により業界に地位を確立したことが、この選定となったもののようである。
工事内容は御陵前広場の地ならし、外側コンクリート内側石造の宝壙築造、御須家、祭場殿の建設、大鳥居、神饌所、奏楽所、各種幄舎などの諸施設と、幅一〇・八メートル、長さ八八〇メートルの参道、桃山停車場拡張工事などで、八月十三日に着工、受命期限は九月十二日であったが、一週間前の同月五日に竣工した。この工事に際し、御須家の材料に用いる内地産無節の桧材は、芳五郎の命で所要総量を同時に三軒の商店に注文し、不測の事態にそなえ万全を期した。
御斂葬の作業も大林組に命じられ、幹部職員や各種棟梁、優良工らが古式にのっとり、終始絶対無言のうちに奉仕した。陵前祭の儀に当たっては、芳五郎と岡技師長が特に幄舎内の参列をゆるされた。
こののち大正三年四月、昭憲皇太后崩御の際、伏見桃山東陵に御斂葬の儀が行なわれたときも、ふたたび造営工事の特命があった。同月十六日に着工、五月二十日に竣工、同二十六日御埋棺が行なわれたが、さらに八月、御陵本工事を命じられ、同年末に工を終わった。
また、大正四年(一九一五)十月、大正天皇御即位の大札が京都で挙行されたとき、二条離宮の南御車寄せ、大宮御所内の皇族休憩所、仙洞御所内朝集所その他、各種工事を下命された。その後皇室関係の諸工事は数多いが、これらについては別にのべる。
レジャーランドの草分け―新世界ルナパーク
東京中央停車場、生駒隧道の両工事に着手したころ、宮崎敬介、武内作平氏らを中心に大阪土地建物会社が設立され、芳五郎もこれに参加した。この会社は、天王寺の第五回内国勧業博跡地の払下げを受け、そこに歓楽施設「新世界」を設けることになり、工事は大林組が請負った。「新世界」は天王寺公園に隣接する二万五〇〇〇坪(八万二五〇〇平方メートル)の地に、コニー・アイランドを模した遊園地「ルナパーク」を設け、その周囲に鉄骨高塔、映画館、食堂などを配した盛り場で、この種の施設として最初のものである。
高塔は勧業博当時の「大林高塔」を永久的にしたもので、高さは一八〇尺(五四メートル)あり、「通天閣」と名づけられた(金属回収令により昭和十八年二月撤去され、現在のものは昭和三十一年再建)。遊戯施設にはスケート場、ロープウェー、ドリームランド、失笑館などがあり、小劇場を兼ねた映画館は十三号館まであった。これらの設計は設楽貞雄氏で、明治四十四年(一九一一)九月着工、翌四十五年五月竣工したが、大阪名物として昭和初年まで繁盛した。
なお鉄道院からはじめて受託した岩越線第七工区も、明治四十五年三月完成した。工区は延長一二キロ余、五隧道と二六鉄橋をふくみ、冬季は豪雪に悩まされる難工事であった。またこの年決定した工事に、百三十銀行曽根崎支店や曽根崎新地歌舞練場がある。ともに現存しないが、前者は鉄筋コンクリート造銀行建築の大阪最初のものであり、後者は純日本式木造建築として世評が高かった。