第三節 大阪城天守閣と地下鉄工事
豊太閤時代の姿を復元
昭和二年(一九二七)四月、大阪市会は決議をもって、翌年挙行される天皇即位御大典を記念し、大阪城天守閣の再建を決定した。第四師団司令部所在の陸軍用地のうち、旧本丸一帯の地を市民に開放して公園とし、ここに豊太閤時代の天守閣を、現代の材料と工法によって復元することとしたのである。総予算は一五〇万円(天守閣四三万円、師団司令部庁舎新築八〇万円、公園施設二七万円)で、市民の寄付によることとなったが、住友家の二五万円をはじめ、総数七万八〇〇〇余口の寄付を得た。
大阪城は豊臣秀吉が天正十一年(一五八三)に完成したと伝えられるが、元和元年(一六一五)の夏の陣でほとんど壊滅した。徳川幕府はさらにこれを徹底的に破壊し、寛永七年(一六三〇)、まったく新しい大阪城を構築した。造営を命じられたのは西国、北陸の諸侯六四家で、これらの家紋は石垣に刻まれて現存する。天正時代の大阪城にくらべると規模ははるかに縮小され、本丸、二の丸を残し、旧三の丸の大部分には町家が建築された。このとき建てられた天守矢倉(天守閣)は小堀遠州の設計と伝えられるが、寛文五年(一六六五)雷火で焼失し、さらに明治維新の動乱に際し、本丸、二の丸、山里丸のほとんどを全焼した。その後城跡は陸軍用地となり、正午の時刻を告げる午砲の所在地として市民に親しまれた。天守閣再建計画は、ここに当初の大阪城、豊太閤時代の姿を復元しようとするものであった。
設計、監理には大阪市土木局建築課が当たり、基本計画は同課の千原隆三氏が担当した。昭和四年(一九二九)二月、起工式を行ない、公園施設と師団司令部庁舎はただちに着工したが、天守閣については当初の姿を伝える資料皆無のため、設計は容易に進まなかった。たまたま旧福岡藩主黒田家に伝わる「大阪夏の陣屏風」の一隅にそれが描かれていることを知り、その信頼性を研究した結果、これを全面的に採用することとなり、設計は急速に具体化、昭和五年四月、大林組がこれを三八万円で受注した。
天守閣は鉄骨鉄筋コンクリート造の五層七階で、総延坪一二〇〇坪(四〇〇〇平方メートル)、楼上に高さ七尺の金の鯱をおき、地上高は一七四尺(五三メートル)である。工事材料は大手門から搬入するはずであったが、城内の通路は曲折が多く、また軍用地のため出入りが不便であるなどの事情により、鉄骨以外の諸材料は、濠をへだてて架設したケーブルを用いて運搬した。また工事に使用したエレベータは二二五尺(六八メートル)という前例のない高さで、これらはいずれも市民の話題となった。工事主任は大阪市側岩越国蔵氏、大林組森定松之祐で、翌昭和六年(一九三一)十月三十日竣工した。
近代化指向―威容をきそう高層ビル
昭和初期の不況により、業界が不振をきわめたのは前記のとおりであるが、このころ施工された建築には本格的なものが多い。不況による資材や労務費の低下がビル建設の採算面に有利に働いたという一面もあったが、外国技術の吸収による工法の進歩、さらに都市そのものの近代化指向も理由としてあげられる。企業は高層ビルによって威容をきそい、官庁もまた欧米諸国の庁舎にならって機能的建築を要求した。不況といいながら、この時期に多くの重要建築が生まれたのにはこうした時代的背景があった。このころ大林組が施工した主要なもののいくつかをあげよう。
オフィスビルの代表的なものに、大阪の住友ビル、大阪瓦斯ビル、東京の野村ビル、日比谷三信ビルなどがある。住友ビルは土佐堀川に面し、地下一階、地上六階、延坪は一万坪(三万三〇〇〇平方メートル)を越える大阪最大のビルで、請負金の総額は二五〇万円に近かった。設計は住友工作部の長谷部鋭吉、竹腰健三の両氏で、機械設備の設計はニューヨークの連邦準備銀行と同じく、ラニー・アンド・オームに依頼した。外観、内装とも豪壮、重厚で王者の風格をそなえ、現代でも大阪を代表する建築である。工事主任は海老政一(一期工事)、渡辺家三(二期工事)であった。また、大阪瓦斯ビルも、講堂、ショールームなどのサービススペースを設け、御堂筋における近代ビルの先駆をなした。請負金八二八万円の日本銀行本店増築をはじめ、公共建築では、文部省、簡易保険局、東京中央電話局、大阪府庁、大阪中央電信局、神奈川、徳島、新潟、宮城各県庁、アメリカ大使館など、広範囲にわたった。
日本銀行本店は、辰野金吾博士の設計による明治時代の記念碑的建築であるが、その後業務の拡大にともない分館を増設したところ、関東大震災によって損傷を受けた。そこでこの分野を解体し、あらたに増築工事を行なうこととなったものである。
昭和二年(一九二七)八月、設計を開始し、本館の北側、東北側、東側を三期に分け、地下四階、地上六階、延坪約一万一八〇〇坪(三万九〇〇〇平方メートル)を増築した。大林組の施工はこのうち第一期の本館北側接続部分で、躯体の柱と梁は鉄骨鉄筋コンクリート造、床版、壁体その他間仕切壁は鉄筋コンクリート造である。着工は昭和四年(一九二九)十一月、竣工は同七年五月末であるが、全増築工事を完了したのは昭和十三年(一九三八)六月であった。担当者は、工務監督本田登、工事主任は平郡幸一であった。
劇場建築では東京歌舞伎座につづいて、昭和五年(一九三〇)三月、東京劇場を完成した。地下二階、地上六階、延三〇二九坪(一万平方メートル)の大劇場で、設計は大林組設計部木村得三郎、工事主任は西沢藤生である。洗練されたスパニッシュスタイルの優雅な外観は、斜め向うの歌舞伎座と相対して都人士の注目をひき、内装もこれにふさわしく、ことに客席の大天井は豪華をきわめた。昭和八年竣工の日本劇場は、地下三階、地上七階で延四七八六坪(一万六〇〇〇平方メートル)客席の収容能力は五〇〇〇名、東洋第一の大劇場といわれた。大阪でも千日前に歌舞伎座を建設したが、戦後に改装されて、デパートとなっている。このころ武庫川畔の甲子園ホテル(現・武庫川女子大学寮)も完成しているが、これはライト門下の遠藤新氏の設計で、新しい建築として話題になった。
以上のほか、当時の主要完成工事を列記すると次のとおりである。
公共―東京帝大図書館、東京帝大伝染病研究所、九州帝大病院、千葉医大病院、大阪鉄道病院、名古屋市公会堂、東京博物館(現・国立科学博物館)、神戸商大、横浜高工
民間―大日本人造肥料富山工場、日本麦酒西宮工場、八重洲ビル、常盤生命本社、日清生命館、東京住友ビル、三菱石油本社、大阪安田ビル
都市交通の近代化―東京、大阪で続々地下鉄
近代化は建築のみにとどまらず、土木の面でも飛躍的なものがみられた。都市計画にともなう道路の拡幅、舗装や橋梁のかけかえなどが相次ぎ、施工も機械力にたよることが多くなった。橋梁工事でこのころ受注したものは東京では白鬚橋、大阪では前記の淀川大橋や桜宮橋、十三大橋がある。十三大橋は鋼板桁ならびに鋼タイドアーチ、長さ六八一メートル、幅員は二一メートル弱で、橋脚工事にケーソンを使用し、昭和五年(一九三〇)竣工したが、これは関西でケーソンを用いた最初である。
都市交通近代化の端を開いた地下鉄建設も、このころであった。わが国の地下鉄は昭和二年(一九二七)十二月、東京の上野―浅草間の開業が最も早く、大林組は同二年六月、万世橋~上野間一・六キロの工事を一二七万円で請負った。関西での最初は新京浜鉄道の城北京都線約三・五キロの間で、これも大林組が二六四万円で受注した。昭和四年(一九二九)二月に着工し、同六年三月末に完工するまで二年余を費やしている。
大阪地下鉄は大正九年(一九二〇)から調査に着手したが、幹線道路御堂筋建設との関連などで、工事開始は昭和五年(一九三〇)一月となった。第一期工事は梅田~心斎橋間であるが、当時の緊縮政策により起債が抑制され、また、失業対策工事に指定されて未熟練労務者の使用を強要されるなどの諸事情から工事が遅れ、開業したのは昭和八年(一九三三)五月であった。この工事で大林組が担当したのは、淀屋橋~北久太郎町間の路線と駅(請負金二五三万円)、大江橋、淀屋橋改築と河底路線(同一三一万円)、淀屋橋および本町停留場仕上げ工事(同二二万円)などである。河底隧道工事は日本最初の試みで、この工事主任は久野二男であった。
また昭和三年(一九二八)三月起工、同五年八月竣工した参宮急行電鉄(のち近鉄に合併)の青山隧道も、請負金額四一八万円の大工事であった。延長約三・四キロ、坑内西から東に向かって一三〇分の一の下り急勾配を含む難工事で、生駒隧道工事の経験をもつ大林組に特命されたものである。工事主任は多賀保(西口)と久野二男(東口)で、この隧道の開通により、はじめて京浜地区から日帰りの伊勢参宮が可能となった。