調伏の返濟
故人が慌しく俥を下りて親友M氏を訪ね、M氏の顏を見るなりいかにも物に怖ぢたやうな樣子で『大變だよ』と叫んだ。M氏は『又例の調伏だらう』と落着き拂つてゐる。故人は、『全くさうぢやない。君、そこの角に豆腐屋があるだらう』『ある。あれは僕のとこの女中の家だよ』『それが今斬られてゐるのだよ』M氏はその意外な言葉に遂ひ釣り込まれて吃驚(びっくり)した。眼をむいて『誰が斬られたのだい』と反問した。故人はこゝぞとばかり『やつこだよ』と言ひ棄てゝ再び俥上の人となり、借りが返せて溜飮が下つたと獨り北叟笑(ほくそえ)んでゐる。それもその筈で、數日前M氏が故人を訪ねて支那土産だといつて、一ツの箱包を置いて歸つた。後で開けて見ると中には何物も這入つてゐない。たゞ紙片に「支那は唐」(品はカラ)と書いてあつたのだ。