第四節 吹上御所、東宮御所
相次いで宮廷関係工事を奉仕
大林組が伏見桃山御陵をはじめとして数々の宮廷関係工事に従事、誠心奉仕してきたことは、第一編、第二編においてのべてきたところであるが、三十年代にはいるとお濠端復旧工事、東宮御所工事、吹上御所工事と相次いで工事の下命を受けている。
お濠端復旧工事
昭和三十三年(一九五八)九月の台風二二号(狩野川台風)は伊豆地方に大損害を与えたが、東京もその余波をうけ、皇居の濠端に多くの土砂くずれを生じた。大林組はその復旧を命じられ、内濠、外濠二十八カ所の石垣や土手の修築を行なった。ことに被害が大きかったのは、桜田門から半蔵門にかけての外濠で、かつてフランスの詩人大使クローデルが最も愛したといわれるこのあたりは十七カ所にわたる修理を必要とした。
復旧に当たり、今後の土砂くずれを防ぐために特別な排水計画を行なった。それは土手の斜面に上下二段のコンクリート土留壁を設けたことで、壁には配水管を通したが、上段の管は、排水と同時に地中の水を集める集水管を兼ねるように工夫された。工事は昭和三十三年十月にはじまり、翌三十四年三月終了した。
東宮御所
昭和三十四年四月の皇太子殿下御成婚を前に、赤坂大宮御所内に東宮御所が造営されることとなり、大林組、鹿島建設、清水建設、大成建設、竹中工務店、戸田組、間組(五十音順)七社の共同企業体に工事を下命された。基本設計は東京工大教授谷口吉郎氏、構造は鉄筋コンクリート造で、屋根は銅板葺き、表公室(平家建、一部地下一階)、奥私室(地上二階)、事務室(地上二階、一部地下一階)、車庫の四棟に分かれ、各棟は渡り廊下によってつながれ、総面積は三八四一平方メートルである。
表公室の中心となる大食堂と大応接室は、床面を地盤より一・五メートル上げ、池を前面に配した高殿仕立てとされ、北の低い玄関からはいってこの二室に付属する広間につうじる。玄関から広間にかけては石を主体とした構成で、大食堂と大応接室は檜合板に化粧鋲を打ったものを壁に用い、木を主調としている。この工事の大林組担当者は中村堯彦であった。
〈東京〉 昭和35年3月竣工
設計監理 東京工業大学教授 谷口吉郎 宮内庁管理部 建設省営繕局
(施工・東宮御所建築工事企業体)
〈東京〉 昭和35年3月竣工
設計監理 東京工業大学教授 谷口吉郎 宮内庁管理部 建設省営繕局
(施工・東宮御所建築工事企業体)
吹上御所
昭和二十年(一九四五)五月、米軍の空襲によって宮城が炎上したのち両陛下はしばらく御文庫を御住居とされた。この建物は防空用の目的に建てられたため湿気が多く、側近がしばしば御住居の新築を進言したが、陛下は国民の住宅難を配慮されて容易におゆるしにならなかったと伝えられる。ようやく吹上御苑内に御新居の新築が決定したのは昭和三十五年(一九六〇)七月で、工事は大林組に下命された。
このとき西の丸の新宮殿御造営はすでに予定されていたが、公私の御生活を分離される方針から、新宮殿完成後もここを日常の御住居として計画された。御新居は、それまでの御住居である御文庫の南側につづき、鉄筋コンクリート造二階建で、総面積は一三三〇平方メートル、一階は御居間と和室、食堂、書斎、書庫等、二階は御寝室、浴室その他となっている。外装は象牙色のタイル貼り、玄関とベランダの一部壁面に荒川豊蔵氏作の志野焼タイルを配し、屋根は銅板葺きである。
設計や造作には、両陛下からそれぞれ御注文を出され、工事中には天皇陛下が二一回も現場にのぞまれ、そのつど係員の労をねぎらわれた。工事は予定どおり昭和三十六年(一九六一)十一月二十日竣工し、翌二十一日には両陛下、皇太子、同妃両殿下と義宮(常陸宮)殿下が御一家おそろいでお見えになった。このとき玄関わきでお迎えした大林社長に対し、陛下は「よい住居ができてうれしく思います。建築に関係してたいへん御苦労でした。自分の喜びの気持ちを関係の人たちに伝えてほしい」と、特におことばがあり、記念品を下賜された。落成式は同月二十七日に挙行され、御住居は「吹上御所」と命名された。
また、宇佐美長官から感謝状を贈られ、皇居造営主管高尾亮一氏は、「大林グラフ」第三十八号に一文をよせられその末尾で「施工に当られた大林組の熱意と誠実、それに優れた技術は、永く伝えてもよいものと思います。関係者としてはもとより、国民のひとりとして深い謝意を表するものであります」とのべられている。
工事総主任は石建嘉一郎であるが、この工事には社長以下全社が総力をあげて奉仕し、下請関係者も最善をつくしたことを特記しておく。