大林組の社史刊行は早くから計画され、昭和三十六年(一九六一)三月、社史編集委員会を設け、委員長に田辺信(当時顧問)、副委員長に山田新三郎(当時取締役本店総務部長)が委嘱された。間もなく田辺は退任して酒井弥三郎(当時監査役)が交替し、のちに副委員長に小寺芳夫(当時本店総務部長)が追加されるなど、人員の構成に異動はあったが委員会の作業は続行された。創業七十年を記念して発行された「大林組七十年略史」は委員那須武雄(当時本店総務部次長兼文書課長)が執筆した。その後も主として那須が資料の収集や調査を担当し、正史刊行の準備を進めたが、不幸にして病没したため一時的に作業は中断された。昭和四十四年(一九六九)五月、創業満八十年に当たる同四十七年を期し、「大林組八十年史」の刊行を決定するに際して、社史編集委員の編成替えを行ない、また同年十二月社史編集室を設置して編集に着手した。
構成メンバーは以下のごとくである。
- 社史編集委員会
- 委員長
- 専務取締役(現副社長)
- 山田新三郎
- 副委員長
- 常務取締役(現専務取締役)
- 岡田正
- 監査役
- 小寺芳夫
- 委員
- 常務取締役(現専務取締役)
- 河田明雄
- 常務取締役
- 倉田善次郎
- 取締役(現常務取締役)
- 高久近信
- 監査役
- 大林正
- 本店総務部長(現東京本社総務部長)
- 大塚直治
- 本店総務部長
- 関雄二
- 幹事
- 本店総務課長(現東京本社総務課長)
- 坂井恒之
- 幹事
- 本店文書課(現東京本社弘報課)
- 石渡堯康
- 東京本社文書課長
- 大石幸男
- 社史編集室
- 室長
- 本店総務部長
- 関雄二
- 室長代理
- 播磨政雄
- 多田栄一
- 職員
- 神吉知子
- 前田和世
- 田村真喜子
- 嘱託
- 森田清太郎
- 鈴木清
社史編集委員会は十数回開催され、基本的な問題を決定したほか、記事内容についても具体的に検討、校閲を行なった。原稿はすべてプリントに付し、これを討議するためについやした時間は、一回一〇時間を越えたことも希でない。
社史編集室が一体となって作業に当たったのはもとよりであるが、その分担をあげると、おおむね次のとおりである。
統轄(関)、本文記事執筆(鈴木)、調査および資料収集(播磨、森田)、資料整理(神吉、前田、田村)、写真収集および造本(多田)、巻末付表および年表作成(播磨、森田)、索引作成(森田、前田、田村)。
編集の基本方針として、単に大林組八十年の歩みを記録するにとどめず、これをわが国の社会、経済の発展に関連してとらえ、建設業界の動向とともに把握するよう努力した。叙述も公正、客観を期したつもりである。主たる資料は、創業から大正期にいたるまでは「大林芳五郎伝」にもとづき、その後は社報、営業経歴書、営業報告書、工事記録、工事時報、工事画報、七十年畧史、グラフ大林、マンスリー大林等の社内記録を中心とし、特に出所を明示したもののほか、いちいち書名はあげないが多数の出版物を参照した。写真については毎日新聞社、新建築社および多比良敏雄、佐藤翠陽、名執剛輔、山本富美成ら諸氏のご厚意によることが多い。また、大林組に生涯をささげ、九十六歳の高齢をもっていまなお相談役の現職にある白杉翁の、正確無比というべき記憶力にたよったことはいうまでもないが、退職者によって組織された柏会会員諸氏がそれぞれ貴重な手記をよせ、協力せられたことは感謝にたえない。記事締切りの時期は、原則として昭和四十六年(一九七一)末としたが、一部その範囲を越えたものもある。
資料の収集には極力つとめたが、戦時中ことに昭和十五年から同二十年にいたる期間は、軍関係による制限が多く、残された記録が少ない。またそれ以前のものについても、戦災等によって資料の失なわれたものがあり、遺憾な点がある。第一編、第二編の諸工事について、設計者の不明なものや写真が見当たらないのはそのためである。施工工事名についてはできるだけ多くあげたかったが、紙数の制限があって意にまかせず、代表的なものを収録するのみにとどめた。これは写真、巻末の年表においても同様であるが、ことに写真の場合は発注者の意向により、工場などは撮影できなかったものも多く、代表的工事でも掲載ができなかったものもある。本文記事索引は人名、工事名称、工法等の範囲に限定した。
記述は原則として当用漢字、現代かなづかいによったが、かならずしも厳格でない。また、出典を明らかにした引用文の用字用語はすべて原文のままとした。戦争、事変の呼称もいろいろあるが、大東亜戦争は太平洋戦争、シナ事変は日華事変、朝鮮動乱は朝鮮戦争に統一した。また、編年体によらなかったため、叙述に若干前後する点があることも了としていただきたい。
昭和四十七年九月
社史編集委員会 委員長 山田 新三郎