第三節 黄金の六〇年代 2
ターミナル中心の地域開発
横浜駅西口周辺
経済の高度成長にともない、人口の大都市集中の現象がはなはだしくなったが、住宅その他の事情によって密度は都心よりも周辺地区が濃かった。そこで、これを後背地とする私鉄が発達し、同時にターミナルの開発が急がれた。昭和三十年(一九五五)八月、大林組が着工した「横浜センター」建設計画もその一つである。
これは戦後十年を経ながら、雑草がおいしげり、砂利おき場として放置されていた横浜駅西口周辺に繁華街をつくろうとしたもので、計画はここを起点とし、厚木方面とむすぶ相模鉄道(相鉄)の発案によるものであった。工事は、相鉄横浜駅、名品街、髙島屋ストア、ローラースケート場等の建設で、昼夜兼行の突貫工事を行なった結果、七カ月の短時日で竣工し翌三十一年四月、「横浜センター」は花々しく開業することができた。
この地域は国鉄横浜駅の裏口に当たるため、はじめは営業をあやぶむ声もあったが、開業と同時にこの不安は一掃され、相鉄のねらいは適中し、目ざましい発展をした。これに確信を得た同社は、引きつづき拡張計画にうつり、相鉄文化会館、相鉄会館(横浜髙島屋百貨店)、相鉄ビル、横浜ステーションビル、横浜駅西口地下街等の全建設工事が大林組に発注された。このあたり一帯の地盤は軟弱で工事はきわめて困難であったが、昭和三十四年(一九五九)九月には相鉄会館、同三十七年(一九六二)十一月には横浜ステーションビルを、次々に完成した。ステーションビルは、相鉄、東急、鉄道弘済会等の出資による民衆駅で、国鉄、相鉄、東急、京浜急行の各駅を収容している。各階は有名専門店の商店街で、ほかにボウリング場、展望台、遊園地等の施設もある。また、三十九年十二月には駅前広場の地下にダイヤモンド地下街と西口地下駐車場が完成したが、この地下街工事に当たっては、大林組が開発したパイルコラム工法を全面的に採用した。
このようにして開発が進み、かつての荒地が一転して繁華街と化すと、それにつれて多くのビルが相次いで建設されたが、その約九割は大林組が施工した。上記のほか昭和四十六年までに竣工したこの周辺の主要建築物は、横浜観光会館、東洋ビル、大洋不動産第一、第二、第三、第四ビル、丸藤ビル、浜西ビル、中村ビル、東洋不動産ビル(三和銀行)、同増築、横浜銀行ビル、甘糟ビル(横浜岡田屋百貨店)、西電話局、相鉄映画館ビルなど総数は五〇件に近い。このうち横浜ステーションビルと西電話局は競争入札であったが、他はことごとく特命受注で、請負金の総額は一五三億円に達した。
相鉄当局は昭和四十四年(一九六九)、さらに新相鉄ビルの建設に着手した。この計画は、既存の横浜センターの様相を一変させる大規模なもので、工事は第一次工事、第二次工事としてA~Dブロックに分けて着工、すでにDブロック(地下街増築部分)は完成しているが、請負金は一〇〇億円を突破した。
このほか、東洋不動産ビル(請負金一〇億円)、神奈川県労働福祉センター(請負金一二億円)工事も現に進行中で、岩崎ビル、谷川ビル等の建設も予定され、この地域開発は今後さらに十五年にわたり継続するものと見込まれる。これらの工事は主として越野辰男が担当した。
東京池袋駅周辺
新宿とならんで池袋を大東京の副都心とする案は、早くから復興計画にとりあげられていたが、大林組が昭和三十一年の二月から着工した国鉄池袋駅東口本屋工事も、この副都心化計画の中心となる工事の一つであった。これは鉄骨鉄筋コンクリート造、地下三階、地上八階、塔屋三階のビルで、地下一階の一部と一階全部を駅舎、二階以上は東京丸物百貨店(現在はパルコ)が使用した。設計は駅舎部分と西口本屋連絡地下道が国鉄東京工事局、百貨店部分は村野、森建築事務所で、国鉄と東京丸物百貨店の共同発注であった。
当時はまだ杭打用のデルマック機も、金属足場も普及していなかったころで、ガイデリックや丸太足場が使われていたが、一日三〇万人といわれる乗降客を通行させつつ行なう工事であったことから、安全管理の苦心には想像以上のものがあった。竣工は昭和三十四年一月、工事事務所長は清浦直明、請負金は一一億四八六〇万円である。
このころの池袋は、国鉄駅の東側を中心に発達し、すでに西武百貨店、西武鉄道池袋駅があり、三越百貨店の進出も予定されていたが、このビルの完成によって池袋東口はいよいよ繁栄を加えた。これに対し、国鉄線路をへだてた西口方面は東武鉄道東上線駅のほか見るべきものがなく、戦後自然発生したヤミ市場さえまだ存在した。折りから地下鉄(帝都高速度交通営団)四号線の乗入れが決定し、池袋は国鉄を中心に、東武、西武、地下鉄とむすぶ要衝の地となった。そこで西口を拠点とする東武鉄道は、この機に乗じ東口に対抗してこの方面を開発すべく、西口開発の総合的な計画に着手した。その第一が東武会館建設で、大林組は昭和三十三年十月、この工事を受注した。
東武会館は、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下三階、地上七階、塔屋三階で、延面積は四万二七七三平方メートル、地階は地下鉄池袋駅に連絡し、一階は東武鉄道東上線ホームとコンコース、二階~四階は東武百貨店、五階~七階にアイススケート場、食堂、結婚式場などが設けられる計画であった。さらにこの工事と並行して東口と西口をむすぶ国鉄池袋駅構内連絡地下道工事が計画され、この地下工事は難工事中の難工事であった。それは二層の隧道を掘削し、上に連絡地下道、下に地下鉄を通すためであるが、それには国鉄池袋駅構内の電車線、貨物線等二二本の軌道下を横切らねばならなかったからである。
工事に際し、最も留意したのはこの国鉄線路の安全確保で、そのための費用と手間は莫大なものであった。まず鋼製の桁をレールの下にあて、これをサンドルで支持しつつ、オーガー工法によるコンクリート基礎によって桁を受けさせ、次に長さ一〇・五メートルの鉄筋コンクリート杭を打ち、これに桁を支持させながらレール下を掘削するという順序で作業を進めた。この仮受工事は三段階に分けて施工し、次々におき替えて本受けするのであるが、これは西端の東上線の地下工事の場合も同様で、三つのプラットホーム、三つの線路下にも線路受工をほどこして、地下道、地下鉄工事を行なった。この工法はそののち「池袋工法」の名でよばれ、この種工事に唯一の工法として各所で採用されている。この期間の工事事務所長は土木担当の佐藤泰一が当たり、その後は建築の吉野健次郎が担当した。
この工事は、戦後行なわれた都市改造工事の先駆ともいうべきものであるが、池袋駅構内の地下工事は国鉄はじまって以来の難工事とされ、きわめて危険度が高かった。そのため安全管理には万全を期し、毎日の作業打合わせはさながら安全のための打合わせの感があったが、全工事をつうじて列車運転には支障を与えず、旅客や公衆に対する事故もおこさなかった。こうして地下鉄工事は昭和三十五年(一九六〇)十一月、中央地下道は同三十七年九月、東武会館は同年十一月竣工、地下商店街はややおくれて、翌三十八年六月に完成した。東武会館は、その後スケート場や結婚式場の改修、売場の新設等をしばしば行ない、また関連工事として池袋西口停車場株式会社の発注による駐車場その他諸施設をも施工した。これらを合計すると請負金の総額は五四億九〇〇〇万円に達する。
この東武会館の落成を機として、東京都は西口周辺の区画整理に着手し、悪名高き闇市場を一掃した。そこで東武鉄道当局は地主と協議し、隣接する同社の東上業務局局舎を解体して、ここに池袋西口協同ビルを建設することとなった。西口広場に面し、東武会館と相対する絶好の地で、昭和三十九年(一九六四)四月着工、同四十一年一月竣工したが、設計、施工とも大林組が特命され、構造は鉄骨鉄筋コンクリート造、地下三階、地上九階、塔屋二階、総面積は一万三三六〇平方メートルである。外装は全面アルミのカーテンウォールで、カーテンウォールを先付けし、これを型枠代わりとしてコンクリートを打設する工法を用いて、工期を短縮した。このビルには三井信託銀行、富士銀行各支店、東上業務局その他多くの店舗が入居している。工事事務所長は工藤立治、請負金は一〇億八一〇〇万円である。
これにつづいて昭和四十四年(一九六九)三月、東武会館増築を兼ね、国鉄池袋西口駅を民衆駅とする工事に着工した。これは西口周辺の発展と東上線乗客の激増によって駅舎の拡張をせまられた国鉄と、かねて百貨店売場の狭隘をなげいていた東武の要求が一致したためであるが、同時に営団地下鉄八号線の乗入れがきまったことが動機となった。新ビルの規模は地下四階、地上一五階、塔屋三階、延面積は六万九〇〇〇平方メートルで、構造は二階床以下は鉄骨鉄筋コンクリート造、二階床以上を鉄骨造とし、床はデッキプレート コンクリート造である。地下二、三、四階は駐車場、一階および地下一階は国鉄と東上線の駅施設、二階~八階を東武百貨店が使用し、九階~一五階は貸室で、昭和四十六年(一九七一)十月竣工した。建築の工事事務所長は工藤立治、土木は太田清である。
このほか、大林組が池袋駅西口周辺で施工したものには、西口協同ビルに隣接する豊和企業ビル(三菱信託銀行)や東洋信託銀行、不二家池袋ビル等があり、また東口にも日本生命池袋ビル、埼玉銀行など数多い。
経済成長を反映―活発となった公共投資
経済成長に歩みを合わせ、社会資本を充足するための公共投資もこの時期にいちじるしいものがあった。電源開発も引きつづいて行なわれ、昭和三十年(一九五五)設立された日本住宅公団、同三十一年発足した日本道路公団の活動もはじまった。大林組の場合、この当時の公共工事の主力はダム、道路、橋梁、地下鉄、地下街建設その他の土木工事に注がれた。以下にその主要なものをあげる。
風屋ダム 〈昭和三十三年七月~同三十五年十月〉
電源開発会社の発注により、奈良県の秘境十津川村に建設されたこのダムは直線重力式コンクリートダムで、堤高一〇一メートル、堤頂長三二九・五メートル、堤体積五九万立方メートル、貯水量は一億三四万トンという近畿地方最大のダムである。下流に建設された同社十津川第一発電所の最大出力は七万五〇〇〇キロワットで、水主火従時代の緊急用の水力発電としては最後の大発電所であった。十津川水系電源開発事業の一環として計画されたこのダムの建設により、秘境吉野の中央を縦貫する道路が整備され、地域開発に大きく貢献した。
この工事では、ダム主体工事のほか取水口工事、水路橋工事、第一号、第二号導水路工事を施工したが、嶮峻な山間、しかも全国に名高い多雨地帯の工事のこととて多くの困難、障害があったが、当時最大であったブルドーザD―9型をはじめ重機械をフルに使用、工事スピードはきわめて順調で、二三トンのケーブルクレーンが月間打設量の新記録をつくった。また仮設宿舎にはパイプハウスを採用したが、これはわが国における最初の試みで、プレハブ宿舎のはじめともいえよう。
昭和三十四年九月二十五日、ダムコンクリート打設量が二〇万立方メートルに達し、打設速度が上昇しつつある折りから伊勢湾台風が来襲し、これをまともに受けてモータープールの流失など約一億円におよぶ被害をこうむったが復旧と工程の回復に努力、打設開始以来一年を経ずして全工事の九〇%を完成した。この工事は堤高およびダムコンクリートの量において、大林組が施工したダム工事中最大のものであった。したがって工事事務所も糠平ダムの場合に準じ、取締役江口馨が所長となり、大工事事務所制をとったが、昭和三十五年一月、江口が常務取締役に任じたため高久近信が後任となった。請負金は総額二七億八五〇〇万円である。
関西電力読書第二発電所(第三工区) 〈昭和三十三年九月~同三十六年三月〉
関西電力の読書(よみかき)第一発電所は大正十二年(一九二三)、長野県西筑摩郡南木曽町に建設され、最大出力四万キロワット、当時木曽川水系最大の発電所といわれたが、第二発電所は第一発電所の下流、矢立山の山腹の岩盤をえぐって、日本で五番目、木曽川水系最初の全地下式発電所として建設された。第三工区工事は導水路隧道(延長三二九メートル、仕上り断面幅五・五メートル、高さ五・五メートル、馬蹄型)、調圧水槽、水圧鉄管路、地下発電所、放水路、同水槽その他で、これと同時に第一発電所の改装も行なった。垂直に約四二メートルを掘削する地下発電所の構築が全工程のポイントであったが、アーチ部、組立室部、ドラフト部の三段階に分けて作業を進め、作業場はアリの巣のように地下に縦横に掘られた。
この工事も伊勢湾台風の襲来に会い、木曽川の水量は毎秒六〇〇〇トンに増加し、放水口は水没し、労務者宿舎や倉庫も風で吹き飛ばされるなどの被害があったが、工程促進のために正月休みも返上し、コンクリート打設を除夜の鐘がなるまでつづけ、二日には作業を開始したほどである。これによって工期は予定より二カ月短縮され、昭和三十六年(一九六一)四月、最大出力七万キロワットの送電が開始された。この発電所は所内を無人化し、配電盤を外部に設けコントロールする方式である。最初の地下発電所の施工であるためさまざまの試行錯誤もあったが、この経験は昭和三十八年、電源開発株式会社の七色発電所工事に十分に生かされた。請負金総額は五億一五〇〇万円、工事主任は赤野豊である。
天ケ瀬ダム・天ケ瀬発電所 〈ダム 昭和三十五年十二月~同三十九年十月/発電所 昭和三十六年三月~同三十九年六月〉
ダムは建設省近畿地方建設局、発電所および上水道上水池は関西電力の発注により施工した。ダムはドーム型アーチ式コンクリート造で、上辺の幅員四メートル、下辺一四・三メートル、堤高七三メートル、堤頂長は二五四メートル、堤体積は一二万一六〇〇立方メートルである。発電所は最大出力九万二〇〇〇キロワットの半地下式で、水路隧道は延長五三三メートル、径六・四メートル、上水道の導水管(径九〇センチ)の延長は二・七キロであった。
天ケ瀬ダムは宇治市槙島町にあり、大阪、京都、奈良、大津のいずれからでも、一時間ないし一時間半の距離にある。しかもハイキングコースとして近畿有数の観光地であるため、設計のうえでも、また施工に際しても環境をそこなわないことが条件の一つであった。そのため担当した設計スタッフは一日じゅう山にすわりこみ、周囲の風景を観察したといわれる。ドーム型アーチ式という珍しい形式のダム本体のため型枠の測量に苦心があった。原石山の掘削に際しては、日野理論にもとづく大発破工法を採用し、工費、工期の面で大きな成果をあげた。またコンクリートの品質管理を徹底的に行ない、セメント使用量一五〇キロ~二〇〇キロで、一平方センチにつき四〇〇キロ~五〇〇キロという強度のコンクリートをバラツキなしに打設した。請負金はダム、発電所、上水道を合わせ二五億四三〇〇万円、工事主任は有田藤雄である。
音戸大橋 〈昭和三十五年三月~同三十六年九月〉
音戸の瀬戸は平清盛が開いたと伝えられ、広島県呉市と倉橋島音戸町をへだてている。音戸町の人口密度は広島県市部の全平均を越えるといわれ、呉、広島両市の産業人口をささえているが、これまで一日二五〇往復の渡船が唯一の交通路であった。しかし流速一〇キロの水流が両岸に当たって逆流する難所であるため、日本道路公団はここに架橋して陸路を開くこととしたのであるが、工事の完成後は、むしろ観光の方面で有名になった。これは有料橋で、公団は当初三十年で建設費を償却する予定であったが、開通ののち十四年半に短縮されたという。
橋桁は満潮水位より二三・五メートル上に架橋され、一〇〇〇トン級の汽船が通行可能となっている。延長は一七二メートルで、主径間は一一六メートル、呉側径間二〇メートル、音戸側径間は三六メートルである。この橋の特色は倉橋島側の取付道路を螺旋形のアプローチ高架橋とし、地上から二回り半で橋上に出るようにしたことである。このカーブはその後流行したクロソイド曲線であるが、当時はまだ単位クロソイド表もなく、施工に当たっては公式により、いちいち計算しなければならなかった。このときの入札は、当時としては珍しい競争設計見積りで、請負金は八四六七万円、工事主任は大川筆助である。
阪奈道路
日本における高速自動車道路は、戦前内務省土木局が計画し、調査に着手していたが、第二次大戦によって中断された。戦後、ことに経済成長期にいたってこの案が復活し、日本道路公団は昭和三十二年度から名神高速道路建設に着手した。以後、東名高速、中央縦貫等多くの幹線計画が進められたが、一方、首都高速、阪神高速などの地域的な高速道路も建設された。阪奈道路もその一つで、大阪、奈良をむすぶ延長一八・四キロの有料自動車専用道路として日本道路公団によって建設され、昭和三十一年七月起工、同三十四年六月開通した。
大林組が担当した第二、第三工区は、このうち生駒山の西側山腹約五・四キロの部分で、急坂にヘアピン状の道路を築造することであった。ここは地形の関係上、全線にわたって民家があることから、発破の使用が困難であるため、強力な大型工事機械を使用した。キャタピラD―9やタイヤドーザ等が輸入されたのはこのときで、小松製D―120の試作機も用いられた。道路工事において重機類を大規模に駆使した最初であるが、土質が生駒山特有のマサ土であるため、きわめて効果的であった。しかし、転石が多いことと長雨に悩まされた。請負金は三億円、工事主任は有田藤雄である。
なおこの工事と並行して、近畿日本鉄道の発注により、阪奈道路から分岐する生駒山ドライブウエイ四・五キロのうち、二・三キロの施工をも行なった。またこのころから各地に観光道路建設が進み、生駒山ドライブウエイとほぼ同時期に、福島県の磐梯吾妻道路(スカイライン)二九キロのうち、浄土平から土湯峠にいたる一一キロを施工、つづいて昭和三十六年六月から翌三十七年十一月まで、蔵王エコーライン建設に従事した。これは山形県上の山(かみのやま)から宮城県遠刈田(とおがった)まで蔵王山を縦走する道路で、延長二六キロのうち第三工区九・七キロを施工した。ともに日本道路公団発注による有料自動車道路である。民間事業で行なわれた同種工事には、芦有開発会社の芦有自動車道路がある。これは兵庫県芦屋市から有馬温泉にいたる一〇・七キロの山岳道路であるが、六甲山を横断貫通することによって、いちじるしく距離を短縮した。大林組の担当はループ隧道一七五メートルを含む延長二・一五キロの工区で、昭和三十五年(一九六〇)二月着工、翌三十六年八月竣工した。
名神高速道路
名神高速道路工事は、第一期尼崎~栗東七一・二キロ、第二期西宮~尼崎七キロおよび栗東~一宮一〇三キロ、第三期小牧~一宮八・三キロの三期、四区間に分けて行なわれた。昭和三十三年(一九五八)十月、山科工事の起工式を先頭に各工区とも続々と着工、同三十八年七月、まず尼崎、栗東間が開通し、同四十年七月、全線が完成した。このうち大林組が担当したのは、第一期の京都市の伏見工区(昭和三十五年八月~同三十七年十二月)、第二期の岐阜県大垣工区(昭和三十六年十一月~同三十九年七月)、同米原、関ケ原工区(昭和三十八年三月~同三十九年九月)、西宮市の今津工区(昭和三十八年五月~同三十九年九月)の四工区であった。
尼崎~栗東間で難工事といわれたのは天王山トンネルであったが、大林組が担当した深草、下鳥羽間の京都南インターチェンジ(ダブルトランペット型)、京都バスストップ、竹田高架一キロを含む延長二・三キロの工事も、それに劣らぬ困難な工区であった。この工区の盛土量は七五万立方メートルという大量であったが、工事現場と指定土取場とは二二キロの距離があり、この長い区間を往来するダンプトラックの交通が沿線地元住民からダンプ公害として反対され、ついには深草地区の住民がダンプの前にすわりこむ事態となり、京都市長が上京して公団総裁に申入れを行なうところまで発展した。この問題は、ダンプの速度や積載量の制限、路面の補修による震動防止、歩道桟橋設置、交通信号増設、自主的交通整理など、可能なかぎりの手段を用いてようやく解決したが、工事そのものより公害対策に苦心した工事であった。請負金は一〇億九九〇〇万円、工事主任は平田昌三である。
大垣工事はブルドーザー工事会社(現・青木建設)と共同企業体で受注し、延長八・八キロ、盛土量は一八〇万立方メートルにおよび、栗東、一宮間における最大の工事であった。総請負金は二八億円、大林組は一四億三二〇〇万円で、大垣インターチェンジを含む延長四・二キロを担当したが、別に工事専用道路(請負金一億五五〇〇万円)をも施工した。この地帯は木曽川、長良川、揖斐川の流域で、輪中(わじゅう)とよばれる軟弱地盤であったため、圧密沈下に対してはサンドコンパクション パイル、サンドマット工法を採用、慎重な施工を行なった。また、大、小八カ所ある橋梁の基礎にはベノト アースドリルで延一万一〇〇〇メートル以上の場所打杭を施工した。工事主任は伏見工事と同様、平田昌三である。
これにつづいて行なわれた米原、関ケ原工事は、滋賀県米原町番場から岐阜県養老町橋爪にいたる延長二四キロ、幅員二四・四メートルの道路舗装である。大林組と東洋鋪装(現・大林道路)が日本舗道と共同企業体を組み、総請負金一六億円で受注して施工に当たったが、高度の仕上り精度を要求されたため、アメリカからバーバー・グリーン社の一〇〇トン・アスファルトプラントやフィニッシャーを輸入し、機械化施工のモデルケースともいえる作業を実施した。このとき獲得した技術は、つづいて行なわれた大垣、安八間舗装工事(昭和三十八年十月~同三十九年九月)においても遺憾なく発揮された。工事主任は斎藤鼎である。
東京都小台下水処理場 〈昭和三十三年七月~同三十九年十一月〉
東京都の下水処理場は、それまで芝浦、三河島、砂町の三施設であったが、北区、板橋区、豊島区方面の下水道が整備するにつれて新鋭処理場が必要となり、荒川左岸の足立区宮城町に新設されたのがこの小台処理場である。処理施設のほか鉄筋コンクリート造の本館、鉄骨鉄筋コンクリート造の機械棟など土木、建築全工事を施工した。
このころから型枠にメタルフォームの使用が普及して、砂町処理場増設工事などで他社が採用している例があり、これを用いる案もあった。しかしこの処理場の場合には、躯体の関係で丸形、面形等の異形型枠を大量に要するので特製の木製型枠を用いた。バタ材にはC型ライトゲージを、型枠材には杉二五ミリ材を手鉋仕上げのうえ乾燥したものを使用したが、同業他社がこぞって見学にきたほど入念なものであった。
本館、消化槽の基礎には、径四〇〇ミリ、長さ一〇メートルの既成コンクリート杭を二本継ぎとして打込んだが、当時の技術経験では、打込時の地盤盛上りに対し上杭の浮上がりを防ぐ対策が解決されていなかった。そこでサヤ管を用いて試験を重ね、またボルト締め継手を開発するなどしてこの防止に成功した。請負金は土木工事のみで一六億円を越えたが、鉄筋およびセメントは支給材であった。工事主任は宮崎良一、のちに岩田初森である。
愛知用水 〈昭和三十五年一月~同三十七年三月〉
愛知用水公団が、木曽川の水資源を最高度に利用するわが国最大の総合国土開発事業として計画したもので、日本のTVAと称された。これによって、愛知、岐阜両県下三方三〇〇〇ヘクタールの農地をうるおし、年間一億五〇〇〇万トンの工業用水と、地域住民三四万人に上水道用水が供給されるようになった。総事業費は約四〇〇億円、このうち三六億円を世界銀行借款によったため、アメリカ人技師数名が来日して設計に参加した。
幹線水路は延長一一二キロ、支線水路の総延長は一一三五キロという壮大な規模で、大林組が担当したのは愛知県愛知郡日新町地内の第九工区と、同郡東郷村、鳴海町、豊明町地内の第十工区上流部である。第九工区は、中根原第一、第二開水路、岩藤トンネルその他延長五・七キロ余、第十工区上流部は、東鳴、諸ノ木、鳴豊、東郷各開水路、勅使、諸ノ木各サイフォン、白土暗渠その他で延長七・五キロであった。
公団技術者のほかアメリカ人の設計者も工事監督者として参加したため、施工方式もアメリカ式が要求された。ときはあたかも機械化時代を迎え、この工事に重機類が大量に投入されたことは記録に値する。工事主任は第九工区が野坂博、第十工区が片山晃である。 これにつづいて昭和三十八年(一九六三)一月、同公団の発注により豊川用水東部幹線水路の岩二トンネルその他工事も行なった。この工事主任は北条秀一で、三工事の請負金合計は一七億七〇〇〇万円を越えた。
八郎潟中央干拓 〈昭和三十四年六月~同三十七年九月〉
秋田市の北二〇キロにある八郎潟は、琵琶湖に次ぐわが国第二の大湖であるが、農林省は食料増産計画にもとづき、これを干拓して大農経営のモデル地区を造成した。干拓事業として空前の規模をもつものである。
大林組は中央干拓部の排水を行なう南部排水機場の施工を受注したが、敷地が潟内に造成された築島で、掘削最深部は水面下一三メートルにも達するため、ウエルポイント工法を採用し、湧水排除に成果をおさめた。ヘッダーパイプは径六インチ、総延長は一〇四二メートルにおよび、これはわが国最大の規模であった。請負金は二億九六〇〇万円工事主任は鹿目正一郎である。
このころ施工した地域開発事業に、北海道開発庁発注の石狩郡篠津地区中小屋幹線用水、川崎製鉄発注の印幡沼工業用水および臼井取水場工事などがあるが、広島県発注の太田川東部工業用水は特に大工事で、広島市を流れる太田川の上流で取水した水を工業地帯へ送り、さらに江田島に飲料として送水する計画で、総延長は三二・二キロに達した。大林組が受けもったのは延長四・六キロ余の第二工区で、水路隧道の断面積は六・六~八・九平方メートル、掘削は三万三〇〇〇立方メートルであった。昭和三十八年(一九六三)一月着工、同四十四年八月に竣工したが、請負金は六億六一五八万円、工事主任は鳥越弘、のちに陽山秀昭が引きついだ。
国鉄北陸本線今庄隧道 〈昭和三十二年九月~同三十五年三月〉
このころ、表日本の鉄道輸送量は限界に達し、北陸、青森をむすぶ裏日本ルートを強化する必要にせまられた。そのときネックとなったのが、敦賀、今庄の区間で、ここに北陸隧道と今庄隧道を貫通させ、複線電化によって距離の短縮をはかることになった。
大林組が施工したのは、福井県今庄町の今庄隧道(八五五メートル)を含む第五工区、延長二二一五メートルの新線建設である。隧道断面は六〇・六~六八・六平方メートルで、戦後手がけた最初の大断面隧道工事であった。このときはじめて坑内換気にローカルファンを用い、またコンクリート巻立てにプレーサーを試用した。請負金は約三億円、工事主任は平田昌三である。
近鉄新生駒隧道(西口) 〈昭和三十七年七月~同三十九年六月〉
大正初年、大軌奈良線の生駒山隧道工事に当たったことは第一編でのべた。その後大軌は近鉄となり、沿線が開発されるにつれいよいよ発展したが、昭和三十年代後半を迎えて通勤、観光客の増加により輸送量は限界を越えるにいたった。近鉄では車輌の大型化を計画されたが、そのためには生駒隧道の内空断面が狭隘にすぎるので、新隧道の建設に着手することとなった。新隧道は内空断面四七・七平方メートル、最大幅員八・二メートル、最大高は六・七五メートルで、旧隧道の南方五五メートルの位置に旧隧道とほぼ並行してつくられた。
工事は東口と西口に分けられ、東口工事は鹿島建設、西口工事は大林組が受注した。大林組の担当は隧道西半を建設すると同時に、隧道西側入口の孔舎衛坂(くさえざか)駅を撤去し、鷲尾隧道をオープン開削して、ここに石切駅を移動新設すること、線路勾配を大幅緩和することなどの工事であった。
隧道工事は総延長三四九四メートルのうち、西側一七五三・五メートルで、この掘削量は一〇万八八〇六立方メートル、覆工コンクリートは二万一一五六立方メートル(巻厚四五~七五センチ)、モルタル注入量は三五〇四立方メートルにおよんだ。
新隧道の掘削位置には、坑口から二〇〇メートルの間と、一五〇メートル付近から貫通点までの間に風化帯あるいは断層破砕帯があると考えられたので、工事の安全確実を期するため底設導坑先進工法を採用したが、坑口から八一五メートル付近で上半部に破砕帯があり、湧水も相当多く、二〇〇×二〇〇H型支保工が変形しはじめるという難工事であった。工事主任は足立力、請負金は九億四六五万円で、H型支保工一五七五基、セメント約七九〇〇トンを支給された。
行きづまる路面交通―地下鉄、地下街の建設
人口の都市集中、マイカー時代の開幕による路面交通の渋滞など、都市交通事情の激変によって、このころから地下鉄は都市交通の前面に躍り出て大きな役割を占めるようになった。当時、大林組が東京で行なった地下鉄工事には、営団地下鉄丸ノ内線東京工区、同数寄屋橋工区、同四谷第三工区、同方南町線方南町工区、同五号線飯田町第二工区、都営地下鉄の業平橋工区、江戸橋第二工区等があり、大阪では四ツ橋線の第八工区西梅田~堂島北町間および西梅田駅建設工事がある。また私鉄関係では、阪急京都線の京都市内延長に当たり、地下第三、第四工区工事と河原町駅、京阪電鉄の大阪淀屋橋乗入れ地下延長線第一工区を施工した。このうち代表的なものとして、東京では業平橋と飯田町の二工事、大阪では四ツ橋線第八工区工事についてのべる。
東京都営地下鉄業平橋工区 〈昭和三十三年十二月~同三十五年十一月〉
業平橋工区は、京成電鉄との相互乗入れを目的とした押上~馬込線(一七・三キロ)の第一期、押上~浅草橋(三・四キロ)の一部で、押上駅と吾妻橋駅をむすぶ五五七メートルの区間である。この工区はゼロメートル地帯とよばれる墨田区内にあって、このあたり一帯の地盤は年間一〇センチ以上沈下するシルト層であり、しかも一九〇メートルの河川横断部を含むため全区間中最大の難工事といわれた。
土留鋼矢板打ちの開削工法で工事を進めたが、予想を越えた土圧のため、当初の三六センチ角の木製支保工を使用する計画を変更し、当時としては珍しい三〇センチのI型鋼合成支保工に代え、さらに各所に土圧計、カルソメーターを設置するなどして慎重に工事を進め、無事故、無災害の記録を達成して労働大臣進歩賞を受けた。請負金は四億三七五万円、工事主任は佐藤信三である。
東京地下鉄五号線飯田町第二工区 〈昭和三十七年十月~同三十九年十一月〉
帝都高速度交通営団の地下鉄五号線飯田町第二工区延長三七七メートルの建設であるが、工事の重点は飯田橋の仮受工と国鉄飯田橋架道下工事で、最も苦心を要したのは排水の問題であった。まず飯田橋の上下流に、鋼矢板を二重に打ちこみ、中埋めに粘土質土砂を入れて締切り、六インチの水中ポンプ六台で排水しながら橋梁下の泥土を撤去した。ここに橋の受杭と地下鉄の側杭を打ち、この受杭にアバットのコンクリートを間抜きしながら受桁を挿入して仮受けを行ない、全部入れ終わったのちに夜間交通を規制し、一気にジャッキアップした。外濠川の排水には、一・五×一・八メートルの鉄樋一連を常時使用したが、出水時にそなえて一・八×二・五メートル一連をも常備した。また豪雨時には神田川の水が急激に増加し、外濠川に逆流してくるため、この鉄樋の先端にゲートを設置してせき止めた。
国鉄飯田橋の架道橋は、中央線、総武線、貨物線が各複線で走行し、ピーアは鋼製の柱によって車道幅員一六メートルの外側でささえられていたが、各柱とも独立し、基礎杭も地下鉄底より浅く、距離も短かった。そこでこの架橋下工事には潜函工法を採用し、橋下に五枚継ぎ鋼矢板を打ちこみ、アバットピーア間に地盤改良薬注を行なった。内側車道は路面覆工して桁下七メートルまで掘り下げ、路下潜函二七×一一メートル、高さ八・五メートルを三段に打ちついで沈下させた。この工区は富士見町の高台から神田川にかけて勾配となり、地下水もこれにしたがって流れていたものが、工事によって流れを中断されたために地盤沈下をおこし、その処置をしなければならなかった。また豪雨時には奔流となり、一二〇〇ミリ下水管が圧力下水と変じて工事が難行したこともある。工事主任は佐藤泰一、請負金は六億三四〇〇万円で、鋼材、鉄筋および生コンクリートは支給された。
大阪地下鉄四ツ橋線西梅田停留場 〈昭和三十八年十月~同四十年九月〉
交通量の増大にともない、市電、トロリーバス廃止の方針をとるにいたった大阪市は、五カ年計画で地下鉄の緊急整備に着手した。四ツ橋線(三号線)はその最初で、この第八工区工事は始発駅西梅田の建設と、これにつづく既設の阪神電鉄地下街との連絡、西梅田から堂島北町にいたる二一〇・七メートルの線路工事であった。
施工に当たって最も神経を使ったのは、このあたりが市内有数の交通量をもつ幹線道路であるために第三者傷害のおそれがあることと、沿道の建物におよぼす影響であった。ことに堂島北町にある毎日新聞社の輪転機基礎や大阪ボウリングセンターのレーンなどは一ミリの傾斜やひずみを生じても事業に差支える。したがって必要地点はあらかじめ記録写真に撮影し、傾斜計や沈下測定機をおき、掘削の進行にともない架設する山留支保工等にも応力測定装置をほどこして、常に地盤の動態観測を行なった。これらの測定は本店研究室の指導と協力を得て行なったが、その成果には大きなものがあった。
また、大阪市の発展にともない時代を追って次々と埋設された上水道、下水道、送電地下線、ガス管、電話ケーブルなどの処理も大問題であった。これらは、この機会を利用し一括更新することとなり、各施設担当者で合同研究を行なったが、各部門それぞれの手順があるため、工程作成は難行した。この処理に四カ月余を要し、その間の現場保全には、地盤が軟弱であることなどから、現場担当者には表には出せない大きな苦心があった。請負金は八億八四〇〇万円、工事主任は大北五郎である。
なお、この工事と並行して、昭和三十九年(一九六四)九月から堂島地下街株式会社の発注によるドージマ地下街の建設を行ない、同四十一年七月竣工した。この地下街は四ツ橋線の地下鉄の上を西梅田から渡辺橋にいたるもので、梅田地下街に連絡している。
難波地下街、梅田地下街 〈(難波)昭和三十一年十月~同三十二年十二月/(梅田)昭和三十六年二月~同三十八年十一月〉
地下に商店街を設け、立体的に土地の繁栄をはかるとともに、地上の交通緩和に資するのは日本独特の都市計画といわれるが、その先駆をなしたのは難波地下街であった。
大阪ミナミの繁華街、難波の中心にある南海ビル(昭和七年、大林組施工)は、髙島屋百貨店と南海電鉄の始発駅を収容し、地下鉄と連絡すると同時に幹線道路御堂筋の終点に面している。そのため、自動車の増加とともに南海ビル前の交通の混雑ははなはだしく、大阪市がその対策を兼ね、市街地再開発の手段として計画したのが地下街建設であった。これは髙島屋と、通りをへだてた南街会館の地階と地下鉄をむすぶ通路と、約五〇の店舗を含む延五一一〇平方メートルの地下街工事で、大林組は土木、建築、設備の全部を施工した。請負金総額は四億四〇〇万円、工事主任は戸田博であった。
ミナミの難波に対し、キタの梅田は大阪の中心でもあり、ことに大阪駅東口一帯は国鉄大阪駅と地下鉄梅田駅、阪急、阪神両電鉄ターミナルの乗降客が密集する。ここの一日の交通量は、当時でも歩行者七〇万人、自動車一六万台といわれ、地上通行は限界に達していた。この混雑を打開するため、大阪市は難波の例にならい、地下通路と地下街を建設したが、この地下街の規模は、総面積一万八〇〇〇平方メートル、店舗数は一八六、通路は幅員六メートルないし一三メートルで延長約六〇〇メートル、国鉄、阪急、阪神両電鉄および地下鉄御堂筋、四ツ橋、谷町各線の駅と連絡する。また地上道路との連絡口は十七カ所あり、規模、設備において、完成当時(三十八年十一月)は世界一の地下街と称された。この工事も、地下鉄四ツ橋線第八工区の場合と同様、交通の混雑と埋設物処理に苦心した。ことに上水道二系統は管の口径一〇〇〇ミリ、ガス管も幹線で、すべての地下埋設物延長は六キロに達して、これらの懸吊や養生は容易ならぬものがあった。地盤も軟弱な梅田シルト層で、土砂の搬出に当たってこぼれるので、水分の多いときはコンテナを用いて運搬した。路面覆工には八幡エコンスチール製鋼製覆工板を使用したが、これは日本における最初の試みで、下水管とマンホールも、鋼管、スパイラル鋼管、鋼製マンホール等に改めた。また、地下二階の一部の施工には路下オープンケーソン工法を採用した。請負金は三〇億四六〇〇万円、工事主任は戸田博である。なお、この地下街は昭和四十三年(一九六八)六月から地下道および店舗の拡張を行ない、同四十五年三月竣工した。
戸塚ゴルフ場 〈昭和三十五年六月~同三十八年三月〉
戸塚ゴルフ場は横浜市旭区にあり、自動車で横浜バイパスから二分、横浜駅から一五分、東京五反田からでも四〇分で達する至近距離にある。川上(現・東)コース、一八ホール、六四九三ヤード、名瀬(現・西)コース、一八ホール、七〇四一ヤードの二コースと、クラブハウスの新設が計画され、大林組はクラブの設立発起人でもあるため、共同責任者の立場で施工に当たった。コース設計は、名瀬コースは井上誠一氏が、川上コースは大林組東京支店設計部間野貞吉次長が一任された。
クラブハウスは両コースのかなめの位置にあり、鉄筋コンクリート造二階建、一部三階(展望テラス)、地下一階、延面積四八五八平方メートル、設計は丹下健三氏である。軒先を空に向け、円弧状を描く大屋根と、これをささえる三対の柱は異彩をはなち、国際的にも注目を集めた。この屋根は、桁行七〇メートル、梁間三〇メートルの逆シャーレ式構造である。川上コースとクラブハウスがまず昭和三十七年(一九六二)完成し、仮オープンの上、名瀬コースの完成した翌三十八年から本開場した。請負金は一二億八二〇〇万円、工事主任は一柳健二郎である。
このころ、ゴルフ人口の増加にともない各地にゴルフ場が続々と建設された。大林組も戸塚のほか、以下のごとく多数のゴルフ場の新設、増設工事を行なった。
大阪府茨木ゴルフ場(昭和三十三年十一月~同三十五年十一月)、山口県下関ゴルフ場(昭和三十四年四月~同三十五年一月)、愛知県豊川ゴルフ場(昭和三十四年九月~同三十六年九月)、埼玉県熊谷ゴルフ場(昭和三十五年十二月~同三十六年九月)、岡山県倉敷ゴルフ場(昭和三十七年七月~同三十八年十月)、長崎国際ゴルフクラブ諫早コース(昭和三十八年九月~同三十九年九月)、兵庫県宝塚高原ゴルフ場(昭和三十八年十二月~同三十九年八月)、兵庫県泉(現・山陽)ゴルフ場(昭和三十九年十二月~同四十年九月)、大阪府池田ゴルフ場九ホール増設(昭和四十年二月~同四十一年四月)、旭国際ゴルフ場(昭和四十年十月~同四十一年十二月)、山口県朝陽ゴルフ場(昭和四十年十月~同四十二年九月)、宮崎県美々津ゴルフ場(昭和四十年十二月~同四十一年十一月)、和歌山県白浜ビーチゴルフ場(昭和四十一年十一月~同四十二年十月)、島根県玉造温泉ゴルフ場(昭和四十三年七月~同四十四年九月)