大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第四章 高度経済成長期

第二節 株式の公開

率先、古い殻を破り―大阪証券市場に上場

個人企業に出発した建設業者が株式会社に移行するにいたった経過は第二編でのべたが、株式を一般に公開したのは大成建設が最初である。同社は大倉土木の後身であるが、その株式を保有した持株会社大倉鉱業がGHQの財閥解体司令によって解体されたため、いったん社員が株主となり、さらに昭和三十一年(一九五六)九月公開されたのであった。

大林組の場合は、すでにのべたごとく昭和二十四年九月、資本金を七〇〇〇万円に増資するに際し、はじめて一部の株式を社外に放出したが、その範囲は取引先き会社、金融機関等関係者間のみにとどまった。それが昭和二十七年以後、相次ぐ倍額増資により社外株式の量が増加するにともない、将来の資金調達のためにも、株式を公開して大衆資本の参加をもとめることが考えられた。

昭和三十二年十二月、まず第一歩として大阪証券市場で店頭売買に付したが、そのときの売出し価格は七五円(額面は五〇円)であった。このころから証券業界にも株式民主化のための新しい試みが続々と採用されはじめ、三十三年六月、野村證券は株式名義書換を集中処理するためにアメリカにならって名義書換代理人制度をとり入れたので、大林組は率先して同社を代理人に指定した。当時すでに店頭売買の株価は一五〇円となっていたが、三十三年十二月六日、大阪証券取引所に上場したときには二九五円の高値をみた。

大成建設の特殊な事情による場合をのぞくと、これがわが国建設業界で株式を公開した最初である。つづいて翌三十四年九月、東京でも店頭売買を開始し、さらに昭和三十五年十一月一日、東京証券取引所に上場したが、このときの株価は六三〇円であった。なお、名古屋でも同年六月八日から、福岡では同三十六年三月一日から、また京都では同四十三年十月十五日から、それぞれの証券取引所に上場された。

建設業界において同族企業のワクを破り、大衆資本の導入をはかったのは大林組が最初であるが、同時にそれは時代の要請によるものでもあった。昭和三十六年(一九六一)十月、東京証券取引所に第二部が創設されたのを機として同業二十数社がいっせいに株式公開にふみ切った。これによって建設業はかつての閉鎖性を脱却し、ひろく社会の支持をもとめ、近代産業として成長する意欲を示した。そして、世間もまたそれをみとめ、公開された建設株は花形株として人気が集中したのであった。

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