大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第六章 太平洋戦争

第二節 義雄の死去と芳郎の社長就任

幅広い公的活動で業界に貢献

昭和十八年十月五日午後二時三十五分、社長大林義雄が心筋梗塞のため死去した。かねて兵庫県御影の自邸で療養中だったもので、享年四十九、役員以下従業員に与えた打撃は深刻であった。ときはあたかも戦局日に日に悪化し、ソロモン群島のわが軍は米軍の物量作戦に圧倒され、全面的撤退を余儀なくされていたころである。

義雄は社業につくしたのみならず、さきにのべたように日本土木建築請負業者連合会長として、労働者災害扶助法制定などに奔走し、また大阪土木建築業組合長、土木業協会理事、建築業協会常務理事として業界に貢献した。これらの功によって、昭和三年(一九二八)十月、紺綬褒章を受章したが、民間人を遇することの薄かった当時としては希にみることであった。このほか大阪府失業防止委員会委員、大阪市職業紹介委員会委員を委嘱され、また大正十三年、昭和八年、同十二年の三回、大阪商工会議所議員にえらばれた。彼の死が、業界のみならず各方面から惜しまれたのは、こうした幅広い公的活動によるものであった。

社長としての彼は、たえず社内各部を巡視し、社員と直接接触することにつとめ、彼らをはげますとともに、その動静につうじていた。趣味も広く、書を学び彫刻をよくしたが、乗馬は特に熱心で、関西学生乗馬連盟の後継者として知られた。

社葬は十月八日午後二時、四天王寺本坊において時節がら質素に行なわれ、専務取締役中村寅之助が本社と関係会社を代表して以下の弔辞をささげた。

吾等ノ敬慕措カザリシ社長大林義雄殿曩ニ病ヲ得、只管療養ニ努メラレ一時ノ如キハ病勢著シク衰ヘ御快癒ノ日近キヲ思ハシメタルニ去ル七月以来病勢次第ニ昂進シ五日病遽ニ革リ遂ニ午後二時三十五分卒然トシテ長逝セラル

今其ノ葬儀ニ列ルモ慈愛溢ルル温容眼前ニ彷彿シ幽明境ヲ異ニスルノ感ナキニ再ビ声呟ニ接スルヲ得ズ、嗚呼悲シイ哉

社長ハ明治二十七年九月先代社長大林芳五郎殿ノ長男トシテ大阪ニ生ル、長ズルニ及ンデ暁星中学校ヲ経テ早稲田大学ニ学ブ、大正五年一月先代社長歿セラルルヤ其ノ業ヲ継ギ、同七年十二月大林組社長ニ就任セラル、爾来二十有六年常ニ溢ルルガ如キ温容ヲ以テ吾等ニ接シ天成ノ統率力ヲ以テ吾等ヲ率ヰ大綱ヲ把ツテ嚮フトコロヲ示シ楽ンデ業務ニ精進セシメラレ社内一家ノ実自ラ挙ガル是レ大林組ノ今日在ル所以ナリ

而シテ其ノ間内外木材工業株式会社、株式会社大林農場、(注一)三宝鉱業株式会社、(注二)株式会社大林精器工業所、株式会社満洲大林組、大林木材工業株式会社ヲ創設シテ之ヲ統裁シ、日ヲ逐ウテ社礎固ク業績挙ガル、是レ亦社長ニ負フトコロナリ

斯クノ如ク社長ノ統裁セラレタル事業ハ戦力増強ニ関スル施設工事ノ完遂、主要食糧ノ増産、地下資源ノ開発、精密機器ノ製作等是レ悉ク刻下喫緊ノモノタリ、従ッテ之ガ振否ハ実ニ聖戦必勝ニ至大ノ関係ヲ有シ瞬時モ忽セニスルヲ許サズ愈万難ヲ排シテ之ガ振興ニ努ムベイ秋ニ当リ社長ノ急逝ニ遭フ、痛惜哀悼何ゾ堪ヘン、然レドモ社長ノ遺風ハ炳トシテ泯ビズ

其ノ遺業ハ戦局ノ進展ニ伴ヒテ愈其ノ重要性ヲ加フ吾等ハ茲ニ深ク思ヲ致シ悲痛ノ中ヨリ決然トシテ起チ、協心戮力、各其ノ職域ニ挺身シ以テ戦力増強ニ資シ延イテ社長ノ遺訓ニ応ヘ奉ランコトヲ誓フ

冀クハ在天の英霊吾等ノ決意ヲ照覧セラレ永ヘニ吾等ニ加護アランコトヲ、茲ニ謹ミテ敬慕哀悼ノ誠ヲ捧グ

昭和十八年十月八日
株式会社 大林組
株式会社 満洲大林組
内外木材工業株式会社
大林木材工業株式会社
株式会社 大林農場
三宝鉱業株式会社
株式会社 大林精器工業所
右代表 中村寅之助

取締役会長制を設く―会長白杉嘉明三、社長大林芳郎

義雄の死去にともない、養嗣子芳郎が大林家を相続し、昭和十八年十一月、大林組社長に就任した。義雄と夫人(注三)尚子との間には一女千枝子があったが、早世したために副社長賢四郎の二男芳郎を嗣子に迎えていた。賢四郎夫人ふさは芳五郎の長女で、芳郎は芳五郎の外孫に当たる。芳郎は昭和十六年三月、東京帝国大学工学部建築科を卒業、翌四月、大林組に入社して本店設計部に配属された。同十七年九月からは、海軍の呉臨営第二〇一号工事現場に勤務中であったが、同年十二月、臨時召集により中部第二十四部隊(和歌山連隊)に入営、社長就任はこの応召中のことであった。

社長不在のため取締役会長制を設け、白杉嘉明三が相談役から復帰してこれに当たり、専務取締役中村寅之助が副社長となった。芳郎は社長就任に際し、次の挨拶文を社内に発表した。

予今先考ノ後ヲ承ケテ大林組社長ニ就任ス、然リト雖モ目下軍務奉公中ニシテ親シク社務ヲ見ルコトヲ得ズ、就テハ重役一同ハ申スニ及バズ全員一致団結、当組伝統ノ精神ヲ発揮シテ職域奉公ニ邁進シ、以テ決戦下当組ノ負荷スル建設ノ重任ヲ完ウセラレンコトヲ望ム

予他日幸ニシテ軍務ヲ了ヘ帰還セバ諸君ト共ニ社業ニ邁進シ之ニ一段ノ光輝ヲ添ヘンコトヲ期ス、其ノ間予ハ只管軍務ニ精励スベキヲ以テ諸君ハ呉々モ和衷協同各其ノ職務ニ挺身セラレンコトヲ望ム

注一・三宝鉱業は大正時代大林家が経営した兵庫県養父郡糸井鉱山、愛媛県西宇和郡大森鉱山などをもとに、朝鮮京畿道の三宝鉱山を開発、その後、同忠清南道の立宝鉱山、黄海道の読亭鉱山、平安南道の价川砂金鉱を合わせ、株式会社として発足した。三宝鉱山は金山で、昭和十四年(一九三九)五月には自家製煉所を設け、従業員六〇〇名を擁したが、終戦とともに消滅した。

注二・大森精器工業は大正二年(一九一三)二月、大阪市港区南境川町の大林組製材工場に、ブランチャード・ランプ製作所として発足した。石油を白熱ガス化して高度の光力を発するランプを製作していたが、大正六年、第一次大戦中の好況に乗じ業務を拡張、プランチャード製作所と改称して、機械器具、メーターなどの製造に従事した。昭和十四年四月、大林精器工業所として独立、大阪市東淀川区瑞光通六丁目に工場を新設し、時局産業として大いに発展した。終戦後は大林組の資本系列を離れたが、なお大林計器製造株式会社と称し、機器製作を行なっている。

注三・尚子夫人は子爵上原勇作元帥の二女である。同元帥は第二次西園寺内閣の陸相、さらに教育総監、参謀総長と陸軍三長官を歴任し、大正時代から昭和初期にかけて薩派陸軍の大御所とよばれた。明治四十三年、第七師団長時代、大演習のため夙川の大林別邸を宿舎として以来芳五郎と親交を結び、大正二年、第三師団長として赴任の途中、大阪で発病したときも療養のため同邸で一年余を送った。これらのことで両家が結ばれたものである。

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