大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第三章 「もはや戦後ではない」

第一節 施工技術の革新と重機械の導入

技術面の再出発―研究部門を新設

終戦から朝鮮戦争にいたる四年間は、進駐軍や一部の工場関係をのぞき、ほとんどの工事は木造を主とした応急建築であった。また、建設技術の進歩は、戦争によって中断され、いちじるしい立ち遅れをみせていた。それが米軍の指導で機械化施工を経験し、大きな刺激を受けたことは前述したが、これを機としてわが国建設業界は、技術面でも再出発することとなった。

大林組が技術研究部門を設けたのは、昭和二十三年(一九四八)六月の研究部設置にはじまるが、すでにその前年本店設計部設計第三課がこの種の仕事を担当していた。戦後の復旧工事に多用された木造建築の設計と施工のため、「木構造断面表」を作成したのもその一つで、これらの作業は新設された研究部にひき継がれた。研究部長は設計部長小田島兵吉が兼務し、研究部では材料、工法に関する調査、研究、開発や外国文献の紹介、技術資料の作成などのほか、学会および大学との連絡にも当たった。

当時の若手技術者は、在学中は学徒動員などで学習時間が少なく、復員した技術者も長い軍隊生活で実務から離れていたので技術的な基礎知識の再整理・再教育が必要であった。そこで、コンクリート工事の再開にそなえ、まず「コンクリート工事施工テキスト」、「型枠施工要領」等のパンフレットを作成し、職員教育の資料とした。

研究部は昭和二十六年(一九五一)三月、機構改革によって研究室に改組され、技術に関する調査、研究、審議、立案等は研究室が所管することになった。また同三十二年(一九五七)三月には、東京支店内に分室をおき、本店研究室長には菅田豊重、東京分室長に永井久雄が任命された。その後さらに拡大して、同四十年十二月、東京都清瀬に大林組技術研究所が開設されたのであるが、これについては別にのべる。

研究部の時代、研究室の時代をつうじ、この部門があげた成果は数多いが、その一つに電気比抵抗法による地盤探査法(電探)の実用化がある。このテーマは昭和二十四年のはじめ、建設省建築研究所の竹山謙三郎博士、資料科学研究所の岩津潤博士らを中心に編成された地盤探査研究会がとりあげたもので、当時は不発爆弾がまだ地中に埋没しているおそれがあり、これらの探査に使われていた。研究部では、この方法を従来のボーリングと並行して用い、地盤の状況を電気的に推定しようと考え、昭和二十五年ごろから大阪を中心とする十数ヵ所の現場で実験を行ない好成績をあげた。コンピュータがまだ実用化されていなかった当時のことであるから、測定結果を解析するには複雑な計算が必要であったが、研究部では測定値を直接図上にプロットして判定する解析方法(ρ~α曲線紙)を独自に考案した。この方法は地盤探査研究会で発表され、関係方面から高く評価された。また昭和二十五年五月、社内に技術改善委員会が発足し、翌二十六年八月から、技術の向上、改善を中心に検討する工事主任会議も常設され、「工事時報」「技術資料」などが刊行されるようになった。

工事時報 創刊号
工事時報 創刊号

沖縄工事に触発された施工の機械化

朝鮮戦争につづく約五年間はわが国経済の復興期であり、建設技術の面においても戦時中の空白をうずめ、戦前の水準に復帰するとともに、三十年以降に本格化する各種技術の素地が築かれた時期であった。沖縄工事に触発された施工の機械化は、まず土木工事の面からはじまり、次いで建築工事におよぼされた。発注工事が本格化するにつれて、すでに相当大規模となっていた地下工事では鉄矢板はスチームハンマによって打ちこまれており、鋼製切梁も使用されはじめ、ブルドーザ、パワーショベル、ドラグラインなどが導入されてきた。昭和二十八年(一九五三)のNHK東京放送会館新築工事では、これらの重機類に加えてベルトコンベーヤ、バケットコンベーヤ等も使用されるようになった。また同年着工した東京駅八重洲本屋(鉄道会館)工事では、当時ダム工事に使われはじめていた全自動バッチャープラントが採用され、コンクリート工事の管理面がいちじるしく向上した。翌二十九年、大阪の近鉄会館の屋根工事ではショットクリート工法が採用されているが、これは土木工事の法面養生に用いていたものの応用であった。

日本における土質工学が新しい展開をみせたのもこの時期からで、地盤調査や土質改良の技術も進歩し、前にのべた電気探査法、不攪乱試料のサンプリング法、標準貫入試験などが実用化され、サンドドレーン工法が紹介された。ウエルポイント、ジーメンスウエル工法などの新しい水替え工法が実用化され、排水用ポンプが改良されたのもこの当時で、地下工事の様相は大きく変貌した。

骨材の重量を簡易に計量するベルコンプラントもこのころ開発され、これまで容量計算によっていた小規模工事のコンクリートが重量計量され、良質のものが得られることとなった。同時に、この種の現場打ちコンクリートが、生コンクリートにおき代えられるという画期的現象がおこったのも、この時代であった。大林組が生コンクリートを最初に用いたのは、昭和二十七年の東京阿佐ヶ谷の帝国銀行支店工事であるが、このころから生コンクリート専業の企業が生まれ、急速に業績をのばした。これと同時にコンクリートポンプ、バイブレーターなども導入され、前記の鉄道会館工事で使用された。

業界の注目を集めた滑動型枠工法

アメリカの道路工事などに使用されていたAEコンクリートが建築工事にも使われるようになり、昭和二十九年八月には、防衛庁庁舎の新築工事に天然の軽量骨材を用いたコンクリートを試用した。AE剤、ポゾリス、エンベコ等が輸入され、フライアッシュも混和剤として使われるようになった。また、戦災ビルの構造上の安全性を診断する必要などから、シュミットハンマの使用、ストレインメーター等の試験器具が実用に供され、電気的な方法を利用するコンクリートの非破壊試験法も紹介された

わが国の業者がベニヤ型枠の存在を知ったのは、沖縄工事に際してであるが、大林組がはじめて試みたのは昭和二十五年十二月、NHK大阪中央放送局堺送信所新築のときである。しかし、当時は耐水ベニヤが国内で本格的に生産されておらず、コストが高かったため、一般に普及しなかった。防衛庁庁舎工事では、サッシュ先付の大型パネル工法を用い、東京駅八重洲本屋(鉄道会館)やマミヤ光機の工事などではメタルフォームを試用した。昭和二十八年(一九五三)十一月、大阪安治川サイロ工事に採用した滑動型枠(スライディングフォーム)は、ひろく業界の注目を集めた。これは三菱化成黒崎工場、名古屋港食糧庁サイロ等でも用いたが、さらに日本住宅公団弦巻アパートの工事計画に参画し、工法指導を行なった。コンクリート地肌の美を強調するコンクリート打放し工法が流行しはじめたのもこの当時からである。これはコンクリートの品質や型枠の精度の向上に資することが多く、大林組では社内技術者のために「打放しコンクリート施工指針」を刊行した。

体育館や紡績工場が、シャーレ構造、無窓建築を採用する傾向も増加した。大林組では昭和二十八年十月、シャーレ構造の松山体育館(愛媛県民館)を施工し、はじめて鉄筋のガス圧接工法を採用した。また、このころから外装全面サッシュ、ガラス貼りのいわゆるカーテンウォール工法が採用されはじめた。同時に、ビルの冷暖房設備が一般化し、その結果、熱線吸収ガラスの使用、ドリゾールその他の断熱材料の利用など、建築物の質的充実が促進された。塗料、防水、接着用として、また内装材として、床タイル合成樹脂塗料、アクリル樹脂成型品等の高分子系材料も開発された。石膏プラスター、キーンスセメントが用いられはじめたことによって左官技術は改良され、工期は短縮された。昭和三十年(一九五五)に開発された軽量型鋼は、断面効率がよいこと、形状が任意であることなどの利点から、木材に代わる材料として急速に普及し、異形鉄筋の製造もはじまった。

土木工事の機械化施工は、前記のごとく建築工事に先駆して行なわれた。重機械類は、はじめのうちは特別調達庁が保有する米軍の払下げ品や、建設省、運輸省、農林省、北海道開発庁等が購入したものを貸与され、直轄工事で使用していたが、やがて業者自身が保有するようになった。ダムの建設が盛んになるのとともにインパクトクラッシャ、削岩機(デタッチブルビット)、大型ショベルダンプ等の輸入や製作が行なわれるようになってきた。コンクリートフィニッシャ、被牽引タイヤローラが用いられるようになったのも、道路工事の大型化、近代化に歩調を合わせるものであった。

基礎工法としては、前記のサンドドレーン工法が昭和二十六年(一九五一)に紹介されたのをはじめ翌二十七年には既成杭打込みにジェットドリフター工法、昭和三十年にデルマーグ社のディーゼルハンマ杭打機械が導入された。構造技術の面では、プレストレストコンクリートの実用化がある。昭和二十六年、PC枕木が鉄道で試用され、PC道路橋が七尾市に建設された。翌二十七年にはPC鉄道橋も施工され、いずれもプレテンション方式をとっている。これとともにPC製品の工場生産がはじまり、同二十八年にはポストテンション方式が実用化された。

技術や工法の革新、新材料の開発等は研究室の任務をいよいよ重大ならしめた。新材料の性質解明や、施工上の適応性について、関係各部門の要請にこたえねばならなかったからである。そのため、本店付近の石町ガレージを改造し、二〇〇トンのアムスラー試験機を設置して実験室とし、コンクリートの配合テストをはじめ、混和剤、セメント、接着剤などの材質試験や強度試験などを行なった。現場から依頼されてくるコンクリートの強度試験が多かったが、これはその後自社試験が公式に認められなくなるまでつづいた。大林組が開発したゴムラテックス混和セメント防水接着剤「セマルテックス」の基礎実験が行なわれたのもこの実験室である。取締役研究室長(設計部長兼務)小田島兵吉は、日に日に進む技術革新にそなえるため、昭和二十九年(一九五四)八月、東京支店設計部の富田哲輔をともない、アメリカおよびヨーロッパに設計業務の視察におもむいた。

重機械類を保有した動機が沖縄工事にあったことは前にのべたとおりであるが、昭和二十五年三月決算における工事機械保有高は、取得価格で二三一一万五〇〇〇円にすぎない。それが技術革新の進展にともない、みるみる増強されて、大型機械が相次いで導入された。そのころ購入した主要なものは以下のごとくである。

ショベルカー(ビサイラス51B、一・五立方メートル)、ブルドーザ(D―8、13A、14A)ダンプトラック(ユークリッド一〇トン、一五トン)、クラッシングプラント、ロッカーショベル(アイムコ一〇四型)、ポータブルコンプレッサ(JOY一五〇馬力)、ワゴンドリル(JOY)、ドリルジャンボ(同)、ケーブルクレーン(日立四・五トン、一端固定他端弧動式)、バッチャープラント(石川島コーリング、全自動累積計量〇・六立方メートル)、コンクリートポンプ(レックスS―二〇〇型)、パワーショベル(デルマック二・三立方メートル)、土砂ホッパービン(八立方メートル)、トラッククレーン(米国ミシガン製一五トン)、トラックミキサ、バイブロフロータその他

これらの新鋭重機械類の購入によって、五年後の昭和三十年(一九五五)九月決算における機械保有高は取得価格で九億七八五万七〇〇〇円に達した。

滑動型枠(スライディングフォーム)工法の採用
安治川サイロ工事(昭和29年)
滑動型枠(スライディングフォーム)工法の採用
安治川サイロ工事(昭和29年)
メタルフォームの試用
鉄道会館工事(昭和29年)
メタルフォームの試用
鉄道会館工事(昭和29年)
松山体育館(愛媛県民館)
〈松山〉昭和28年10月竣工
設計 丹下建三計画研究室
松山体育館(愛媛県民館)
〈松山〉昭和28年10月竣工
設計 丹下建三計画研究室
安治川サイロ(第1期)
〈大阪〉昭和30年6月竣工
設計 大阪市港湾局
安治川サイロ(第1期)
〈大阪〉昭和30年6月竣工
設計 大阪市港湾局
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