第二節 第五回内国勧業博覧会
会場施設のほとんどを一手に建設
明治三十四年(一九〇一)の恐慌を乗り越えた由五郎は、その年十一月、第五回内国勧業博覧会の会場施設工事を受託した。清水組、大倉組とともに、唯一の大阪業者として指名を受け、これら先輩業者との競争に勝って、そのほとんどの工事を落札した。創業以来十年にも満たないで、早くもその実力を認められたのであるが、その成果には予測を越えるものがあった。大林芳五郎(明治三十五年二月、由五郎を芳五郎と改名)の名が、全国的になったのはこのときからである。
内国勧業博覧会は政府が主催するもので、第一回は明治十年に東京で開かれた。富国強兵、殖産興業の手段として、大久保利通が西南戦争中にもかかわらず強行したものである。その後数年ずつの間隔で第三回まで東京で開かれ第四回は明治二十八年に桓武天皇奠都一千年記念として京都で開催された。その第五回開催地をめぐって東京、大阪の間で激しい競争が行われたが、それは日清戦争後の不況克服の「世直し」とするためであった。大阪財界は府・市とともに、内国勧業博誘致期成同盟会を結成し、商業会議所会頭土居通夫を会長として、中央政界に猛運動を行なった。その結果、第十四議会で大阪開催が少数差で決定し、明治三十三年(一九〇〇)五月、勅令で公布された。由五郎がこの工事を東京業者にまかせたくなかったのは、こうした事情があったことも考えられる。
博覧会は閑院宮載仁親王を総裁とし、副総裁に農商務大臣平田東助、審査官長に大鳥圭介、事務官長に安広伴一郎が任命された。会期は明治三十六年三月一日から七月末日まで、会場は天王寺村、茶臼山一帯の一〇万四〇〇〇坪(三四万三二〇〇平方メートル)が大阪市会の決議によって買収され、用地として提供された。工事期間は明治三十四年十一月二十五日にはじまり、同三十六年二月末日にいたる十五カ月である。この間追加工事がたびたび発注され、請負金の総額は八〇万円を越えた。
政府直営の博覧会はこれが最後となったが、今回は前四回にくらべると驚くべき大規模なものであった。美術館(本館)、工業館、機械館、教育館、農業館、林業館、水産館、通運館、各地方特別館などに分かれ、参考館にははじめて外国の出品物も陳列された。アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスなど十三カ国であるが、カナダは特に一館を特設し、あたかも万国博の観があった。自動車(蒸気)、冷蔵庫、タイプライターなどを、はじめて日本人が見たのはこのときである。
話題の施設参加―「大林高塔」
この博覧会は「電気の博覧会」とよばれたほど電気が活用された。会場入り口には六尺(一・八メートル)角の「第五回内国勧業博覧会」の大文字が点滅し、本館全体がイルミネーションで飾られた。本館前の大理石観音像は、サーチライトの光りで七色に変化し、噴水塔の水煙は赤色に輝いて人々を驚かせた。また余興場の電気設備も空前のもので、当時の電気技術の最高を示すものであった。家庭用の電灯さえ普及していなかったころ、これがセンセーションをおこしたのは当然であるが、施工上の苦心も思いやられる。
このほか人気を集めたものに、ウォーター・シュートや望楼があった。望楼は高さ一五〇尺(四五メートル)で、木造としては前例がなく、エレベータをそなえたのも最初であった。これがヒントとなり、のちに通天閣が建てられたように、高層建造物のなかった当時、大きな魅力となって話題をよんだ。この望楼は大林の発意による施設参加で、望遠楼と名づけたが、一般には「大林高塔」とよばれた。入場料は一五銭で、この収入では建造費を償却できなかったが、宣伝効果は大きかった。
開会式をはじめ八回にわたり天皇、皇后が行幸啓され、近畿一円はもとより東京方面からも多数の来観者があった。入場者の予想ははじめ三〇〇万人であったが、開会一〇〇日目にはこれを突破し、総数は前回の京都博の五倍を越える五三〇万五二〇九人に達した。またこれを機会に公会堂やホテルが建設され、市内の河川には巡航船が運行され、市街電車も開通するなど、都市としての大阪も大きく変貌した。
こうして第五回内国勧業博は、予期以上の成果をあげた。一九七〇年の万国博とは、規模において比較すべくもないが、当時の民度から推すと、実質的にはほぼ匹敵するものと考えられる。その大施設のほとんどを独力で建設した大林の名が、全国に認められたのは当然であった。果たしてこれは明治四十四年(一九一一)二月、東京に進出して東京駅工事を受託し、さらに今日の大をなすにいたる第一のスプリング・ボードとなった。