大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第四編 飛花落葉(逸話)

多涙

故人は少壯時代から、あやつり、二輪加、落語等の罪のないものを好み、たまには文樂の淨瑠璃を聞くことなどもあつたが、芝居は泣かされるのが嫌だといつてあまり好まなかつた。故人の泣くところは、悲劇的な阿波の鳴戸とか、袖萩とかいふやうなものばかりでなく、忠、孝、信、義、友、愛何んでもあれ、アヽ感心だ、アヽ痛快だ、といふやうなところでも泣き、人一倍泣く動機が多いのみでなく、その泣き方も嗚咽といつた激しさであつた。あの剛毅(ごうき)な人であつた半面、かうした多涙の人でもあつた。

政黨外の重鎭

代議士選擧の逐鹿戰は次第に熱を帶びて來る。故人宛の親展書は各方面から舞ひ込み、候補者自身もやつて來る。應接に遑(いとま)がないとはこんな時をいふのであらう。當時總選擧の度毎に故人の門を叩いた政界の名士も少くなかつた。元來故人は政治運動に餘り興味も關係も有つてゐなかつたが、泣きつかれると嫌と言はれぬ氣性で、親身になつて世話もし、應援もしたものである。曾て原首相が『故人にしてもし政界の人であつたなら一黨(いっとう)の重鎭たるを得たであらう』と評されたことがあるが、その評は、故人が豪邁(ごうまい)闊達で先天的に棟梁の才を有してゐたことを認められた結果と想像されるが、しかし故人は政界に出なくとも既に幾多知名の政客から敬意を拂はれ、慕はれもし、隱然一勢力をなしてゐたことは事實である。

大阪の西鄕さん

太い眉、烱々(けいけい)たる眼、大きな小鼻と耳、一文字に締つた口許、丸い輪廓の豐頰(ほうきょう)、巨大な體軀、線の太い性格等、故人は慥(たしか)に大西郷に似通つてゐた。故に故人を熟知する多くの人々は故人を大阪の西郷さんと呼んでゐた。

三味の音

故人は、調伏とか洒落とか落語とかの罪がなくて奇想天外、人をアツといはせるやうなことが非常に好きでもあり又巧みでもあつた。落語なども玄人洗足の趣があつた。その數ある落語の中で、題して「三味の音」といふのが白眉だらうと言つて、加藤芳太郞氏が記憶の中から話されたものに以下のやうなものがある。

故人は懷舊(きゅう)の情に堪へない面もちで眞面目に語り出すのである。『俺が東京時代の若い頃、一人の藝妓と相思の間柄になつたことがある。彼女は氣立もよく、藝も出來、窈窕たる美人であつたが、父母もなく、兄弟もない淋しい孤兒であつたので、俺はその境涯に同情して常に心から慰めてやつてゐた。しかるにフトした感冒がもとで不治の肺患となり、俺も有ゆる援助を吝(おし)まずに療養させたが、天壽はどうすることも出來ず遂にあの世の人となつてしまつた。眞に心からその死を悼んだものは俺より外になかつたであらう。彼女はその逝かんとする最後に、死んでも貴方のお側を離れませんといつて冥目したのである。その夜俺は彼女の死を悼みつつ睡るともなしにウツラウツラしてゐると、夜は深々と更けて草木も眠る丑三ツ頃、不思議や隣りの佛間から三味の音が幽かに聞えて來るではないか。俺は死んでも貴方のお側を離れませんといつた彼女の言葉に思ひ當り、慄ツとして跳ね起きた。すると三味の音はピツタリと止まつてしまつた。餘りの不思議さに恐々佛壇の扉を開けて見ると、三味の音が止まつたのも道理、今線香がたつたばかりだつたよ』

桃山卓

故人は、日常餘りに多忙であつたから、所謂雅の道には餘り深くたち入つてゐないやうに見えてゐて、その實諸道具や繪畫の方面では相當の鑑識を有ち、蒐集の逸品も尠くなかつた。曾て桃山御陵造營の際、道路新設の爲切り倒された一本の老松があつたのを見た故人は、その老木をむざむざ薪とするに忍びないので、その筋に願つて下賜を受け、記念の爲これで冠卓五個を製作し、桃山卓と命名して親近に頒(あか)つた。形は春日卓で、作は利齋、塗師は惣哲、金具は淨益であつた。しかるに爾後十數年を閲した數年前に、この卓の一個が某家の賣立品中にあつて五百圓の高價で賣却された。以てその品の良かつたことも、故人の優雅な性格も偲ばれるのである。

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