第二節 幕開く超高層時代 1
工事はますます大型化・多様化
所得倍増政策は民間設備投資を増大させたが、非住宅建築については従来の製造業部門にくらべて商業、サービス業関係などの、いわゆる第三次産業部門の伸長がいちじるしかった。これもこの時期にはじまったわが国の産業構成の変化を示すものであるが、一つには目前にせまった東京オリンピックにそなえる意味もあった。また政府の財政投融資も大幅に上昇し、昭和三十六年(一九六一)度の八三〇三億円は、三十七年度に九五一三億円、三十八年度は一兆二〇七二億円、三十九年度には一兆四三九七億円という数字を示している。これは所得倍増計画にともなう社会資本充足のためであるが、首都高速道路、東海道新幹線などの建設が東京オリンピックを目標に急ピッチで進められた。
このような機運を迎えて、土木、建築をつうじて工事はますます大型化した。また、朝日麦酒東京大森工場の立体化にみられ、日生日比谷ビル、仙台の電力ビル等の多目的総合ビルにうかがわれるように、工事の多様化がいよいよ顕著となった。さらに特記しなければならないのは、昭和三十八年(一九六三)七月の建築基準法の改正によって超高層時代の幕が開いたことで、これはわが国建築界にエポックを画するものであった。
東洋ビルサービス株式会社の設立
ビル、工場の建設ラッシュにともない、建物の保全、清掃を専業とする企業が出現したのもこの当時である。大林組も主として自社施工建物のアフターサービスを目的として、昭和三十八年十月、東洋ビルサービス株式会社を創立した。資本金は三〇〇万円、代表取締役に永田重一が就任したが、詳細は関係会社の項でのべる。
このころ大林組が施工した主要工事は以下のごとくである。
三菱電機ビル 〈昭和三十六年一月~同三十八年一月〉
明治初年、三菱ガ原とよばれた丸ノ内一帯は三菱地所部によって開発され、仲通の赤煉瓦街は「一丁ロンドン」の名でよばれていたが、時代の変化とともに建物の更新、地区全体の改造が要請された。そこで三菱地所株式会社は、昭和三十四年(一九五九)、仲通の幅員を両側に各四メートル拡幅するなど丸ノ内総合改造計画を策定、逐次実施にうつしたが、三菱電機ビル新築もその一環をなすものであった。
仲十三号館、同別館、仲十五号館、東京電力丸ノ内変電所の各建物を順次とりこわし、そのブロックの跡地四五五〇平方メートルに建てられたのがこのビルである。構造は鉄骨鉄筋コンクリート造、地下四階、地上九階、塔屋三階で、総面積は四万四三〇七平方メートル。そのうち地下一階の一部と三階以上を三菱電機本社が使用し、二階は三菱樹脂と三菱診療所、一階は印度銀行東京支店、北海道拓殖銀行丸ノ内支店その他、地下二階は駐車場で、とりこわした丸ノ内変電所は地下三階に収容された。請負金額は一七億七〇〇〇万円、工事主任は藪内吉一であった。
なお、三菱電機関係の工事としては、昭和二十二年(一九四七)に大阪工場の復旧を行なって以来、主として伊丹、京都両製作所の諸工場建設に従事した。伊丹製作所では同二十六年三月、第一五、第一六工場を増設したのち、無線機製作所、第二五〇工場、第三〇一工場、第二一二工場や、塚口寮、出張者宿泊寮その他、連年工事が継続し現在にいたっている。また京都製作所関係の工事も、昭和三十六年(一九六一)二月、第二四〇工場の新築を手はじめに、二三〇、二二〇、三二〇、二五〇その他十数工場を施工した。両製作所の請負金合計は、昭和四十六年(一九七一)現在で三八億円を越えている。工事事務所長は、伊丹、京都ともに平尾恒一(のちに橋本三郎)である。
新三菱重工業神戸造船所高砂工場 〈昭和三十六年三月~同三十七年九月〉
播磨工業地帯のほぼ中心、兵庫県高砂市荒井町に建てられた大型タービン工場である。東西三三〇メートル、南北四八二メートルの工場は軒つづきのT字型をなし、特に第二一棟は桁行三三〇メートル、スパン三六メートル、最高部は三七メートルであった。工場建築の規模としても屈指のものであるが、一貫生産体制をそなえた原動機の製造工場としては世界有数のものといわれた。
地盤が軟弱であるため掘削は難行し、ブルドーザが埋没したこともたびたびであった。最新鋭のP&H八五五(最大吊上荷重三九トン)国産第一号および第二号機を投入したが、これも走行稼働が困難で、宝殿(ほうでん)産の砕石数万立方メートルを敷きつめねばならなかった。また第二一棟の建方に当たっては、ブーム長さ三〇メートルの移動四脚デリックを二台特注するなどして機動力を最大に発揮させた。着工後一カ月余で一万四〇〇〇平方メートルの建家の立柱にかかり、その後、台風に見舞われるなどのこともあったが、早くも翌年二月には延七万二〇〇〇平方メートルの工場は大部分が完成し、八月から操業を開始した。工事主任は土木が米田時之助、建築は安村新二で、請負金は四〇億三〇〇〇万円余である。その後、二万五〇〇〇平方メートルの工場増築、独身寮など八棟などの建設を行ない、昭和四十五年(一九七〇)にはポンプ冷凍機工場(二万二〇〇〇平方メートル)をも施工した。
東洋レーヨン基礎研究所 〈第一期工事 昭和三十六年五月~同三十七年七月〉
鎌倉市手広の三〇万平方メートルを越える広大な敷地に建てられ、丘の上に研究所とオートクレープ実験室、丘のふもとに独身寮と家族アパートがある。研究所本館は地下一階、地上五階で、講堂、図書室等を含む付属館は地上二階、オートクレープ実験室は平家建、いずれも鉄筋コンクリート造で、総面積は一万五七六六平方メートル、独身寮、家族アパートは地上四階、共同施設は地上二階、鉄筋コンクリート造である。
同社の研究所は、三島、名古屋、愛媛等にもあるが、それらが特定製品の開発を目的とするのに対し、この基礎研究所は有機化学を中心に化学全般にわたる基本研究を行なうもので、わが国繊維産業界では最大の規模といわれた。設計は坂倉準三氏、工事主任は平井美登、請負金は一〇億七〇〇〇万円である。
倉敷レイヨン中条工場 〈昭和三十六年五月~同三十七年十月〉
新潟県の北端、山形県境に近い中条は、古くから天然ガスの噴出で知られ、県当局はこれを工場誘致の方策とした。昭和三十四年(一九五九)、倉敷レイヨンを中心に創立された協和ガス化学工業会社は天然ガスを利用する化学工場であるが、ここで生産されるアセチレン瓦斯を用い、繊維原料ポバールを製造するのがクラレ中条工場である。
工場は鉄筋コンクリート造地上四階の工場本館、厚生施設、鉄骨造六階の機械架台の建設等で、総面積は約五万二八〇〇平方メートル。設計は同社営繕課と大林組の共同設計で、道路、建家、スパンなどはすべてクラレモデュールによって計画された。昭和三十九年(一九六四)の新潟地震、同四十二年の大水害に際しても損傷はほとんどなく、同社から多大の感謝を受けた。工事総主任は佐々木義男、請負金は一五億五一六〇万円である。
大阪瓦斯堺工場第一炉団 〈昭和三十六年五月~同三十八年十二月〉
堺臨海工業地帯の北端、大和川の左岸にある。隣接する八幡製鐵(現・新日本製鐵)堺製鉄所に製鉄用コークスの全量とコークス炉ガスを供給し、製鉄所からはコークス炉の燃料と都市ガス混入用の高炉ガスの供給を受けるという相互関係にあり「鉄と都市ガスのコンビナート」を形成している。海面埋立、岸壁、貯炭場などの土木工事と、約三万平方メートルの建築工事、六六四基におよぶ各種装置基礎の構築を行なった。これを第一期として、昭和四十年四月~同四十一年十二月には第二炉団、同四十一年十月~同四十三年九月には第三炉団工事を施工した。第二期工事には、隣接するゼネラル石油の堺製油所から熱量調整に用いる石油オフガスを受入れる設備も含まれている。全期間をつうじ、工事総主任は田中斐人、請負金総額は四四億六四〇〇万円である。
東海道新幹線・新大阪駅 〈昭和三十七年八月~同四十年三月〉
日本人の英知を結集したといわれる東海道新幹線は東京オリンピックを目標に建設され、昭和三十九年(一九六四)十月一日、開通をみた。その西のターミナルである新大阪駅の駅舎建設工事は、営業開始の前日に当たる九月末日までを第一期工事、貴賓室、駅長室、西側二階コンコースの拡張などを第二期工事として進められた。
乗降場および線路は、地上一三・五メートルの高さにあり、ここを三階として、二階は新幹線および国電のコンコースと出改札口、中二階に駅務室と地下鉄連絡通路、一階が団体待合室、機械室等となっている。総面積は五万一五〇〇平方メートル、軒高は二三・五メートルである。工事はまず躯体をなす高架橋の建設にはじまり、逐次発注された四十数件の工事を次々に施工したが、担当者をやきもきさせたのは、ステンレス、ブロンズ等の建具や柱型、大理石、テラゾー、タイルなどの入手であった。量が莫大であるばかりか、新幹線各駅がほとんど同時に着工され、竣工時も同一であることから、限りある材料業者に大量の注文が集中し、そのため苛烈な督促競争が行なわれた。
第一期工事は予定どおり九月三十日に完了、世紀の偉業といわれた東海道新幹線は翌十月一日から営業を開始して東京、大阪間は三時間一〇分でむすばれた。第二期工事は開業以後引きつづいて施工し、翌四十年三月二十五日全工事を終了した(土木部門が担任した工事については「東海道新幹線」の項でのべる)。工事総主任は南戸又義、請負金は一八億九二〇〇万円である。
農協ビル 〈昭和三十八年一月~同三十九年十二月〉
東京都千代田区大手町のサンケイ新聞社、日本経済新聞社にはさまれて建てられた。鉄骨鉄筋コンクリート造、地下四階、地上九階、塔屋三階で、軒高は三一メートル、総面積は五万七二〇九平方メートルである。地下一階から三階まで農林中央金庫、四階から七階までは全国農協中央会をはじめ農業協同組合関係約三〇団体の事務所が集中し、八階は国際会議場、九階は大食堂で、ほかに八、九階をつうじて四五六名を収容するホールもある。
平面計画としては、中央部にコアをもつ正方形平面を二つ並べた形を基本とするコアシステムが採用された。建物の東西軸が長く、コアを一カ所に集中すると両端までの距離が大きくなり、構造上も端部がやわらかくなる等の欠点があったからである。また、大スパンシステムが採用され、一三メートル×八・五メートルの柱配置として、テーブルアレンジの自由度を大きくしてある。構造的には二カ所のコア部分の壁が耐震壁となっているため、大スパンシステムをとりながら壁面の経済性が高められた。空調設備ではセレクトグラフおよびスキアニング装置により、完全な遠方監視が実施されている。工事総主任は葛木良三、請負金は二五億六〇〇〇万円である。
国立代々木競技場第二体育館 〈昭和三十八年二月~同三十九年八月〉
この体育館は東京オリンピックのバスケットボール競技場として設けられた。設計はこれと一体をなす第一体育館(施工清水建設)と同じく、丹下健三研究室と都市建築設計研究所、構造は坪井善勝研究室、設備は井上宇市研究室である。高張力鋼による吊屋根構造で、総面積は五五九一平方メートル、バスケットの場合は三九三一名、ボクシングの場合は五三七一名の観客を収容できる。
工事は、まず高さ三五・七メートルのポストテンションのコンクリート主柱を建てることからはじめられた。その頂点から長さ八〇メートルの高張力鋼管SM五〇STPG四二(外径四〇六ミリ)の吊材を、鉄骨製のブラケットを通過させ、後尾のアンカーブロックまでのばして固定する。それと並行して二階建の観客席を構築し、二階にコマとよばれるパラペットを設ける。次に屋根の鉄骨吊梁を、ステージをつくって仮受けしながら吊材とコマとに緊結する。屋根は鉄板を仮留めで葺き、屋根葺きののちにステージを撤去し、載荷部材のタワミによって全体に所定の曲線を形成させた。主柱とアンカーブロックとは、つなぎ梁でむすばれ、屋根方向にはたらく主柱の曲げに対し、主柱とアンカーは一体となってたえるように考慮され、テンションメンバーが最大限に活用されている。
この体育館と第一体育館(水泳競技場)は、ともに吊屋根であるが、構造の相違によって独自のバランスをもたせ、世界の建築界に新分野を開いたものとして注目された。このユニークな設計に対し、また、困難な技術を克服した施工に対し、昭和三十九年度の建築学会賞が与えられ、また昭和四十年(一九六五)度の第六回BCS賞を受けた。工事主任は板垣勇次郎、請負金は四億三九五八万円である。
なお、この年のBCS賞受賞工事一四件のうち、大林組が施工したものはこのほかに四天王寺伽藍、帝人繊維加工研究所、神戸ポートタワーなどがある。四天王寺については第三編でのべたが、帝人繊維加工研究所は大阪府茨木市に建設され、一階が実験工場、二階が研究所で、上下階を建物外部の円形階段でつなぐ特殊な構造である。設計はJ・S・ポリシェック氏と大林組設計部、昭和三十八年七月着工して翌三十九年九月竣工した。神戸ポートタワーは、昭和三十七年八月起工、同三十八年十一月竣工した神戸埠頭の展望塔である。籠状の鋼管構造を試みた日建設計工務のすぐれた意匠と、海中工事に対する大林組の施工上の苦心が高く評価されたものである。
NHK放送センター 〈第一期工事 昭和三十八年四月~同四十年十二月〉
この放送センターはNHKの長期総合計画の一環をなすものであるが、第一期工事は東京オリンピックの実況を国際中継放送することを目標に開始された。したがって、着工一年五カ月後の昭和三十九年八月をもっていったん工事をとどめ、オリンピック終了後の同年十一月からふたたび工事を再開、翌四十年十二月末竣工したものである。
設計には山下寿郎設計事務所、梓建築事務所、日本技術開発コンサルタントが共同で当たり、施工は大林組を幹事会社とする鹿島建設、清水建設、大成建設、竹中工務店、戸田建設、間組の七社による共同企業体である。オリンピックの会場となった代々木の国立競技場第一体育館(水泳)、同第二体育館(バスケット)を目の前にのぞむ渋谷区神明町に建設されたが、着工前は米軍の宿舎ワシントンハイツで、測量のための出入にも許可証を必要とした。
放送センターの構造は鉄骨鉄筋コンクリート造七階建、塔屋三階、延面積は七万六九一平方メートルで、その半分は吹き抜けのスタジオとなっている。テレビスタジオ八室が一階を占め、その最大のものは一~四階吹き抜けで、床面積一一五五平方メートルという広さ、ラジオスタジオは五、六階、技術関係室は二階にある。第一期工事はオリンピック放送を目標とした関係で約三分の二は仮施設としてつくられ、大会が終わったのちにスタジオ、機械室等の仕上げ工事を行なった。第二期工事は昭和四十年(一九六五)十一月着工、第一期分の屋上増築とともに、地下一階、地上八階、総面積四万一六二三平方メートルの新館を施工した。四十三年九月、この新館の完成によってスタジオ数は四九となり、スタジオの延面積は二万三〇一〇平方メートルとなった。第一期、第二期の建物は、底部の一、二階で一体化し、三階以上は渡り廊下によって連絡している。
一期、二期をつうじ工事長は大林組の石田慶一であったが、わが国ではじめてという大規模な共同企業体であるため、工事事務所の人員編成や、それぞれことなる各社の給与体系の調整がたいへんであった。しかし、これが先例となって、その後に共同企業体を構成する場合には常にこのとき採用した方式がとられるようになった。請負金は第一期が八一億八〇〇〇万円、第二期が六四億三〇〇〇万円である。なおNHKでは、宇宙中継の日常化やテレビ電波のVHFからUHFへの移行など、放送事業の拡大にともなう施設の強化整備のため、昭和四十五年(一九七〇)四月から第三期建設に着手した。これも七社共同企業体で現に施工中であるが、竣工は昭和四十七年十一月末と予定されている。
成田山新勝寺大本堂 〈昭和三十八年六月~同四十三年三月〉
関東の名刹として大衆の信仰を集める成田山が開基一〇三〇年を記念して新築したのがこの大本堂である。鉄骨鉄筋コンクリート造、地下一階、地上二階の本堂と、鉄筋コンクリート造二階(一部地下道)の翼堂からなり、総面積は六四八一平方メートル、設計は昭和三十九年(一九六四)の文化勲章受章者吉田五十八氏である。
外装は、軒まわりの組桁、丸柱その他主要部分はコンクリート打放しのうえ塩化ビニール塗装をほどこし、外壁の一部には白大理石が用いられている。屋根は重層銅板一文字葺で、銅板はすべて信者の寄進によるものである。寺院建築の常識とされた懸魚、枡組、二重垂木などはいっさい取り入れられず、内陣、外陣の柱もない。これは設計者の信念によるもので、従来の寺院形式は、中国、朝鮮から渡来して日本化されずに受けつがれたという解釈から、その打破を試みたものである。内部は、この本堂を永世護持するために全部耐火材料が使用されている。天井やふすまはアルミ製格椽(ごうぶち)に金箔を貼り、仕切り壁はスチールルーバー、荘厳具もほとんど金属を使用して、可燃物は畳と経机だけだとさえいわれる。
工事はまず境内敷地の造成、拡張からはじまり、旧本堂その他既存諸堂を移動再配置したのち新本堂の建築に着手したので工期は五年の長期にわたったが、社寺建築特有の寸法や曲線を検討するため現寸引きや実物大模型の製作、縮尺模型、部分模型によるその修正など、準備に多くの日時を要した。仕上げ工事の入念を期すため、工程計画では躯体工事の期間を短縮したほどであるが、安全祈願の本山建設であるだけに、災害防止には特に意を用いた。工事事務所長は石通太郎、請負金総額は二八億二五四〇万円である。
参議院議員会館 〈昭和三十八年十月~同四十年五月〉
国会議事堂の西北側、千代田区永田町二丁目に、参議院議員会館一、二号館と並んで建設された。ここには戦後急造された木造の両院議員会館があったが、すでに老朽化していたことやオリンピックを目ざして構築される首都高速道路三号線および四号線の通過地点となるため、旧建物をとりこわして新築されたものである。建物はA、B二棟からなり、A棟は鉄骨鉄筋コンクリート造、地下三階、地上七階、塔屋二階で、延面積は二万三一六五平方メートル、一階は談話室と委員室、二階から七階までが二五〇人の議員事務室である。この事務室は各四〇平方メートルの面積で、ガラス スクリーンによって議員個室と秘書室に分かれている。B棟は鉄筋コンクリート造、地下四階、地上二階、延面積五九四四平方メートルで、一階は会議室、二階が換気室で、地下三、四階は駐車場である。工事主任は山口功、請負金額は一六億三〇一七万円である。
電通本社ビル 〈昭和三十八年十二月~同四十二年六月〉
首都高速道路一号線に沿い、低い家並と古いビル街を見下して、中央区築地二丁目にそそり立つ白い殿堂が電通の本社ビルである。鉄骨鉄筋コンクリート造、地下三階、地上一五階、延二万九二〇八平方メートルの建物であるが、地下二、三階は鉄筋コンクリート造となっている。軒高は六三メートル、建物の高層化によって敷地周辺に広く空地を確保し、東京における特定街区第一号の指定を受け、容積制限も六〇〇%から七八〇%に増加することを認められた。一階の大部分がピロティとして開放されており、また各階とも室内の高さは同一であるが、高層部分の軽量化のため、階高(梁から床までの高さ)と柱が建物の上にいくほど小さくしてあることなどは、他にみられない設計上の特色である。
設計は丹下健三氏で、外装はショックベトンパネル貼り(ショックベトンについては別項でのべる)、内部の色調は、床、壁、天井をブラウン、金物類はダークブラウンに統一されている。標準階は中央にコア部分を集約し、四周を大スパン構造として、事務室空間が効率的にとられている。工事事務所長は丸山俊一、請負金は三五億一〇四六万円である。 なお、このビルは昭和四十四年度第十回BCS賞を受賞したが、この年、大林組の施工で同賞にえらばれたものには、ほかに名古屋商工会議所ビル(JV)、名古屋市瑞穂プールがある。
麒麟麦酒高崎工場 〈昭和三十九年三月~同四十年三月〉
赤城、榛名の連山をのぞむ高崎市郊外に建てられた新鋭工場で、大林組、大成建設、清水建設の三社が各施設の建設を分担した。大林組が施工したのは工場の心臓部ともいうべき仕込室、貯蔵室、醗酵室等のほか、工場構外に設けられる研究所であったが、同社の工事を受注したのはこれが最初である。
工事は三期に分かれ、一期は延面積二万四八九九平方メートル、二期は同一万九〇〇平方メートル、三期は同五八〇〇平方メートルの工場施設と研究所五一五〇平方メートルを建設した。このうち、貯蔵室と醗酵室は無窓で、各室とも床、壁、天井にコーポライトと炭化コルクを貼り、断熱してある。工事事務所長は岡田和雄、請負金総額は二八億五〇〇〇万円であった。
横浜ドリームランド・ホテル・エンパイア 〈昭和三十九年四月~同四十年三月〉
横浜市の戸塚丘陵にあるドリームランドは日本のディズニーランドと称されているが、ここに建てられたホテルエンパイアは、霞ガ関ビルにさきがけ建設省高層建築物構造審査会の審査を通過した日本における超高層建築第一号である。
大林組では早くからこの日にそなえ、設計、施工の技術者を海外に派遣するなど準備をすすめていた。超高層時代の幕が開かれたとはいえ、施工計画、安全対策、精度の確保等、すべてにわたり未知の世界への挑戦であった。設計を担任した本店設計部のスタッフは、構造設計については東大の梅村魁、熔接については早大の鶴田明両教授の指導を受け、綿密な実験と試作を重ね、動的解析を用いて関東大震災の二倍の地震にたえる構造の建物として設計、施工管理にはPERT方式をとり入れ、工程の進行に万全を期した。
構造は鉄骨を主とした鉄骨鉄筋コンクリート造、地下二階、地上二一階、塔屋一階で、延面積は八一九三平方メートル、軒高は七七・七メートル、屋根飾塔の上端は九三メートルの高さである。基本プランとして塔形式をとり、二一階の多層塔としたのは、二一世紀を象徴するものとしたいという発注者の構想にもとづくもので、外装にはアルミのカーテンウォールプリント鋼板を、庇と天井にはインシュレーションパネルを用いた。内装には、これも発注者の希望により安土桃山様式をとり入れ、耐火、耐震、防音、軽量を考慮してプレハブ化された各種パネルを使用した。客室数は六六で、バスルームにはユニット方式が採用されている。
五〇ミリの高張力厚鋼板の熔接組立と現場継手熔接、デッキプレート型枠の大量使用、プレハブ部材の採用、一〇階以上に人工軽量骨材を用いたことなどは、この工事の特色としてあげられる新しい試みであった。また、この工事のために七八メートルのタワークレーンをはじめ、人貨エレベータやコンクリートタワーなど、高層用のものが特に設計されている。工事主任は堤兼雄、請負金は一〇億五四〇万円である。なお、ドリームランドではこの高層ホテルのほか、地下一階、地上三階、延九四四九平方メートルの一般用ホテルも合わせて建設した。
東京銀行本店分館 〈昭和三十九年五月~同四十一年九月〉
昭和三十九年五月、日本橋本石町一丁目の旧建物を解体し、十月から新築工事に着手した。鉄骨鉄筋コンクリート造、地下三階、地上九階、塔屋三階で、増築部分を含めると延面積は一万八八二五平方メートルとなる。外装は、一、二階の柱型は本磨きの黒花崗石、一、二階間のスパンドレルにはユーゴから輸入した白大理石が用いられている。三階から九階までのスパンドレルは有田製小口平タイルと伊奈製帯黒セラミックス タイル貼りである。
一階は営業室、貿易相談室、所長室等で、二階以上が事務室であるが、八階には大会議室とロビー、九階には食堂がある。工事事務所長は藪内吉一、請負金は一七億二六八〇万円である。
パレスサイド ビル 〈昭和三十九年七月~同四十一年十月〉
毎日新聞東京本社と、アメリカの有力雑誌「リーダーズ ダイジェスト」の日本における拠点、日本リーダーズ ダイジェスト社を収容することを主眼として建てられたのが、このパレスサイドビルである。両社および東洋不動産によって創立された株式会社パレスサイドビルの発注で、大林組と竹中工務店との共同企業体が施工した。ところは皇居平河門に近い千代田区竹平町の濠端で、後方には首都高速道路の高架橋がある。
鉄骨鉄筋コンクリート造、地下六階、地上九階、塔屋三階で、総面積一一万九七〇〇平方メートル、軒高は三八・二メートル、最高五〇・二メートルである。地下六階はビル機械室、地下二階から五階までは毎日新聞の印刷工場と駐車場、地下一階は食堂街となっている。地上一階は有名商店街と新聞社受付、二階が日本リーダーズ ダイジェスト社で、二階の一部と三階以上五階までが毎日新聞東京本社、六階から八階までは山下新日本汽船、日立造船その他のオフィス、九階には三和銀行の東京本部とレストラン アラスカがある。
東西に長い矩形の主屋を二列に雁行させ、これに直径二二メートル、高さ六六メートルの円筒型コア棟を二つ(東側のPCコンクリートブロックはショックベトン ジャパンの製品)を配したこの平面計画は、不整形なここの敷地を効果的に使用するうえではベストといわれた。エレベータや洗面所などは全部このコア棟に収容されて、屋上は塔屋から解放されたフラットデッキとなり、各階の中央を東西一二五メートルの廊下が貫通している。外装は南北の大部分がガラス貼り、色調はチャコールグレイを基調とした主棟の両端を、赤褐色の煉瓦で引きしめ、白のコア棟と対比させてある。
設備関係の特徴的なものの一つに、公害防止用として、東側コアの屋上に燃焼ガスを無風状態でも八メートル上昇させる能力をもつ噴射式煙突が四本設けられている。また六万ボルトの変電設備が設けられているが、この容量は事務所建設としては最初のもので、空調自動制御に山武ハネウエルのセレクトコード式操作監視盤が使用されていることも、わが国でははじめてであった。設計は日建設計工務、共同企業体の請負金総額は一一一億円、工事事務所長は大林組の清水光一であった。
このパレスサイドビルと次にのべる国際ビル・帝国劇場は、いずれも昭和四十三年(一九六八)度、第九回BCS賞を受賞した。
仙台市庁舎 〈昭和三十九年三月~同四十一年二月〉
仙台市の官庁街麦小路に建てられたこの庁舎は、地下二階、地上八階、塔屋三階の本庁舎と、地下一階、地上四階の議場棟の二棟からなり、いずれも鉄骨鉄筋コンクリート造で、総面積は昭和三年に建てられた旧庁舎の四九三五平方メートルに対し三万一二二七平方メートルと、全く面目を一新した。外装はコンクリート打放しと磁器タイルで、本庁舎の玄関からエレベータホールにかけて、壁はイタリア産大理石が使用されている。議場棟の屋上にはルーフガーデンが設けられ、四六八〇平方メートルの前庭は、水と花台と芝生の広場とし、市民のいこいの場所とされている。設計は山下寿郎設計事務所、工事事務所長は石通太郎、請負金は九億八二〇〇万円である。この市庁舎建物には昭和四十二年(一九六七)の第八回BCS賞が与えられたが、前年の第七回の同賞大林組作品には大阪南地の料亭大和屋がえらばれた。これは彦谷建築設計事務所の設計で、地下二階、地上五階、鉄骨鉄筋コンクリート造の日本風建築であった。
国際ビルヂング・帝国劇場 〈昭和三十九年四月~同四十一年九月〉
明治四十四年(一九一一)、なかば国立劇場的な使命をもって生まれた帝国劇場は、時代の推移とともにその性格も大きく変わり、戦後は映画館となっていたが、株式会社帝国劇場(東宝系)はこれを改築し、主としてオペラ、ミュージカル向きの劇場とすることを計画した。このとき、三菱地所会社では同社の丸ノ内総合開発計画により、隣接する仲三号館と日本倶楽部を建て替えようとしていたので、両者は提携して共同ビルを建設することとなった。貸オフィス、貸店舗を目的とするビルディングと、用途、機能のことなる劇場や倶楽部を融合同居させることは希な例であるが、設計上の苦心もそこにあった。
設計は三菱地所で、建物全体の外装と劇場内部、九階にある出光美術館は谷口吉郎氏が担当、帝劇の構造計算を阿部事務所が分担した。規模は地下六階、地上九階、塔屋三階の鉄骨鉄筋コンクリート造、総面積は一一万六八八五平方メートル、当時、都内の独立の建物としては最大の床面積をもつ巨大建築であった。地下五、六階は機械室、同三、四階は駐車場で、三三〇台を収容である。地下一、二階および地上一、二階は名店街で、五〇余の有名店舗が軒をつらね、四階から九階までの国際ビル側には、フィリピン国立銀行、パンアメリカン航空、ジャパンラインその他のオフィスがあり、八階は日本倶楽部となっている。
帝国劇場は建物の約四割を占め、観客席の収容人員は一九五〇人、舞台機構としては、大中各二台のセリを内蔵した直径一六・四メートルのまわり舞台のほかスライディングステージをそなえ、七つの舞台面を同時にセットすることができる。照明設備、音響設備は世界の最高水準といわれ、五三基のマイクロフォンが立体的な音響効果を発揮する。壁と天井には内外木材工業が開発した難燃材が用いられており、一階ロビーには加藤唐九郎氏、猪熊弦一郎氏らの作品が飾られ、また、帝劇側九階の出光美術館では世界の美術品が常時展観されている。
施工計画のうえで苦心したのは、一〇〇メートル四方の敷地を深さ二五メートルまで掘削したさい掘り出されてくる約二五万立方メートルにおよぶ土の処理であった。水平切梁やアイランド工法では、安全性、経済性、工期的に難点があるので、躯体床を支保工として鉄矢板を支持する逆下げ工法を採用することとし、深礎で鉄骨柱を建てたのち、一階床に「田の字型」に開口部を設け、この開口部を利用してロータリーホイスト、クラムシェル、湿地ブルドーザ、バックホー等の機械力をフルに動員し、基礎工事の段階で約一カ月工期を短縮、見事に所定の期日に完成をみた。工事事務所長は高屋猛、請負金の総額は七六億四二三万円であった。
住友商事美土代ビル 〈昭和三十九年十月~同四十一年六月〉
東京神田美土代町一番地、YMCAに隣接して建てられた。鉄骨鉄筋コンクリート造、地下三階、地上九階、塔屋四階、総面積は二万一三二平方メートル。外装は前記の電通本社ビルと同様、ショックベトンのプレキャストコンクリートである。窓はサッシュを用いず、ガスケットで透明ガラスを固定し、その前面に熱線吸収ガラスを取付けてあるため、空調の経費をいちじるしく軽減した。設備関係では、一般空調にセントラル方式五系統、事務室系ペリメーター部は、東、西、南の方位別にファンコイル方式が採用され、中央監視盤室の遠隔制御装置で自動制御されている。工事事務所長は板垣勇次郎、請負金は二三億二九〇〇万円である。
朝日麦酒札幌工場 〈昭和三十九年十一月~同四十一年五月〉
朝日麦酒の北海道進出は、同社の前社長山本為三郎氏が念願としたものであるが、没後にいたってようやく実現した。札幌市白石町南郷に建設された北海道朝日麦酒札幌工場がそれである。
鉄骨鉄筋コンクリート造(一部鉄筋コンクリート造)地下一階、地上六階、塔屋一階、総面積一万一五六〇平方メートルのビール工場と鉄骨造平家一一七〇平方メートルのサイダー工場、鉄骨造平家で面積一九一〇平方メートルの倉庫のほか、事務厚生棟、接待所棟、ビン置場上家などの建物と、コンクリート舗装道路、野球グラウンド、バレーコート、テニスコートなどが建設された。
寒冷地のことで、冬期の工事は吹雪と豪雪に悩まされ、埋めもどしや盛土工事の場合、土が凍結して溶かすのに苦心した。そのためドラム缶一本以上の灯油がはいる大型ヒーターを数台使用したようなこともあり、打設したコンクリートの養生は容易でなかった。工事事務所長は松原正男、請負金は九億九九二〇万円である。