大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第四編 飛花落葉(逸話)

カクトヘル

夙川邸は日本住宅としての標本だといふ評判で、神戸邊りの外人がよく觀に來たものである。或る日藏の中を案内した時、一人の外人が吊してあつた一連の鰹節を珍らしげに眺め、これは何かと訊ねた樣子を、會話こそ出來ないが案内役の又さんがそれと察して、何と答へてよいか、二、三間先きの故人に周章(あわ)てゝこれを尋ねた。故人は才氣喚發、冗談半分に『カクトヘル』と敎へた。無論これ位のことは直ぐと勘附くだらうと思つたのに、無知ほど大膽なものはなく、又さんは得意になつて鰹節を指し『カクトヘル、カクトヘル』と叫んだ。その聲を聞いた故人は思はずヒヤツとしたのであつたが、幸ひ外人であつたから頷いてゐたので故人は胸撫で下した。しかるに又さんは外人が歸つてからも臺所に頑張つて女中等に向ひ『今日は英語を一ツ覺えた。お前さん達は鰹節のことを何といふか知つてゐまい。あれはカクトヘルといふものだよ』と意氣揚々。女中等の方が頭が銳い。一人笑ひ、二人笑ひ、遂には殘らず笑ひ出してしまつた。又さんそれでも氣がつかない。女中の一人が『ハイトマルスペルや、オストアンデルと同じことですよ』と言つたので、又さん初めて釋然(しゃくぜん)。『旦那は罪なことを敎へたものだなア』と頭を搔いてゐた。

當意即妙

故人は或る日、志方勢七氏外數氏の實業家と共に市電に乘つた。故人は一冊の回數乘車券を出して同行全部の乘換券を要求した。しかるに當時の回數券には『回數乘車券の使用は一冊一人限り、數人に分つて使用の場合は無効』との意味の條項が記載されてあつた。當局者もこの條項が市民に不便なことを察して分用を默認してゐることを故人はよく知つてゐる。だから何心なく分用を求めたのであつたが、その時の車掌は記載條項を楯にこれを許さなかつた。そこで故人は直ちに切符を一枚宛切り取つて同行者全部に頒(あか)ち、各自から乘換券を要求することにした。すると車掌は故人のこの擧を見て益憤慨し、居合せた車掌監督に告げて共に飽迄その無効を強調して已まなかつた。しかるに故人は平然として『僕は單に債權を讓渡したに過ぎない。債權の讓渡をしてならぬとは書いてない筈だ』といつた。意表に出でた應變的(おうへんてき)のこの珍妙な理屈には車掌連も答辯に窮し、さういふものかなアと、半信半疑の下に遂に澁々承認してしまつた。後、幾許ならずして一人限との空文は遂に廢棄されたのであつた。

元の一兩

競爭入札の際僅少の差で落札を見なかつたときなどは『今少し値引きすればよかつた』と後から愚痴の出易いものだが、故人は忘れたかのやうに一切を口にしなかつた。社員中『惜しいことをしましたね』などゝ慰めたりすると『過ぎ去つたことに泣言をいふものでない。悲觀は事業家の大禁物で第一元氣がなくなるぢやないか。それより何事も虚心坦懷で愉快に働くのが肝要だ』と諭したものであつた。かやうに泣言をいつたり、執拗に愚痴るのを嫌つた故人は、年が年中潑剌として元氣が張りきつてゐた。常に『人間の一生は賽の河原で石を積んだり、壞したりしてゐるやうなもので變轉(へんてん)極まりないものだ。その時々の成敗利鈍に神經を尖らしたならどゝの詰りは精神病者になるより外はあるまい。人間は最後の腹さへ決めて置けばよいものだ。俺などは「まさか違へば元の一兩」(東京に出た時は一兩程度しか懷中してゐなかつた)と覺悟を決めてゐる。武士が戰場で死を決したのも同樣で、これより強いものはない』と洒々落々水のやうな襟懷を持してゐた。

ヌカスナ

お饒舌で有名な近所の或るお女將さんが、風呂の戻りと見えてお化粧の七ツ道具を提げてゐる。故人と門口でピツタリ出會ひ、時候の挨拶から始まつて貰ひ物のお禮からその味の品隲(ひんしつ)までにも及び、息つく暇もない竪板に水の辯(ことば)、結局は『お宅の坊ツちやんはお活潑でお利巧で、宅の子供などは及びも付きません。だからお宅の坊ツちやんに何時も泣かされてばかりゐますのよ』といふ針の含んだ體裁のよい不平である。自分の子の小面憎いほど意地惡で泣き虫なのは棚に上げて素知らぬ顏。故人は親の身になつたならかうもあるだらうと同情はしながらも、餘りの盲目さ加减に多少の不快を感じないわけには行かなかつた。しかし女のことでもあり、當らず障らずに受け流してその場はそれで別れた。フト氣が付けばお女將さんの去つた跡に糠袋が落ちてゐる。故人は咄嗟に『おい又公、その糠袋に砂をからんで今のお女將さんとこの入口に抛(ほう)り込んで來なさい』と命じた。又さんは怪訝な顏で『なぜ砂をからむのです』と反問した。故人は直ちに『覺りの惡い奴だな、さい前の返事で吐かすな(糠砂)といふことだよ』

即答の出來ないものは落第

故人が現場巡視のとき、主任や社員に質問を試みることがよくあつた。その際は善からうが、惡からうが、出來やうが、出來まいが、最も敏速に判斷して即答しないと甚だ御機嫌が惡い。敏速にさへ答へると、その答辯がもし間違つてゐても『それはかうすると善い。あゝすると出來る』といふやうに叮寧(ていねい)懇切に指示したものだ。これと反對に『篤と調査の上お答へします』などと來ると、實際はそれが愼重な態度であつても、大喝一聲『なぜ平常から調査して置かないか』といつた調子で、故人の心證には落第の印が捺されるのである。これは故人が特に俊敏で、判斷力が銳く、應用の才に富み、常に研究を怠らなかつたその性格の露はれであつて、實際問題として、一朝事のあつた場合は篤と調査の上などといつてゐられないではないか、といふのが故人の主張である。これは澤社員の述懷だが、曾て故人が澤社員に對し『君は梅田の渡線橋の蹴上が何寸あるか知つてゐるかね』と唐突に質問を發したことがある。澤社員は『四寸五分もありませうか』と答へると、故人は直ちに『計つたことがあるか』と追求した。素より計つたことがないので、その旨を答へると『君は何で飯を食つてゐるか。建築家にそれ位の研究がなくてどうする』といつて戒めたさうである。これは建築家としての研究材料は天下到る所に散在してゐることを示したもので、大林組多數の社員はかくして育てられて行つたのである。

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