第四節 大林社長と建設業界
自社再建に苦闘しつつ業界復興の重責をになう
大林芳郎が社長の任についたのは、昭和十八年(一九四三)十一月で、ときに二十五歳、応召中のことであった。そのため相談役白杉嘉明三が取締役会長に、専務取締役中村寅之助が副社長となって留守中の社務を処理したのは前述したところであるが、当時は軍工事および軍需工場関係工事の最盛期で、大林組は業界の首位を占めていた。しかし終戦とともに情況は一変した。昭和二十年十二月、復員して職につくと同時に、あらゆる苦難に直面せねばならなかったのである。
前章にのべたように、このとき大林組は創業以来の危機におちいったが、建設業界もまた未曽有の混迷のなかにあった。戦時体制下に生まれた戦時建設団は、なんの業績をあげるいとまもなく解散され、業界をこのまま放任すれば無秩序状態となることは必至であった。戦後の復旧工事や進駐軍工事の獲得を目ざし、転業者や引揚げ者、復員者などが一時に業界に流れこんだためである。そこで業界の秩序をたもつべく、竹中藤右衛門氏を中心に、商工組合法による日本建設工業統制組合が結成された。これには、理事として中村寅之助副社長が大林組から参加し、組合大阪支部は大林組本店六階におかれた。
この組合は、建設用資材、労務用物資の配給や、工事の配分割当てなどを行ない、また金融緊急措置、戦時補償打切り等の難問題に対処したが、商工組合法の廃止とともに日本建設工業会となった。これを機として、大林芳郎社長はみずから理事となり、大阪支部事務局長には塚本浩(元満州大林組取締役)が就任した。大林社長は自社再建に苦闘しながらも、大手業者の代表として業界復興の重責を果たさねばならなかった。
明治以来、建設業者の社会的地位は低く、政府は他産業に与えたような助成策もとらず、警察の取締対象としたのみで、所管官庁すらもなかった。商工省所管となったのは、戦時中に産業統制を行なったときであるが、それは同時に建設業が基礎産業としての重要性を認識されたときでもあった。政府は、戦後まず戦災復興院を発足させ、昭和二十三年(一九四八)一月、内務省国土局と合併し建設院に拡大したが、同年七月、建設省とした。また日本建設工業会は全国建設業協会に、日本建設工業会大阪支部は大阪土木建築業協会(のちに大阪建設業協会)に改組された。これと同時に、大林社長は全国建設業協会理事、大阪土木建築業協会理事兼経営委員会委員長に選任された。また、このとき大阪土木建築業協会事務局長に元大林組常務取締役妹尾一夫が就任した。
建設業法の制定
建設省は発足と同時に建設業法の制定に着手した。この法律は業界の憲法ともいうべきもので、第一条に「建設業を営む者の登録の実施、建設工事の請負契約の規正、技術者の設置等により、建設工事の適正な施工を確保するとともに、建設業の健全な発達に資することを目的とする」と定めているが、成立までには多くの問題があった。最も論議が集中したのは業者の登録制で、政府にとっては業界の実体をとらえるために必要であったが、業者にとってみれば規模の大小により、それぞれ利害がことなった。
登録には一定の資格を要するが、その条件をきびしくすれば中小業者は脱落するおそれがあり、また、ゆるやかにすれば実力のないものがはびこり、不正工事等で社会に迷惑をかけるおそれがあった。そこで事業の公共性、業界の信用保持を重視するものは、強い制限、あるいはむしろ許可制を主張した。これに対して中小業者は、新憲法が保証する職業選択の自由を根拠に反対し、業法制定を前にして、登録資格をめぐる論争は際限がなかった。
大阪土木建築業協会は、昭和二十三年(一九四八)八月、この問題を経営委員会に付託し、大林委員長は専門委員会を設置してその衝に当たった。ここで得た結論は (一) 登録は甲種、乙種とし、甲種は資本金五〇〇万円以上の法人として、一定資格の技術者と機械保有を条件とするが、乙種については制限を設けない、(二) 甲種は建設省に登録し、営業区域を全国とする。乙種は都道府県に登録し、営業はその都道府県内にかぎる、(三) 請負契約の片務性是正、(四) 競争入札の条件を請負金額のみとせず、技術、施行方法、労務管理等も加えること、(五) 国家試験による工務士制を設けること等で、総合工事業者のみを対象とするものであった。
法案作成に当たった建設省は、業界の意向を反映させるため、全国建設業協会に要綱を提示して諮問した。この要綱が大阪に送られてきたのは、翌二十四年一月五日であるが、建設省が法案を国会に提出するまでに、ほとんど余日がなかった。そこで、理事会から答申を一任された大林委員長は、上記専門委員会の意見にもとづき答申書を作成しこれを携えて上京し、全国建設業協会に提出した。そして同月十九日に開かれた公聴会に出席し、さらに二十四日の大阪公聴会でも、大阪業界を代表して一一項目の質問を行なうなど、この問題で大いに活躍した。
建設業法はこの年五月、第五特別国会で成立し、八月から施行された。専門委員会案の甲種、乙種登録は大臣登録、知事登録として実現し、大林組も同年十月、建設大臣に登録の手続を行なった。しかし登録資格がゆるめられたため業法制定の趣旨である業者の乱立を防ぐには不十分であった。このとき登録した業者総数は約三万三〇〇〇であるが約半数は個人業者がしめ、法人業者でも資本金五〇〇〇万円以上のものは、わずか一・四%にすぎなかった。そのため、のちに業者が激増するにつれ、入札ダンピング等の過当競争が行なわれ、多くの弊害がおこった。これにともない、建設業法も数次にわたって改訂され、登録要件は強化される方向に向かったが、同時に下請業者の保護も考えられるようになった。
標準請負契約約款の制定
建設業法の制定とともに、当時業界で懸案となっていたのは標準請負契約約款の制定である。建設業はその発展過程からみて、元来が得意先から仕事を与えられる立場にあったため、いきおい契約が片務的となり、業者に不利であることをまぬかれなかった。ことに公共工事に関しては、官公庁側の権限が強く、長期工事に際して賃金物価に変動のあったとき、あるいは自然災害等不可抗力による損害をこうむった場合などは、そのほとんどが業者の一方的負担とされてきた。これを是正して、発注者と受注者の立場を対等とし、契約を双務的とすることは業界多年の宿望であった。
建設省は業法制定に当たり、この問題をとりあげ、契約を明確にすることを同法中に挿入するとともに、標準請負契約約款案を中央建設業審議会に諮問した。この案は、建築学会など四会協定によって行なわれていた「工事請負規程」、物価庁案、外国における実例などを参照し、建設省が作成したものである。学識経験者、官庁、業界によって構成された審議会は、昭和二十四年(一九四九)十月以後、慎重に検討を重ね、翌二十五年二月、正式制定をみた。建設省はこの約款制定を、発注関係官庁、地方自治体、公社等に通達し、実施を勧告して業界の保護をはかった。
標準請負契約約款の実施は、法的に拘束力がなく、勧告にとどまったため所期の効果は得られなかったが、業界にとっては契約の双務性を主張する根拠となった。これが効果を発揮したのは、昭和二十五年九月三日、近畿、北陸地方にかけてジェーン台風が来襲したときである。
この台風は、近畿のみで死者行方不明者五四一名を出し、家屋の全半壊は二一万四〇〇〇戸に達した。堤防の決壊、橋梁の流失も多く、大阪府下では折りから進行中の防潮堤工事が大被害をこうむった。ときはあたかも朝鮮戦争勃発直後で、特需ブームの影響とこの災害により諸物価は暴騰し、とくに建設資材の面でははなはだしかった。
ジェーン台風によって業者のうけた損害は、標準請負契約約款に定める(第二十一条)天災その他不可抗力による損害と、(第十七条)物価の変動等による請負代金の変更、のそれぞれに該当した。当時、大阪府も大阪市も、この約款をまだ採用していなかったが、建設省の勧告と大阪建設業協会の陳情によって、約款の精神を尊重し、業者にある程度の補償を行なった。標準請負契約約款制定後のテストケースというべきものであった。
その後、朝鮮戦争による物価、賃金の高騰は、全国的な問題となった。発注官公庁と業者の見積りが合わず、再入札や指名変更などがしばしば行なわれた。また、朝鮮戦争勃発前の契約を強行させられ、出血を余儀なくされる業者もあった。これらのことが、業界をあげて立ちあがった工事費増額、前渡金支給の全国運動の動機となったのであるが、その根拠とされたのは標準請負契約約款であった。
経営の近代化と企業規模の拡大によって、しだいに社会的評価を高めつつあった建設産業は、ここに建設業法、標準請負契約約款の制定をみるにおよんで、経済発展の基盤をになう基幹産業の一つとしての地位を確立した。大林社長は、昭和二十三年、関西経済連合会(関経連)理事となったが、同二十四年に関西経営者協会理事、同二十五年には関西経済同友会幹事に就任した。
このように、大林社長は自社再建に努力しながら、業界復興および関西財界のためにも力をつくしたが、動乱による特需ブームは、そのいずれにも明るい見とおしをもたせた。そこで、これを機として、かねて志していたアメリカ視察を実行することとした。昭和二十一年の年頭訓示にもみられるごとく、彼は建設業の技術革新、機械化時代の到来をはやくから予見し、進駐軍工事、沖縄工事等の経験により、その確信をいよいよ深めて、技術先進国のアメリカから直接身をもって学ぼうとしたのであるが、一つには、近く調印を予想される講和条約後の新情勢に対処し、広い視野を身につけるためでもあった。
しかし、このはなやかなるべき門出に当たり、はからずも不幸なできごとが突発した。昭和二十五年(一九五〇)九月二十七日、彼が同行者の鴻池組鴻池藤一社長とともに大阪駅のプラットフォームに立ったとき、見送りにきた前副社長大林賢四郎未亡人ふさが、脳出血のためコンコースで倒れた。ふさは初代社長芳五郎の長女で、芳郎社長にとっては実母であり、また鴻池社長夫人敏子は、賢四郎とふさの次女である。
病人は、いったん駅長室で手当てをうけたのち、ただちに阪大病院に移され、二人を乗せた列車は出発した。しかし彼らが東京駅に到着したとき、そこにもたらされたのは、ふさ死去の悲報であった。二人はそのまま大阪に引き返し、翌二十八日、神戸市御影の大林一郎邸で行なわれた葬儀に参列した。ふさは、このとき五十八歳であった。
大林、鴻池両社長は、この突然のできごとで悲歎にくれたが、決定した予定を変更できなかったので、同三十日夜羽田を出発して、アメリカに向かった。滞米二カ月余、同年十二月帰国したが、この渡米で得た収穫はその後の大林組の発展に少なからぬ力となった。