大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二章 躍進―四十年代の積極経営

第一節 大型景気の到来―かつてなき繁栄

いざなみ景気―GNPはアメリカに次ぐ世界第二位へ

東京オリンピックの後に不況が到来するであろうことは、かねて予想されていたところであったが、果たして昭和三十九年(一九六四)末にはその様相があらわれた。アメリカの景気不振の影響や所得倍増政策のヒズミにより、特殊鋼や繊維関係の有力会社で倒産するものが相次ぎ、証券業界にも大混乱がおこった。折りから池田内閣に代わった佐藤内閣は、日銀の公定歩合や預金準備率の引下げ、公共事業費の繰上げ支出など弾力的な景気刺激策を行なうとともに、翌四十年十一月には戦後はじめての赤字公債発行を決定した。これによって景気は徐々に回復に向かい、経済成長率も昭和三十九年度の実質一三・九%から一〇・三%に低下して、安定成長への方向を示したが、一方、消費者物価指数は前年比七・四%の上昇となり、過去十年間をつうじて最高となった。

しかし、この安定成長は景気の回復とともにふたたび高度成長に転じ、昭和四十一年以後の成長率は一路上昇をつづけた。国民総生産は昭和四十一年、三八兆一一八〇億円とはじめて一〇〇〇億ドル台を突破、同四十三年には一四六六億ドル(五二兆七八〇〇億円)に達し、自由世界ではアメリカに次ぐ第二位となった。この好況は佐藤内閣成立以後五十カ月にわたって継続し、「いざなみ景気」あるいは「大型景気」などとよばれた。

この好調を裏づけして国土開発計画も進み、首都圏につづいて、近畿圏、中部圏の開発整備に関する法律が制定施行された。昭和四十四年六月、新都市計画法と都市再開発法が公布され、都市環境の整備、土地利用の合理化、都市防災等についての施策も行なわれた。都市再開発法は、従来の市街地改造法、防災建築街区造成法を統合整備したもので、この中では民間人による再開発組合設立を規定するなど、民間エネルギーを積極的に利用することが考えられている。

この間、自由化の進展にともない自動車、重工業をはじめとする各種企業においては、国際競争力を強化する方策として合併、協業化、系列化等による産業再編成の動きがみられた。また、これまでの産業が頭打ちとなることを予想し、情報産業、原子力産業、海洋産業、住宅産業等、いわゆる未来産業の分野に各方面の目が向けられるようになった。昭和四十五年、大阪で開かれた万国博覧会「エキスポ'70」では、人類の未来によせる夢が描かれたが、このときの会場建設では技術上画期的というべき多くの新しい試みが行なわれた。

好況の継続は、企業の経営規模の拡大、個人所得の上昇をもたらしたが、かならずしも明るい面ばかりではなかった。昭和四十四年(一九六九)版「経済白書」が、「戦後の高度成長によって日本経済の宿命的な体質といわれた二重構造は解消の方向に向かい、古い意味での貧困とアンバランスはなくなりはじめている。しかし、成長の過程は新たにさまざまなヒズミを生み出した」と指摘したように、いくつかの問題点が露呈された。すなわち、社会資本の不足、社会保障の立遅れは依然たるものであり、またいちじるしい消費者物価の上昇と公害発生の増加は国民生活をおびやかすようになった。

「住宅産業」の登場―金融機関や総合商社もきそって進出

空前といわれたこの大型景気の到来は必然的に民間設備投資の増大をよび、製造業部門では鉄鋼、自動車部門等の工場、非製造業部門ではホテル、貸ビル、マンション等の建設が増加した。工場規模はますます大型化し、霞ガ関ビル(東京)につづいて昭和四十四年(一九六九)中に商工貿易センタービル(神戸)、世界貿易センタービル(東京)などの超高層ビルが相次いで竣工した。道路、港湾、空港等に対する公共投資は年を追って増大し、公園建設など生活環境施設の改善充実にも進展がみられた。新都市計画法にもとづく都市再開発構想により、東京の新宿、池袋や大阪の阿倍野、新大阪駅地域に副都心をつくる計画に、建設、不動産、鉄鋼、電力、電鉄等の民間企業が参加し、ビル、ホテル、マンション、バスターミナル、ショッピングセンター等を総合的に建設しようとする動きがあらわれたのも、これまでにない現象であった。

また、昭和三十七年(一九六二)、国土総合開発審議会が決定した全国総合開発計画にもとづき、八戸、秋田湾地区等一五地域に新産業都市、鹿島地区等六地域に工業整備特別区域が設定され、大工場誘致による拠点開発も進行した。これは同四十四年(一九六九)に修正され、新全国総合開発計画に発展したが、いずれも土木建築にわたる建設事業で、建設業界に課された任務は大きかった。

一方、個人所得の上昇や家族構成の変化にともない、いわゆるマイホームへの要求が高まった。住宅需要は昭和五十五年(一九八〇)までの二〇年間に一〇〇兆円以上に達するものと見込まれ、この情勢を反映してプレハブ住宅専業者が続出したが、同時に、さらに長期的な視野に立つものとして、建設業から分化して住宅産業がおこった。金融機関や総合商社も積極的にこれに関心をもち、旧財閥グループをはじめ、不動産、電鉄、パルプ、合繊などの各産業部門がきそってこの分野に進出し、建設業者も新たな目をもってこれに対応しなければならなくなった。

一〇三億円に増資

以上のように、大型景気到来による建設需要の増大は、かつてない繁栄を業界にもたらした。昭和四十三年(一九六八)下期の決算において、東京証券取引所第一部上場五四五社の平均が、前期に比して八・六%増収、一〇・三%増益であったのに対し、建設業者一四社の平均は九・五%の増収、一七・九%の増益を示している。この一般産業界に対する建設業の優位はその後も継続し、建設株は証券界の花形となった。大林組の株式も昭和四十三年一月、大阪証券取引所の特定銘柄に指定され、同年十月、一〇三億円に増資を行なった際の株価は額面五〇円に対し二九六円の高値を示した。

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