大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第四編 飛花落葉(逸話)

故人の人生觀

『オイ、又公、治平、黄い羊羮を食べないか』と、鹽(しお)辛い澤庵を齧(かじ)つて如何にも美味さうに茶を啜つてゐる故人は、下男と車夫を對手に人生觀の一くさり。『世の中には珍味佳肴(かこう)が乏しくない。茶請の菓子でも羊羮や、最中や、饅頭や數限りもない。しかし俺はこの澤庵が何より好物だ。これが悟道の境地に入つたとでもいふのだらう。人間は何も無い所謂空から有に生れて來て、終ひは死んで空に還るのだ。俺は澤庵が唯一のお菜であつた丁稚時代を過ぎ、今は朝夕味淋(みりん)漬や、奈良漬や、その他酒池肉林に舌皷を打つ身分とはなつたが、結局は昔の丁稚時代に還つて、この澤庵に越した美味いものはない。世の中のことは皆この澤庵と一緖だらう。榮耀榮華(えいようえいが)で暮してゐる間は悟りのまだ開けない前。悟りが開けると元に還つて素朴簡單な生活に寧ろ味が出て來るものだ。秀吉公が狹苦しい簡素な茶室の中に錆びついた釜の湯で穢(きたな)い茶碗に茶を啜つたその時が、尾張中村の生活に還つてほんとうの人間に生れ返つた時である。大解脱のお釋迦さんでもさうだ。華やかな王宮の榮耀をふり捨てゝ乞食同樣の生活をなされたのである。何事でもよい、通り越してしまへばこの鹽辛い澤庵のやうに心から美味くなつて來るもので、これが空に還る悟りの味といふものだ』

どんなに喜んでゐた

何か他人に物を贈つたとき、その使が歸つて來て『大層喜んで居られました』と報告しても、その程度の復命では滿足しない故人は『何んと言つて喜んでゐられた』と問ひ返す。『こんな嬉しいことはない、と言つて喜んでゐられました』『うん、さうか、そんなに喜んでゐられたか』暫くして又思ひ出したやうに『さうか、どんなに喜んでゐられた』と、同じ問答が二、三回も繰り返され、先方の喜んだその表情を詳しく説明するほど機嫌がよく、人の喜びを味はつて味はつて味はひぬくのである。もし先方が不在であつた時などは如何にも失望の色が見えた。これは現社長の義雄氏が宛然(えんぜん)だ。

木材は立木から

故人が創業後間もない時の木材の取引先たる泉南樽井の辻氏のお話をそのまゝ記録して見よう。『大阪の大林氏と始めて取引したのは氏が創業當時のことで、氏は年こそ若いが却々(なかなか)の傑物(けつぶつ)であつた。或る紡績工場の建築用材に生松が入用といふ申込なので、恰好の松山に同道し、山主と交渉して立木のまゝ買取つたことがある。その時氏は、伐採費が何程、濱までの山出し運賃が何程、濱積みから今宮までの回漕費が何程、更に荷揚場から工事場までの運搬費が何程といつた風に、頗(すこぶ)る綿密周到な調査を遂げ、要談も無駄がなくキビキビしてゐた。そして最後に、俺には金は無いが立派な後援者がある、靱の肥物問屋で片山和助といふ人であつて代金は同氏から支拂ふことになつてゐる、もし疑があるなら片山氏に直接照會して調べて貰ひたい、と話に飾り氣がなく赤裸々である。その時の大林氏は創業間もない折だから極めて微々たるもので、未だ一般の信用もなく、他同業者より餘程安くしないと競爭に勝たれなかつたらしい。かうした場合には材料を安く仕入れるより方法がなく、そこで氏は立木からの買入れを考へたもので、當時の請負者中かうした手段に出た人は氏より外にはなかつたやうである。』

夙川の神樣

明治四十二年七月、鉛さへ熔けさうな連日の炎暑、故人は二階の欄干に凭(もた)つて靑田吹く風に凉を納(い)れ、暮れ行く夙川の風光に浸つてゐた時、ふと日沒に至るも猶汗を絞つて稻田(いなだ)への揚水作業を續けてゐる數多の農夫のあることが眼に映つた。聞けば數十日の旱天(かんてん)で水田は將に涸死(こし)せんとしてゐるのである。自分の水田ではないが、性來の任俠から故人はそれを看過することが出來ない。早速大阪の本店に電話し、翌早朝フラツキボール(鑿地機(さくじき))五臺とこれに必要な人夫十數名の急派を嚴命した。翌朝何事かと驅けつけた係員や人夫等に『井戸を掘つてやるのだ。早く水をやらぬと田が涸れる』と言つて機械を適當の位置に据付けさせ、晝夜兼行で急がせた甲斐があつて、三日目に水は滾々(こんこん)と吹き出して來た。お蔭で附近一帶の稻田は涸死を免れて生き生きと蘇生し、その秋幾十百の農家は豐穰の歡に醉つた。後、彼等農民達は故人を夙川の神樣と呼んだのであつた。

稔つた稻穗

同業者中特に別懇(べっこん)の間柄であつた金川新助氏が病氣の時、故人は知人の某代議士とうち連れてその病床を見舞つたことがある。軈て辭し去る時、同家の店員が履物を揃へると、某代議士は默々として何も言はなかつたが、故人は叮寧(ていねい)に『どうも有りがたう』と言つて會釋したので、その店員は却て恐縮したのであつた。二人が去つて後同家の店員達は『稔るほど頭の低き稻穗かな、といふのは大林さんのやうな人を指すのだらう』といつて、しばし感歎の聲が止まなかつた。金川氏の歿後、履物を揃へたその店員は故人の德を慕つて大林組に入つた。即ち湯淺社員である。

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