第三節 技術の輸出―海外工事
賠償工事から商業ベースの工事へ
わが国の建設業者が海外に進出したのは、昭和十二年(一九三七)、大手業者が組織した共栄会が中南米で道路建設に当たったのが最初で、大林組もこの組織に参加している。これは外務省と拓務省の要請によるものであり、共栄会はのちに海外土木興業株式会社に発展し、ブラジルのカンボス水力発電所、タイ国の国道工事などにも従事したが現地の政情不安や国際情勢の悪化などにより、いずれも十分な成果をあげないまま、第二次世界大戦の勃発によって打切られた。
戦後、東南アジア諸国に対し、政府が賠償として建設工事を実施することとなり、いわゆる「賠償工事」による海外進出がはじまったが、これが昭和二十九年(一九五四)から同三十七、八年ころまで継続した。この間に大林組が受注した賠償工事には、インドネシアではスマトラ島パレンバン市のムシ河橋梁架設、ジャカルタ市のサリナ百貨店建設があり、カンボジアでは経済技術協力協定にもとづく無償援助として、農・牧・医センターの建設に当たった。ムシ河橋梁は昭和三十七年(一九六二)五月、富士車輌が受注、同社が上部工を、大林組が下部工を担任、同四十年四月完成、竣工当時はブンカルノ橋(のち、ムシ大橋と改称)と命名された同国最大の橋梁で、その華麗なプレートガーダ式の姿はインドネシア紙幣の図案に用いられている。サリナ百貨店は一四階建で、昭和三十八年九月着工、スカルノ大統領失脚の因をなしたクーデターの動乱下にも工事をつづけ、同四十一年(一九六六)八月竣工した。カンボジアの農・牧・医センターは、施工現場が三カ所に分かれ、各数百キロ離れているため、工事には多くの労苦をともなったが、約一年で同三十九年四月完成、竣工に際し同国国王から感謝状が贈られ、工事主任橋爪謙介以下工事に従事した主要職員には勲章が授与された。
技術革新がもたらした施工能力のいちじるしい増大により、国内の建設需要を満たしてなお余裕を生じた業界には、賠償工事の実施に先立ち、すでに海外市場に目を向ける動きがあらわれていた。昭和三十年(一九五五)二月、海外建設協力会が設立され、会長に参議院議員青木一男氏(もと大東亜大臣)、その後副会長に大林組社長大林芳郎が選ばれたのもその一つであるが、海外工事への意欲は賠償工事の実施によってさらに高まった。しかし、賠償や経済開発協力に関する工事が国家の事業として行なわれ、代金決済についての不安がなかったのに対し、それ以後の海外工事は、すべて業者自身のリスクにおいて、激烈な国際競争下に行なわねばならなかった。
わが国の建設業者の海外進出は、第二次世界大戦によって中断され、国際的にみてはなはだしく立ち遅れていた。受注工事高からみた昭和三十八年(一九六三)の世界十大建設会社のランキングによると、日本の大手五社はいずれも上位にランクされているが、日本の業者の海外工事が二%以下であるのに対し、七、八、九位にあるアメリカの諸会社の海外工事受注高は二五%~三〇%となっている。政府もこの情勢に注目、建設業の海外進出に積極的な姿勢を示し、昭和三十九年二月、建設省が建設業者の海外進出対策を打出したのをはじめ、昭和四十年二月には業界代表として大林組社長大林芳郎を輸出会議の構成員に加えた。また海外工事の情報を入手するため、建設省は各地にアタッシュを常置する処置をとった。
海外工事部を新設―バンコックに駐在員事務所を設置
第三編でのべたように、大林組は昭和二十五年(一九五〇)八月、パキスタンの首都カラチで万国産業博覧会の日本館を建設し、小規模ながら戦後の海外工事の先駆をなした。また同三十一年二月には東京支店に海外工事部を新設し、役員はじめ部課長級の中堅幹部を次々に東南アジア各地に派遣、市場調査を行なった。この時期の海外工事部の活動は、近い将来、発展途上国の開発に協力する日を見越しての準備であったが、前記の賠償、協力工事を行なったことにより、現地の事情について具体的な手がかりを得ることができた。
昭和三十七年(一九六二)九月、東京支店海外工事部を廃し、本店機構として新たに海外工事部を設け、専務取締役江口馨が初代部長となった。つづいて翌三十八年七月、大林社長は取締役河田明雄をともない、カンボジア、インドネシア、シンガポール、マラヤ、タイの諸国を歴訪し、現地事情を視察した。その結果、最初の拠点をタイ国に設置することとして、昭和三十九年四月、バンコックに駐在員事務所を開設した。初代所長は茂野湘二で、日本の建設業者の常駐第一号であった。そして、このとき受注したA-A(アメリカン インタナショナル アシュアランス)ビル新築工事は、大林組が商業ベースで行なった本格的な海外工事の最初であった。
大林組の海外進出は、もとより営業領域の拡大を目ざすものであり、企業活動としての技術輸出であったが、これを行なうに当たっては、利潤追求のみを目的としないことを方針とした。日本企業が海外に進出する場合、ことにそれがアジア、アフリカ等の開発途上国であるとき、往々にして経済侵略と目され、現地の非難をこうむることが多かった。大林組の海外における活動は、地域開発への協力を第一義とした。したがって、工事に際しては、技術や機械の提供を主として、可能なかぎり現地の労働力、資材等を活用し、その地方の経済開発につくすことを旨としてきた。そのため駐在員事務所の職員や現地に派遣された技術者も、極力現地住民と接触して融和につとめることを第一とし、国際親善の実をあげている。以下にのべるのは、大林組が東南アジアおよびハワイで施工した主要工事である。
タイ
バンコックのA-Aビルは、スリウオン通に建てられたアメリカの生命保険会社のオフィスビルで、鉄筋コンクリート造、地上一〇階、塔屋一階、総面積は八二二四平方メートル、設計はアメリカのジョングラハム設計事務所である。昭和三十九年(一九六四)七月着工したが、なにぶんタイ国でははじめての工事であり、首都バンコックの交通規制は日本以上にきびしく、そのため資材の搬入は夜間に限られるなど、現地事情の不案内から生じた予想外の困難もあった。同四十一年六月竣工、大林社長は専務取締役山田直枝、取締役石井敬造をともない竣工式に出席した。請負金は三億三六六〇万円、工事事務所長は茂野湘二である。
つづいて昭和四十一年には、四月に東南アジア条約機構(SEATO)本部ビル、十一月に日本大使館の二工事をバンコックで着工した。SEATO本部ビルは、鉄筋コンクリート造、地上四階(一部五階)、総面積は一万三〇〇〇平方メートル、翌四十二年八月竣工し、開館式にはタイ国国王、タノム首相をはじめ、加盟各国代表が多数参列した。日本大使館はバンコック市の中心街ニューペブリ通に面し、鉄筋コンクリート造、地上二階(一部三階)で、総面積は三六六一平方メートルである。昭和四十三年(一九六八)五月落成したが、仕上げ材料には日本製のものを用い、各国公館中異彩を放っている。請負金は前者が二億二八〇〇万円、後者は三億七五〇〇万円で、工事事務所長はともに茂野湘二である。
昭和四十二年七月から同四十四年六月にかけてバンコックのドゥシット タニー ホテルの躯体工事に従事した。仕上げ工事は現地のドゥシット タニー コンストラクション会社が受持ったが、これは地上二一階、塔屋二階、高さ八三メートルのホテル棟と、地下一階、地上一一階、塔屋二階のオフィス棟と、これをかこむ地上三階、塔屋一階のボディアム棟から成り、総面積は六万三六〇〇平方メートルにおよぶものである。この地方には地震や台風がないため構造は鉄筋コンクリート造であるが、タイ国における最初の高層建築である。ホテルビルとオフィスビル中央部のコア壁体は、いずれもスライディングフォーム工法で施工した。工事事務所長は同じく茂野湘二である。
このほかタイ国では、タイ本田、タイいすゞモーター、サイアムクラフトペーパーミル、タイ帝人テトロン、タイ倉紡、タイフィラメントテクスタイル、タイトヨタ自動車、タイブリヂストンタイヤ、タイ味の素等の各工場や、住友タニヤ不動産会社のタニヤビル、エッソスタンダードのエッソビルなどの建築工事を行なった。
土木工事では、昭和四十三年(一九六八)五月から同四十四年二月までサイアムセメントの岸壁および桟橋工事を施工した。つづいて翌四十五年二月、タイ国電力庁の発注によるナムプロム水力発電所の大工事に着手した。メコン河開発計画の円借款工事で、まずダム工事から着工しているが、堤高七三メートル、堤頂長七〇〇メートル、堤体積一六六万立方メートルのロックフイル型堰堤で、請負金は二九億円、昭和四十七年九月竣工を目標に工事を進めている。また同四十六年一月には、バンコックのメナム河に架設するPCコンクリート橋、トンブリおよびノイの二橋梁工事を住友建設との共同企業体で受注した。これも円借款工事で、前者は長さ二八〇メートル、車道幅員二一メートル、後者は長さ六一一メートル、車道幅員一四メートルで、ともに一部歩道付きである。工事事務所長は、水力発電所が石原毅、メナム河橋梁は花嶋晴道である。
シンガポール
昭和四十年七月、シンガポール政府の発注によりベドック~タンジョンルーの海岸埋立工事に着工した。この工事は、シンガポール市東郊のベドック丘陵を約二〇〇〇万立方メートル削り、その土でシンガポール港東側の海岸を、ベドックとタンジョンルー間一〇キロにわたり幅五〇〇メートル埋立て、切取面と埋立面を整地して住宅地帯とするものである。掘削には西独製のバケットホイール掘削機を使用し、掘削土はベルトコンベヤを用いて埋立地へ直接搬送したが、このベルトコンベヤの総延長は一万三〇〇〇メートルに達した。竣工は昭和四十六年三月で、請負金は五〇億円を越え、工事事務所長は福田邦雄であった。なお昭和四十五年九月、追加工事が発注され、さらに六六万平方メートルの埋立てが現に進行中であるが、工事事務所長は片岡勇である。
海外工事は、受注に際して商社が仲介する場合が多いが、この工事は大林組が単独で直接入札に参加し、激烈な国際競争にうち勝って獲得したものである。しかも、きわめて大規模である点についても画期的というべき工事であった。起工式には、大林社長、徳永豊次副社長、赤野豊取締役が参列した。
昭和四十二年(一九六七)七月には、伊藤忠商事と提携し、ジュロン火力発電所の基礎工事を受注した。シンガポールは、これまで東西貿易の中継港として商業中心に発展してきたが、独立後の同国政府は工業化をはかり、ジュロンに工業地区を開発した。この発電所は、ここに誘致された鉄鋼その他各種工場にエネルギーを供給する心臓部をなすものであった。延長一一二六メートルの循環水路、取入口、排水口、ポンプ室基礎等の諸工事で、同四十四年十二月完成した。請負金は一〇億六七六〇万円、工事事務所長は有田藤雄である。なお昭和四十三年五月、シンガポールに駐在員事務所をおき、初代所長に渋谷栄一が就任した。
建築工事としては昭和四十五年、タオル工場の建設を行なったが、同四十六年五月、シンガポール開発銀行(DBS)ビル工事を落札した。このビルは鉄筋コンクリート造、地下二階、低層部は地上五階、高層部は五〇階の超高層建築で、総面積は八万平方メートルに近く、請負金は約四三億円である。工事は、主体、仕上げ、設備を含む全工事であるが、この工事については別項で詳しくのべる。
インドネシア
インドネシアでは、先に賠償工事としてスマトラ島パレンバン市のムシ河にムシ大橋を架橋し、またジャカルタ市にサリナ百貨店を建設したが、同国では、国際入札の場合を除いて外国建設業者の営業は法律によって禁止されている。しかし、この地への日本企業の進出は盛んで、これらの工事に関しては、技術的な面で現地業者と日本業者との提携が望まれた。
昭和四十五年(一九七〇)八月、東レと三井物産と現地資本三者の合弁会社ISTEM(インドネシア合成繊維会社)がジャカルタ市郊外タンゲランに、紡織と染色を主体とした五棟の工場(延面積約一万平方メートル)を建設するに際し、大林組はこれに協力した。施工はジャカルタの一流建設業者プンバグナン イブコタ ジャカルタ ラヤ(略称ジャヤ)が当たったが、大林組はこれに技術援助を与えるとともに、日本における資材調達に当たった。この建設資材は総額一億三五〇〇万円に達し、技術協力に対する報酬は五三〇〇万円で、工場の竣工は昭和四十七年二月と予定されている。これにつづいてボゴール市でも、ユニテックス社工場の建設に同様の形式で協力した。同社はユニチカと現地の資本の合弁によるもので、工事は紡織を主体とする工場施設一〇棟で、総面積二万三〇〇〇平方メートルの鉄骨造平家、施工は同じくジャヤである。この場合の建設資材調達額は一億八〇〇〇万円、設計料一五〇〇万円、技術協力費二〇〇〇万円で、昭和四十六年六月着工、同四十七年三月竣工の予定である。
また、ジャカルタ市郊外チラチャスも受けられた帝人インドネシア工場(帝人、伊藤忠、現地会社の合弁で略称SCTI)や、武田薬品工業が現地商社と提携した工場(ジャカルタ市郊外ブカシ所在)の建設にも同じ形式で技術協力を行なった。前者は鉄骨造平家建の織物工場(面積七〇〇〇平方メートル)、染色工場(同五〇〇〇平方メートル)の二棟、後者は鉄骨造および煉瓦造平家建の主工場(一六五三平方メートル)と木造の付属施設四棟である。いずれも昭和四十六年に着工し、同四十七年の完成を目ざして工事を進めている。
これらの業務に当たるため、昭和四十五年(一九七〇)一月、ジャカルタ市に駐在員事務所を開設し、初代所長に中村堯彦が就任したが、同国における将来の発展を考える場合、大林組自身が営業の法的基盤をもつ必要があった。そのため前記の諸工事に協力した現地建設業者ジャヤ社と提携し、合弁会社ジャヤ大林組コーポレーションを設立することとした。資本金は五万米ドルで両社が折半出資し、社長はジャヤ社から、大林組からは副社長に茂野湘二、常務取締役に笠原仰二、取締役に谷口晴久の三名が参加して役員陣を構成し、同四十七年(一九七二)一月二十八日に営業を開始した。
マレーシア
昭和三十九年(一九六四)二月、山九運輸機工は国際入札によりマレーシア連邦中央電力庁からプライ発電所建設を受注したが、大林組はその基礎土木工事を施工した。この発電所は、新興工業地帯バタワースに電力を供給するもので、ここには八幡製鐵(現・新日鐵)をはじめ多くの日本企業が進出している。工事は整地、建家基礎、機械基礎、発電所の冷却水取入口、同放水路、構内道路の建設等であったが、英国系コンサルタントの監理下で行なわれ、また労働者も、中国人、インド人、マラヤ人の混成であるため、福建語、広東語、タミール語、マラヤ語が入りまじり、言語や習慣の相違からお互いの間で意思の疎通を欠くことが多く、その調整がたいへんであった。また下請業者と労働者の間に争議がおこり、一時工事が中断されるなどのこともあったが、翌四十年八月完成、請負金は九億八〇〇万円、工事事務所長は小鹿孔彦であった。
この地域は旧宗主国であるイギリス系業者が勢力を占め、他国業者の国際入札参加はきわめて不利であるが、大林組では現地における一般入札に参加する資格を得るために営業登録を行ない、将来にそなえている。
パキスタン
国際道路であるアジアハイウェイの建設は、国際開発協会(I·D·A)の借款供与により着々進行しているが、ダッカ、チッタゴン間の建設に当たり、昭和四十五年(一九七〇)四月、大林組は三井物産との共同企業体によりシタラキヤ橋架設と進入道路工事を受注した。シタラキヤ橋は、ガンジス河支流に架けられる長さ三九〇メートル、幅員一四・四メートルのPCコンクリート橋であるが、無数ともいうべきガンジス河の支流は、雨期には大洪水をおこし施工はまったく不可能となるので、同年十月上旬、雨期明けを待って着工した。しかし翌四十六年春以来の同国の政情不安や年末からの内戦によって、工事はしばしば中断のやむなきにいたったが、秩序の回復を待ってさらに工を進め同四十七年十月完成を予定している。請負金は一七億円、工事事務所長は一条一郎である。
ハワイ
以上はすべて東南アジア地域における建設活動であるが、昭和四十一年(一九六六)には、はじめてハワイに進出した。その最初は、国際興業の現地法人キョーヤから特命受注したホノルルのサーフライダーホテルである。同年四月、特命を受けるとともに外国会社としての営業登録を行ない、ホノルル工事事務所長、同次長に内定していた水穂金弥、佐藤芳郎は請負免許証を取得するため、きびしい免許試験を受け、翌四十二年一月、資格を取得した。
サーフライダーホテルは、鉄筋コンクリート造、地下一階、地上二一階、塔屋二階で、総面積は約三万五〇〇〇平方メートル、四三二客室で、同年七月着工、昭和四十四年(一九六九)五月竣工した。ホテルの開業式に際しては大林社長以下多数の幹部が出席、大林組のアメリカ進出の第一歩を祝って、相談役白杉嘉明三も九十四歳の高齢にかかわらず行をともにした。
この工事を施工中に、国際興業はプリンセス カイウラニホテルを買収し、その拡張のため増築することとなり、さらに特命を受けたので、昭和四十三年十二月これに着工した。増築分は地下一階、地上二八階、塔屋三階の鉄筋コンクリート造で、客室数は六四〇、同四十五年十月竣工した。設計にはアメリカ建築士協会の会員資格を必要とするため、現地のローリック・オノデラ・アンド・キンダー設計事務所と共同設計を行ない、施工下請にはスウイナートン・アンド・ウオルバーグ会社を起用した。請負金は前者が二九億七〇〇〇万円、後者は三八億五〇〇〇万円であった。
ハワイでは営業不動産部と住宅事業部も多面的な活動を開始している。昭和四十六年(一九七一)二月、ワイキキの中心部カイウラニ街に一六〇〇平方メートル余の土地を取得したが、これは外地における不動産取得に関し、大蔵省が資本輸出を許可した最初であった。ここにはビルの建設を予定しているが、パールハーバー付近の一〇〇万平方メートル、ハワイ島カラフィプアの八〇万平方メートルにおよぶ広大な土地についても買収交渉が進められている。ホノルル駐在員事務所は昭和四十六年四月、ホノルル市カイウラニ街に開設され、水穂金弥が事務所長に就任した。