第四節 業界の死活を双肩に―義雄社長の活動
「国営業務災害保険」キャンペーンを推進
社長大林義雄が大正八年(一九一九)、日本土木建築請負業者連合会(全国建設業協会の前身)副会長となったことはすでにのべたが、同十四年(一九二五)十一月、さらに推されて同連合会会長に就任した。不況時で問題の多いときであったが、その在任中におこった労働者災害扶助法問題は、特に業界にとって重要であり、またわが国労働行政上、画期的というべきものであった。
当時労働者の業務上災害については、鉱山労働者のために鉱業法、工業労働者には工場法が施行され、それぞれ救済措置が講じられていた。ところが建設、鉄道関係の労務者、土石採取者、港湾労働者たちはこれらの法の適用を除外され、保護を受けることがなかった。そこで政府は、昭和二年(一九二七)十一月、「労働者災害扶助法案」を作成し、その要綱を同連合会をはじめ関係団体に諮問した。
連合会は、建設労働者保護の趣旨については全面的に賛意を表したが、法案要綱にあげられた実施方法には異議をとなえた。それは労働者の業務上災害を、元請業者の責任において補償することとなっていたからである。反対の理由は、責任回避の意味でなく、労務者を使役するのは下請業者であり、元請業者に把握しがたいという業界慣行の実態と、重大災害に対しては、業者に補償能力がないことが主たるものであった。
そこで連合会は、法案の議会提出延期をもとめたが、政府は第五十四議会に原案のまま提案した。このとき議会は解散され、法案は成立しなかったが、次期議会への再提出は必至であったから、業界もこれにそなえなければならなかった。連合会は単に反対するのみでなく、独自の代案を作成し、これに対抗しようとしたのが「国営業務災害保険法案」である。これは保険方式によって多数の事業主が補償を分担し、立法の精神を達成しようとしたもので、わが国にはまだ例のない、きわめて進歩的な構想であった。
連合会会長である義雄社長は、他の業者団体の同意を得て、昭和三年四月、この成案をたずさえ、望月内相その他関係当局を歴訪、陳情した。しかし政府はこの民間案に対し、依然として原案の議会提出を固執した。そこで同年九月、大阪において連合会と大阪土木建築組合、建築業協会が合同会議を開き対策を協議した。次いで十月二十日、連合会総会が神戸で開催され、このとき義雄社長は連合会会長の任を鹿島精一氏に譲り顧問となったが、十一月の即位御大典に、閣僚その他政界有力者が京都に集まるのを機として、地元にあってこの運動を推進した。
このときの彼の活躍には目ざましいものがあり、朝日、毎日両新聞に業界案支持の社説をかかげさせることに成功し、京都に集った両院議員にもはたらきかけて、世論喚起につとめた。さらに翌四年一月、政府が原案のまま第五十六議会に法案を提出したときは、芝協調会館で開かれた全国同業者臨時大会に出席して熱弁をふるった。「国営災害保険制度について、政府当局の反対を駁す」と題し、政府が面目にのみとらわれ、薄弱な根拠によって反対することを鋭く批判した。
この法案は小修正のうえ衆議院を通過したが、業界の猛運動が功を奏し、貴族院は調査不十分を理由に審議未了とした。やがて同年七月、田中内閣が倒れ浜口内閣に代わった。義雄社長は同年九月、推されて大阪土木建築業組合(大阪建築業協会の前身)組合長に就任すると、さらにこの運動の関西における中心となり、しばしば上京して陳情に加わった。新内閣は業界の要望をいれ、社会局に保険案の検討を命じた結果、労働者災害扶助法、同責任保険法の二本立てとすることとなった。
この法案は第五十九議会に提出され、昭和六年三月成立して、翌七年一月から施行された。元来、運輸、交通関係などの労働者をも含むものであるが、施行令によって強制加入を土木建築業に限ったため、実質的には土木建築労働者災害扶助保険法となった。昭和二十二年(一九四七)労働者災害補償保険法が実施され、全産業の労働者がその恩恵を受けるようになったが、その原型はここに生まれた。
直営工事廃止と建設労働者失業防止運動
義雄社長が大阪土木建築業組合に組合長として在任したのは、昭和四年(一九二九)九月から同十年(一九三五)八月までであるが、その前半は昭和恐慌後のはなはだしい不況時代であった。大林組も前節にのべたように、経費節減や合理化につとめ、船舶内装の分野にまで手をのばし、危機突破に努力しつつも、なお減配を重ねざるを得なかった。この苦境にありながら、彼は組合長として大阪業界のため、全国業界のために献身したのであるが、その一つに公共事業体による直営工事の廃止運動があった。
浜口内閣が、失業対策とし土木工事をとり上げたことは前にのべたが、その多くは政府あるいは地方自治体の直営によって行なわれた。さなきだに不況にあえぐ建設業界は、これによってさらに圧迫を受けたため、直営工事廃止運動の成否は業界の死活にかかわる問題であった。当時政府に提出した陳情書によると、昭和二年(一九二七)上半期の工事請負高指数を一〇〇とすると、昭和五年(一九三〇)上半期は五二となっている。直営工事の強行は建設技能労働者の失業問題につながり、これは政府みずから自己の政策を裏切るものでもあった。
義雄社長は組合長就任とともに、この問題に直面した。当時大阪の失業者数は六大都市中最高といわれ、市の直営する工事は道路の築造や修理、下水道や排水路の構築、小公園建設など多方面にわたった。地下鉄工事は民間請負であったが、未熟練労働者を職業紹介所が強制的に割当て、就労しない人夫代まで支払わされるなどのこともあり、これらの問題にも対処せねばならなかった。
日本土木建築請負業者連合会は昭和四年(一九二九)十一月、直営工事廃止と建設労働者失業防止運動に立ちあがり、翌五年六月二十五日、東京日比谷公会堂で全国業者大会を開催した。このとき義雄社長は、大阪土木建築業組合の組合長として錢高久吉副組合長ら諸役員とともに出席し、みずから演壇に立ち、また、実行委員として政府首脳や政界有力者を歴訪して陳情につとめた。この運動はさらに継続され、昭和六年八月には、失業登録人夫の使用を工事従事者総数の二分の一以下とする具体的要求として当局に提出された。これらの努力によって政府も動かされ、問題は徐々に好転したが、やがて満州事変の勃発は時局を一転させ、つづいておこった軍需インフレがすべてを解決した。
義雄社長の明朗、円満な性格は、業者団体の統率者として、複雑な人的関係を調和させ、円滑な運営をはかることに役立った。その存在自身が業界に貢献し、また大林組の地位を業界に高からしめたが、以上にのべた労働者災害扶助法と直営工事反対運動における業界活動は、彼の業績として特記すべきものである。