大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第五編 跋

先主を憶ふ白杉嘉明三

第五回内國勸業博覽會工事

政府は明治三十四年の秋、同三十六年に第五回内國勸業博覽會を大阪に於て開催する旨を發表された。その規模は我が國博覽會として空前の雄大さでこの福音は先づ請負業者をして垂涎萬丈たらしめた。先主の如き無論食指の動いた第一人者であつたが、一方には尨大な築港工事を控へ、パニツクの創痍も纔(わずか)に癒えたばかりのその際に、更に雄大を誇る博覽會工事に手を染むることは何分にも資金がこれを許さなかつた。さりながら將來の大飛躍を夢む先主としては、千載一遇とも稱すべきこの好機を見逃すに忍びない。先主は先づ以てこれを佐々木伊兵衛氏に圖つた。氏も亦好機逸すべからずとなし、氏の取引銀行たる高知銀行大阪支店の諒解を求め、同氏保證の下に資金調達の目標がつき、遂にその第一回入札に於て勸業館、工業館及農林館等の本工事を取得し、次で第二回、第三回と逐次各館の入札に成功し、一部小規模の建物を除くの外殆ど全部の工事を獲得することが出來、その他東京府並に各府縣等の賣店工事も大半を手中に收め、その總額は百萬圓に達し僅一ケ年にして十數萬坪の地域を不夜城化したのであつた。しかして又他に望樓(ぼうろう)、演舞場などの試みも先主の經營で設けられ、かの山岡千太郞氏主催の動物園も先主の肩入で成つたもので、望樓は現新世界の通天閣、動物園は現市立動物園の濫觴(らんしょう)をなしたのである。かくして先主は、他の想像するやうな莫大の利益は收め得なかつたにせよ、兎も角もその聲望に於て一段の光彩を放ち、基礎の上にも強靭を加へたことは事實で、事業伸展の一期を劃(かく)するものとして大にこれを祝福せざるを得なかつたのである。

博覽會は明治三十六年の四月に開會されたのであつて、畏くも 兩陛下の行幸啓を仰ぎ奉り、大阪全市は沸くがやうな賑ひを呈し、別けて大林に一統は功成り名遂げ、且つ望樓、演舞場、動物園等がよく人氣に投じた歡びさへも添ふたので、萬舞奕々(えきえき)ともいふ樣で、正門の橫に大きな事務所を設け、各社員は寫眞入の入場券で揚々として會場に出入するなど、その時ばかりは全く得意絶頂の華かさであつた。かゝる折しも都下の一新聞が、盛に博覽會事務局の惡口を叩き初め、遂に某運送會社事件に端を發して農商務省某書記官並に某屬(やから)が收賄嫌疑で收監され、更に大林も贈賄者(當時の刑法には收賄の罪はあつたが贈賄の罪はなかつた)として取調の飛沫がかゝり、先主も亦僞證嫌疑の下に收監されたのであつた。しかし取調の結果は全く根も葉もない虚構の攻撃と判明したので、本記中の川淵及田中兩法務官の談話のやうに、僅かの期間で豫審免訴となつたのである。先主入監中の一族郞黨(ろうとう)は心配の餘り、延(ひ)ひては業務に影響することが甚大であつたので、私等店員一同は相互に激勵し合つて業務に支障を來さざるよう奮鬪したのであつた。幸ひ先主は博覽會の開期中に豫審免訴となり、又某書記官も靑天白日の身となられたので他に對する面目上肩幅の廣さを感じ、一時に愁雲を一掃することが出來たのである。

日露戰役と先主

明治三十六年の秋頃より日露の風雲黯黮(あんたん)として急を告げ、世は何となくざはめき初めた。常に義勇奉公の念に燃えてゐられた先主のことゝて、血湧き肉躍るを禁じ得なかつたのである。しかも第五回内國勸業博覽會に氣を吐いて社礎漸く固く、幸に小康を得て何がなと機會を狙つてゐた折であつたので、恰もその時、軍略上朝鮮に於ける京釜鐵道會社工事の急施を計畫されてゐたのを幸ひに、これぞとばかり朝鮮進出を決意されたのであつた。

1 朝鮮への進出

朝鮮進出の先陣として白羽の矢が私に中り、私も血氣盛りの靑年時であつたから喜んでその命に服し、先づ同鐵道會社の總裁たる古市公威氏と豫(かね)てから好い岡胤信博士(後に大林組技師長)の添書を乞ひ、その年の十二月中頃、下ノ關山陽ホテルに同總裁を訪ねて工事の下命方を懇請した結果、總裁も大林組の奉公的參加をいたく悅ばれて即時下僚への傳達を約されたのであつた。

越へて翌三十七年一月中旬、愈朝鮮進出を實行に移すべく野々下高助、石川梅吉の兩社員の他朝鮮人の通譯一名を伴つて渡鮮し、先づ草梁(釜山の傍)の京釜鐵道建設事務所に所長岡村初之助氏を訪ふたのであつた。既に古市總裁よりの通告があり、同所長より朝鮮に於ける業務經營上の各種肝要事項を懇示され、且つ請負下令の豫定が凡そ一ケ月ほど後の豫定故その間に於て京城方面の鳥致院建設事務所(所長大屋權平氏)へも出頭の要ある旨を注意せられたので、直ちに海路、仁川に赴かうとしたのであつたが、日露の戰雲益急迫して俄然仁川航路は停止となり、已むなく陸路七十里を徒歩にて踏破せんと試みたのであつた。しかし寒氣凛烈肌を刺す嚴冬に、朝鮮特有の殺風景な原野を行くのだから無趣味も甚だしい。たゞ途中滑稽でもあり、今思ひ出しても失笑を禁じ得ないことは、途中或る部落で中食を攝(と)つてゐたとき、附近の珍しもの見たさの小兒達が群り來つて我々を包圍し、我々の身邊を眺め廻して喋々喃々するので、野々下社員が當意即妙の智惠を絞つてピストルを彼等に擬して白眼み廻したのであつたが、彼等にはピストルに對する知識がないので更に効果なく、寧ろ平氣で面白がつてゐるので、今度は矢庭に起つてステツキを振り廻すと初めて逃げ散つたことであつた。その夜は楡川と稱する一部落の一馬子部屋を借りて宿つたのであつたが、一間に二間ほどの長方形の一棟、床はアンペラ(高梁で編んだ粗末な茣蓙)に四方は荒壁なり、その壁も手で押しつけたやうな粗末なもので窓一つない。一隅の竈に似た突出部の上に石油のカンテラが一ツ淋しく灯つてゐるだけ、夜中最も苦しめられたのは朝鮮特有のピンデイであつて、翌日アンペラの隅を捲ると無數に這ひ出したのには慄ツとした。二月十日漸くにして大邱に着いた。大邱はその地方に於ける古い都で日本人經營の朝鮮家屋の旅館もあり、お蔭で三日間の垢を落すことが出來、暫くぶりに旅の疲れを休めたのであつた。偶そこに京釜鐵道の技師某氏が同宿してゐて、二月九日の仁川沖に於ける我が海軍の大捷(たいしょう)を知らして呉れたので元氣更に百倍し、某技師も交へた祝捷の宴が期せずして展開されて、時の移るのを知らなかつた。

丁度その日郵便局よりの留置電報を受けて見ると、『軍役人夫五千人受けた。直ぐ歸れ』との報なので、私は萬事を野々下、石川兩社員に委ね、一人釜山に戻つて便船を待つこと三日、將に解纜せんとするとき兩社員が喘ぎ々々乘船して來た。兩社員は隨分呑氣なもの、調査は大體判つたし鳥致院行は後日にしたいといふので、兎も角相伴れて内地に歸還したのであつた。實は僅かの期間であつたが各方面に就て相當巨細に調査した結果大體の見透しがつき、この際朝鮮への進出は周到の準備を要し、餘り急激な輕擧妄動は寧ろ冒險を伴ひ、漸進的に乘り出すのが賢明の策であることを確信したので、私は歸來直ちにこれを復命したのであつたが、當時先輩その他の誤解もあり、私の説が馬耳東風に葬られたことは遺憾であつた。

話は戻るが、第四師團の命令に依る軍役人夫五千人の調達は頗(すこぶ)る順調に運ばれたのにも拘らず、イザ出發といふ間際に軍の都合で沙汰止みとなり、張り切つた意氣が遽に弛緩した結果、朝鮮再進出の議が卒然と再燃し、這回は福本源太郞氏を總帥に五、六の社員を附して派遣されたのであつたが、時機を失して一工區の割當にも浴しなかつたことは殘念であつた。たゞ僅に時任精一氏(米國工學士)が永同工區の請負權を取得しながら資金難で施工に至らなかつたのを讓り受け、氏を仁川支店の技師長に聘(へい)してその一工區を請負つたに過ぎなかつた。

一方京城以北新義州間の鐵道敷設を、臨時軍用鐵道監部主管の下にこれ又工を急いでゐられたので、踵を回して更にこの方面への進出を試みることゝなり、新に伊集院兼良氏を聘して探題に、笹田柾次郞氏を仁川支店長として專らその衝に當らしめ、大に陣容を張つた結果、一工區八萬四千圓の本線工事と、約七十萬圓に上る數ケ所の機關庫及五十九ケ所の停車場工事を獲得したのであつた。かうなるとまるで朝鮮を呑むやうな意氣込で、更に工事の總帥として福本氏に代つて若手の萩眞太郞社員に多數の社員並に職工を加へ、大擧して施工に邁進したのであつた。しかし百數十里に亙(わた)つて六十數ケ所に散在する工事が、他日大林組を殆ど死地に陷れやうとは、その時誰しもが夢想だにしなかつた。

機關庫及停車場工事の下命を受けたのは七月三日であつたが、九月末に至る三ケ月足らずの期間に、材料及資金の送付額は實に三十餘萬圓に達し、しかも工事の進行に就ては何等詳細の報告だもないのに、日毎矢つぎ早に資金の請求が頻繁に繼續(けいぞく)されてゐる。折も折、笹田支店長さへ病に仆れて當分の間回復の見込がたゝない。剩(あまつさ)へ鐵道監部よりは本店に對し工事遲延の嚴重な督促電報が次々と飛來し、最後は先主に對する召喚電報までやつて來た。曾てかうした不首尾の經驗を有つてゐない剛直な先主のことだからその心痛は一方でない。遂に先主から『白杉お前行け』といふ命が下つたのである。こゝに於て私は竊に考へた。何人がその衝に當つたとて同樣な結果に終るのではなからうか、まして自分としてはその器でなくこれが收拾は容易の業でない。しかし主命は重い。事に當つて見ると窮すれば通ずで何か良い思案も浮ふだらうと、大膽不敵にも命に從つて十月中旬仁川に向つて出發したのであつた。本記にも詳記してあるやうに、鐵道監部に出頭すると、時の掛官たる渡邊健二工兵中佐(後岡山工兵聯隊長、新潟市長)から、當時二十九歳の私が若造呼ばはりされて大叱責を蒙(こうむ)つたものであつた。しかし幸ひ先主が私の電請を容れて更に二十萬圓の資金と多數の社員並に職工を送つて呉れたので、終局に於て前日の不名譽を挽回し得、曲りなりにも主命を果すことの出來たのを今に私は喜んでゐる。その時最も力強く感じたのは、十一月三日には小原伊三郞氏、金川新助氏等を首班とする有力な應援社員十數名と、大工、左官、鳶の職工等三百餘名の一隊が、借切汽船京畿丸にて仁川着港の豫報に接した時で、私等一同は狂喜してこれを迎へたのであつた。しかるにその時一時に三百名を容れる旅宿が無いといふ騷ぎまで起つたが、漸く軍の援助の下に劇場を徴發して臨時宿所に充て、その内六割を仁川所管に、他の四割を鎭南浦所管に配屬し、一氣呵成に遲延の挽回に驀進したのである。こゝに於て軍當局も大林組の誠意と實力を漸く認識せられ、曩(さき)に激怒された渡邊中佐の如き、若造呼ばはりの叱責も昔語りの笑話に變り、工事期限などにも非常に寬大な處置を採られ、平壤以北の工事は十二月十六日の期限を解氷後の翌年五月十五日まで延期されたのである。

しからば何故にかく遲延したかといふことになるのだが、(一)文化的設備の皆無な百數十里に亙(わた)る區間に、六十數ケ所に分散した工事を施工するのだから連絡及統制上大なる缺陷があつたこと、(二)停車場事務所の建物は小さいなりにもその使用材料は木材、煉瓦、浪板、疊、建具、硝子等の一ト通りのものを要したのだが、當時の朝鮮としてはこれが蒐集に困難で内地より仰いだものが頗る多かつたこと、(三)汽車は勿論舟楫(しゅうしゅう)の便も牛馬車もなく運輸上に非常な困難を伴つたこと、(四)風土氣候等の變化に依る惱みから職工能率が半減されたこと等が主な原因であらう。これを具體的にいふと、朝鮮は今日でさへそんな所があるが、干上つたときが磧の道路で雨のときは川といふやうな所もあり、道路が惡いから車が發達してゐない。故に總べて朝鮮のチゲ(負架、東北地方では痩せ馬などともいふ)を一人々々背に負ふて運搬するのだから、重量物などの運搬は容易でなく、殊に滑稽なのは長尺物の運搬で、皆チゲの上に橫樣に負ふのだから、牛馬の通行時とか道の兩側に障害物でもあると、蟹のやうに橫向に歩まねばならず、能率の上らないこと實に夥(おびただ)しい。又人夫中には鮮人特有の無責任極まるものがあり、荷が重いと途中で一部の荷物を抛棄して知らぬ顏ですまし込んでゐる。後、大林組の印のある小金物類の箱等が路傍所々の叢(くさむら)等で發見されたものが數々あつた。さうした場合僅かの材料でも施工上大なる支障を來すことはいふまでもなく、その他瑣細なことで躓いた例が少くないが、就中(なかんずく)疊又は窓硝子の如き、内地よりは註文寸法のものを送つて來ても、實際に當つて見ると僅の差で敷くことも嵌込むことも出來ず、疊ならば疊包刀、疊糸、縫ひ針等の必要が俄に生じ、窓硝子の場合は硝子切が入用となり、かうした咄嗟の註文が各現場から何日かを費されて仁川支店に來る。支店から更にこれを内地に請求する。遂に内地から荷の屆いて現場に送達されるまでに約一ケ月以上を費した實例が乏しくない。だから如何に督勵しても思ふやうに進行せず、工事の遲れるのは蓋(けだ)し已むを得なかつたのである。

以上幾多の困難はあつても、陣容樹て直し後、十二月中旬頃までの一ケ月半に於ける工事の進行は特に目覺しいものがあり、初めて愁眉を開くことを得たのであつた。しかるに突如として更に困難が湧いて出た。それは資金の缺乏を來したことである。已むなく本店に對し五萬圓の追加送金を電請したのであつたが、今度は先主から斷乎として拒否せられたので、私は軍當局に縋るより外に途がなく、早速現在の出來高調書を作成し、第一銀行の當座帳を携へて鐵道監部に山根將軍を訪ね、具に現下の窮状を愬(うった)へて中間支拂の恩典を悃請した。實際問題として着工後六ケ月を經過し、しかも五十萬圓以上の資金が投下されてゐることは銀行の勘定帳に見るも明かな事實なるにも拘らず、その間一回の中間拂を受けたことが無かつたので山根閣下もいたく同情せられ、恰もよし鐵道監部の石川技師長が現場巡視の直後であつたのを幸に、軍の制規上その檢分の報告を出來形調書に代へ、中間拂を許されて二十七萬圓を受領したのであつた。こゝに於て當座の必要な資金を留め、殘りの二十萬圓を直ちに本店に廻金したのであつたが、何處とて金子の入用な年の暮に、豫期しない二十萬圓を入手した先主は非常に喜ばれたさうで、私も焦眉の急が救はれて安々と年の瀨を越すことが出來、窮すれば通ずとはこんな事かとその時思ひ當つたのであつた。その後水暖く桃の花咲く頃に至つて進行能率は彌(いや)が上にも增進し、五月十五日の期限には、さしも困苦を極めた工事が目出度く完成したのであつて、關係當局も非常に歡ばれて感状の御下附さへ約されたのであつた。

話は遡るが、私が仁川着早々二十萬圓の資金と社員及職工の派遣方を要求した時、直ぐ樣先主から承知の返電を得た際の私の歡喜は、恐らく一生を通じての最大なもので、その時ほど先主の偉大さと、先主の自分に對する信任の深厚さに感じたことはなかつた。この人ならば命までもといふ意氣が油然として私の胸に漲(みなぎ)つたのもその時であつた。實際私は前述のやうに、無準備の輕擧妄動的な朝鮮進出の危險を主張したのであつたが遂に容れられず、心窃に怏々として進退をさへ覺悟したほどなのに、かうした先主の私に對する信任の厚いことを知るに至つて、既往の不快など何處へやら消え失せ、どんな辛苦でも堪へ忍び、蹉跌收拾の難關に當らうと決意したのであつた。しかして又私は朝鮮着任直後と記憶するが、私の卑見が或は困難に赴く先主の大きな胸底を忖度(そんたく)することが出來ず、所謂燕雀的の小さな觀方であつたかも知れないが、私はたゞ先主を思ふの餘り、輕擧妄動の大に愼むべきことを最も露骨卒直に誠意を披瀝して進言したのであつた。しかるに先主は、私のこの生意氣な出過ぎた態度に腹も立てられず、快よく私の卑見に耳を傾けられたさうで、後日これを聞いた時の私は寧ろ慚汗(ざんかん)背を沾(うるお)すの思ひをしたのであつた。部下の苦言を容れる度量の大は名君の器でなければ出來得ないことで、這般(しゃはん)の難工事を首尾よく完成し得たのも結局は先主の大度量に依つたことを私は痛切に感じたのである。しかして先主も亦この朝鮮工事に於て初めて私の實意を知つて呉れられたかのやうに思はれる。即ち淺薄には相違ないが、私の卒直にして飾りのない終始一貫の主張と、一時的の行懸りを一擲して難に赴いた至誠とが、いたく先主の心を動かしたものゝやうで、明治四十二年の合資會社組織の際に、私は他の先輩を凌いで伊藤哲郞氏と共に代表社員に拔擢され、且つ多額の出資權をも贈與された如き、明治三十四年の財界危急時の突破、大阪築港工事に擧げた成績等多少見るべきものがあつたにしても、もし朝鮮工事が無かつたなら、私はかく迄の信任を博することは出來得なかつたと思ふ。これは自畫自賛の傾きはあるが、至誠は神をも動かすといふやうに、私は今以て『終始一誠意』といふことを唯一の信條として世に處してゐるのである。

その後私は殘務を終へて待機中、九月の中頃に腸窒扶斯(チフス)を病み、療養四十日餘を費して殆ど全快に近ついたので、内地に於て豫後の靜養をなさんものと、仁川支店には代行の望月社員を殘し、私は一ト先内地に歸還することゝなり、十一月一日大阪に歸着したのである。

臨時軍用鐵道工事は大林組として缺損の下に終局を告げたが、一面滅私奉公の意義が徹底されて、先主は心竊(こころひそか)に快を叫んだのであつた。しかして先主は上工事にも勝る盡忠報國の誠を效した誇りある事蹟を一ツ有つてゐる。それは上工事の下命と殆ど時を同うして、新義州に製材工場を新設して製材に當るべき旨の軍當局よりの命に接し、苦心の末使命を全ふしたことで、これは先主の朝鮮進出中特筆大書すべき大きな事績と思ふ。戰前露國の木材公司が鴨綠江材の經營に當つて相當の實績を擧げてゐたが、我が軍の占領と共に龍嚴浦に集積せる木材が我が軍の手に歸したのを好機に、製材工場新設の下命となつたものである。新義州は今日でこそ立派な市街をなしてゐるが、當時は一面荒野原の米鹽(べいえん)をだに得るによしない未開地で、そこに相當大規模且つ整備した製材工場を新設するのだから、隨分と人知れぬ辛苦が拂はれ、しかも疾風迅雷的に設備を了したことは偉とするに足るのである。しかるに折角の工場も三十八年四月三日、創業開始後數ケ月にして祝融子の災を蒙つて烏有に歸したのであつたが、直ちにこれが再建を決行し、しかも前工場の短所を補つた最も完全な工場が出來上り、發電設備をなすと共にその剩餘電力を以て新義州驛に燦然たる電燈を灯し、國境の鮮滿人を驚かしたのであつた。

この製材工場は、最初軍用鐵道の枕木製材を主としたが、中途より更にその範圍を擴めて建築用材にまで及び、鮮滿の開拓に貢献するところが尠くなかつた。即ち鮮滿國境文化の光はこの製材工場から發せられたと言つてもよく、その後朝鮮總督府營林廠の經營に歸屬し、現在東洋に於ける有數の製材工場として巍然(ぎぜん)たる偉容を誇つてゐる。そして時の製材所次長であつた多田榮吉氏の如きは、今以て同地に踏み留まつて各種の事業に當り、常に國境警備の要を高唱して歴代の總督に愛せられ、人呼んで氏を國境督軍と尊稱するに至り、遂にその勳功を認められて一野民にして從六位勳七等に敍せられたのである。實に氏は大林の畑に育つた先主の股肱(ここう)であり、その名譽の叙位叙勳に對しては先主も亦地下に莞爾たるものがあるであらう。

以上朝鮮への進出は聊(いささ)か軍國の爲に氣を吐いたものであつたが、更に内地に於てはこれに勝る尨大な工事の用命を拜し、先主の事績を倍々光輝あらしめたのであつて、便宜朝鮮工事をも併記して年次を逐ふてこれを擧げると、

明治三十七年二 月
軍用人夫五千人調達
同     二 月
第一回旅順口閉塞船石材積込
同     三 月
第五師團臨時構築物其他工事
同     三 月
第二回旅順口閉塞船石材積込
同     四 月
第三回旅順口閉塞船石材積込
同     六 月
大阪陸軍豫備病院天王寺村其他分院工事
同     七 月
軍用鐵道平壤義州間第三十一工區工事
同     七 月
軍用鐵道汗浦外十ケ所停車場機關庫及五十九ケ所停車場工事
同     七 月
軍用鐵道製材調達(新義州製材工場新設)
同     八 月
廣島陸軍豫備病院第六分院工事
同     八 月
善通寺陸軍豫備病院第二第三分院工事
同     八 月
大阪陸軍豫備病院天王寺本院其他工事
同     九 月
軍用鐵道碧渡停車場及仁川宿舍工事
同     九 月
大阪陸軍豫備病院天下茶屋分院工事
同     九 月
大阪砲兵工廠擴張敷地々均工事
同     十二月
大阪砲兵工廠火具檢査組立及藥盤工場其他工事
同     十二月
臺灣(たいわん)要塞司令部用木材其他調達
同     十二月
陸軍被服廠大阪支廠(ししょう)倉庫工事
明治三十八年一 月
濱寺俘虜(ふりょ)收容所工事
同     二 月
濱寺俘虜收容所附屬病院其他工事
同     四 月
大阪砲兵工廠藥莢(やっきょう)水壓(すいあつ)工場其他工事
同     七 月
大阪砲兵工廠火砲製造所鞍工場其他工事
同     八 月
和田岬臨時陸軍檢疫所工事
同     八 月
大阪砲兵工廠辨天島火砲製造所工事
同     九 月
呉海軍工廠聯裝砲架旋廻盤試驗架工事

等であつて、その他の小工事は枚擧に遑(いとま)がないのでこれを省略することにした。以上二十數件の工事中朝鮮工事以外の特に意義ある工事の二、三を拾ひ、その梗概を述べて見よう。

2 旅順口閉塞船石材積込作業

本記に於て既に詳細に述べられてあるが、三回に亙るその作業は、一時間たりとも豫定期間を遷延せば軍の作戰に直接至大の影響を及ぼすのであるから、それこそ石に齩(かじ)りついても期日は嚴守しなければならず、加ふるに機密の漏洩は周到嚴密な取締の下に絶對に防止するの要があり、もし一朝事を誤つたが最後、先主は勿論のこと事に當つた我々共に至るまで腹搔切つて罪を軍國に謝さなければならない謂はゞ死を賭した重大任務であつたから、殊に直接の責任者たる先主の如き、その苦心のほど察するに餘りがあつた。第一回は船數五隻、第二回は船數四隻で共に總噸數も一萬二、三千噸に過ぎなかつたから苦心の程度も稍輕い感はあつたが、最終の第三回のときは船數十三隻(何かの都合で閉塞には十二隻が參加した)ので總噸數四萬五千噸に達し、一隻平均三千噸級の商船の各室に滿載する石材の量に至つては、一寸考へても並大抵の量ではなかつたのである。

この第三回の石材は瀨戸内海の家島に於て積込んだもので、本船の起重機と人夫の肩で積込むのだから別段の技巧も要しないが、何分七日間といふものは上下を通じて不眠不休のブツ通しに働いたもので、眠くなると歩行しながら眠り、甲板のロープに躓いて轉倒したことなども度々あり、各人夫ともよく身體が續いたものと今以てこれを奇蹟視してゐるのである。事實あの時の苦勞は筆舌に盡されぬほど深刻なもので、私としても空前絶後と稱し得るのである。しかも期日に先だつこと三日の速さで積込みを了したことは、如何に報國の大精神が上下に漲(みなぎ)つてゐたかが察せられ、その時の先主の風貌が髣髴(ほうふつ)として今に眼前にちらついてゐる。深く刻まれた眉間の竪皺、眞赤に血走つた眼光、ちぎれるほど下唇を噛んだ一文字の口許、これは何を物語るであらうか。作業終了後先主は頰の無性鬚を撫でながら『少し痩せたな』と言はれたが、痩せるのが當然で、そこに先主の尊い殉國的氣魄を窺ふことが出來たのである。

3 大阪に於ける陸軍豫備病院建築工事

本工事は大阪城前廣場、桃山驛西方廣場、阿倍野(天王寺村分院)、天王寺公園、天下茶屋の五個所に分布する病舍を、明治三十七年六月十一日を第一期に、八月二十六日を第二期に、九月二十四日を第三期に分たれて工築したもので、先主にとつては最初に味つた尨大且つ短期の工事であつたのである。まして最初に請負つた大阪城前廣場及天王寺村分院の工事は、着手の日より竣功に至る二十五日間は稀有の梅雨で一日の晴れた日とてなくぶつ通しに降りしきり、他所目にも氣の毒と思はれるほど苦難を甞めたのであつた。しかるに一日の遲滯もなく期限通りに竣成せしめたのであつて、非常な缺損に終つたことは何人の眼にも明かに認識されたが、先主は一言の泣言さへ漏らさなかつたその雄々しさには、掛官の伊藤經理部長もいたく感歎せられ、その後次ぎ次ぎの工事は殆ど特命で先主が命を受けたのである。しかして數ある病院中天王寺本院の如きは最も尨大且つ急を要したもので、東は阿倍野街道より、南は關西線北側に沿ひ、西は住吉街道、北は逢阪下に至る舊(きゅう)第五回内國勸業博覽會々場の全地域に亙り、百八坪の病舍九十一棟、その他事務室、藥局、炊事場等を合すると延一萬餘坪に達し、病舍を繫ぐ渡廊下だけでもその延長十四丁餘に及び、もし病室全部を一周せんとせば實に四里の長さを歩まなければならず、その如何に尨大であつたかゞ想像されるのである。しかるにこの大工事を八月二十六日に着手して九月末迄の僅に三十六日間で竣功させ、しかも殆ど時を同うして桃谷驛西方に二十七棟の病舍その他を建築し、更に九月二十四日より十月二十三日に至る三十日間で、天下茶屋に延七千坪に達する六十棟の病舍その他を工築し、何れも工期内に施工を完ふしたのであつて既に本記に記述せる濱寺俘虜收容所工事の二萬四千餘坪を二十一日間に竣功せしめた驚異的急工事に次いで、これ又驚異的短期工事であつたのである。その他に廣島及善通寺の豫備病院並に朝鮮に於ける軍用鐵道の各種工事あり、應接に遑がないとは眞にこの時であつて、目の廻るやうだといふが全く目の眩むばかりであつたといふのが穿ち得た言であらう。しかして三年前先主が心血を灑(そそ)いで建造した内國勸業博覽會跡にかやうな大工事の施工に當り、中には四、五殘存せる建物が直ちに御役に立つたなど、後更に大阪土地建物會社の通天閣その他の工事に携はり、同じ場所で三回の工事に當つたのは不思議な因縁といふべく、先主としては感慨無量のものがあつたのである。(本工事は本記に脱漏の爲特に詳述した)

4 濱寺俘虜收容所工事

かの建築界の權威者たる辰野博士が『如何に建物がバラツク式とはいへ、鬼神でない限りは、しかも嚴寒肌を剪(き)り風浪高く海上運輸の至難な時、僅か二十一日間に工築されるものでない』と語られ、御自身が親しく現場を視察されたのであつたが實際出來上りつゝあるその現状に驚かれ、先主を『建築界の鬼才』とさへ激賞され、當時斯界(しかい)の一奇蹟として喧傳されたのであつて、全く先主の疾風枯葉を捲くその獅子奮迅振りには何人とて驚かざるものは無かつた。その頃から『大林の突貫』といふ評語が大なる波紋を描いて市井の間に喧傳され、爾來今日に至るまで自他共に許して來たのだが、當時は日露戰の眞最中でもあり、突貫そのものが間髮を容れざる底の急激な行動であるので、大林組もその突貫の如く急設工事に巧みであるといふ謂はゞ賞讚の辭であつたのである。實際先主は性急の性格からばかりでなく、常に『午前七分に午後三分』といふことを絶えず強調されてゐて總べての工事をこの信條の下に進めて行つたからかくも輝しい事績を擧げ得たのである。故に最初は緩つくりと最後の五分間に突貫をかけるといふのでなく、即ち午前七分だから着工の最初から既に突貫氣分で邁進したことはいふまでもない。しかして本收容所工事の請負は、表面その大部分を大林組に、他の一部分を大倉組と北陸土木會社とに分割して下命されたのであつたが、方一里にも亙る出合丁場は、下請間に於ける職工人夫の爭奪又は材料の混淆(こんこう)等よく係爭問題の起り易い弊があるので、大倉組は全部を擧げて大林組に施工を依賴せられ、更に北陸土木會社も中途よりこれ又一切を委讓されるに至り、二萬四千坪の大工事は遂に大林組一手で竣功せしめたのである。

後、本工事の衝に當つた主任の加藤芳太郞氏が出來上つた建物を瞥見して、『よくもこんなものが二十一日間に出來上つたものだ』と自分の眼を疑ふほど暫し感慨に耽つたといふことであり、先主も亦或る人の問に答へ『今後こんなものをやれと言はれても二度とやれませんよ』と述懷を洩らされたさうで、この先主の言は自己の精根を傾け盡したことを意味し、その時の氣合がかくさせたもので、急工事としては恐らく我が建築界に於ける空前絶後のものであるだらう。

以上數個の工事は日露戰役中に於ける代表的工事であるが、その他二十件に渉る總べての工事が軍機軍略上緊急且つ重要たらざるは無く、全く汗と血に彩られた苦鬪を物語るもので先主は常に自ら陣頭に立つて叱咜號令し、時には職工人夫等と寢食を共にしたことも屢(しばしば)あり、義勇奉公の大精神と、堅忍不拔(ふばつ)の大努力と、周到精緻の畫策とを窺ふに足り、しかも閉塞船艤裝の功名談など、爾來先主の口から洩らされたことがなく、恬然(てんぜん)として功名に超然たるその奧ゆかしさは普通人と全くその型を異にしてゐることが判るのである。

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