大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第四編 飛花落葉(逸話)

八面六臂

現取締役の本田登氏が學校を出て入社早々の或る夜、一人殘務にいそしんでゐると、午後九時頃、店内の靜けさを破つて靴音高く故人がやつて來て、『圖工さんは居らんか、圖工さんは居らんか』(當時故人は設計部員を圖工と呼んでゐた)と甲走つた聲で呼び續けた。幸ひ本田氏がゐたので大に喜び、數葉の靑寫眞を出して、『この圖面は一時間を限度に師團司令部から借りて來たものだ。鉛筆の走り書でよいから必ず一時間以内に描寫して貰ひたい』と火のつくやうな命令であつた。それは無論難事である。しかし本田氏は剛直な故人の性格を聞いてゐたし、且つ司令部に對する故人の面目を考慮すると出來兼ねますともいはれず、承知しましたと直ちに描寫に着手した。靑寫眞の夜間描寫は、透視が利かないので電燈を下にして纔(わずか)に描寫し得るといふ困難さであつた。その一時間の描寫中に故人は自ら八方に電話してゐる。その電話は靜かな夜間のことだから手に取るやうに聞える。それが驚くべしだ。故人は單に圖面を一瞥したばかりで、仕樣書もなく、無論材料の拾ひ出しもしてゐないのに大體ではあるが、八百坪に餘る建物の用材を材種及寸法別に堂々と材木屋に註文してゐるのである。ましてやその納期が翌朝の午前六時で、枚方の禁野火藥庫へ搬入といふのだから、註文後僅に八時間しか餘裕がない。故人は積出し仲仕の召集から馬力の手配りに至るまで細々と入念に指圖し、最後に、もし時間に遲れるやうなことがあれば以後絶對に取引を斷絶するとまで嚴命してゐる。註文を受けた二、三の材木店はその夜總動員で徹夜したことはいふまでもない。その他大工、手傳、土工等の各下請に對しても同樣、人員數と集合時間及場所を嚴重に申渡したのである。やがて各種の註文が終つた頃には、別に召集の命を受けた伊藤白杉兩氏を首(はじ)め、三、四の社員が集まつて來て、禁野火藥庫急造の打合せが遂げられた。實にその一時間に於ける故人の奮鬪ぶりは八面六臂の鬼神を髣髴(ほうふつ)させた。本田氏も命に依つて翌朝午前五時の初發電車で現場に驅け付けると、ほのぼのと明け初める朝の靜寂を破つて遙に遠雷のやうな轍の響が聞えて來る。それが次第に近づいて午前六時になると木材を山積した馬車が數十輛、連々として勇ましく現場に殺到したのである。又豫定時刻には職工人夫等も悉(ことごと)く集り、かくして數棟の大火藥庫は三日間で完成したのであつた。

苦學生の俥夫

故人が曾て廣島の吉川旅館に宿泊中の或る夕暮、偶呼んだ俥夫が體軀は相當逞しいが年齡はまだ二十歳になつてゐないらしく、殊に眉目も秀麗といつてよく、言語、動作等總べての調子が何處となく普通の俥夫と異つてゐる。これに氣付いた故人は途中車上から種々の問答を試みた結果、果してそれが奇特な苦學生であることが判つた。故人は所用を辨じて旅宿に歸るなり、遠慮する彼を無理に自分の室に伴なひ入れ、先づ茶菓などを饗して(もてなして)大にその向學の志と奮鬪の意氣を褒め、環境に惠まれない靑少年が必ずしも不幸でないことを自己の經歴に徴して説明し、その苦難が寧ろ人生の快事なりとして將來への邁進を激勵した。そして『足を止めて濟まなかつた。これは今夜の俥賃だよ』といつて十圓紙幣を與へた。何處から漏れたか數日の後、このことが當時の藝備日々新聞に掲載され、故人は『陰德があまり早く陽德になつたのには困つたよ』と苦笑した。

神のやうな指

故人の食膳には、三百六十五日を通じて毎朝必ず目の下一尺位の大鯛が乘る。好きだといふばかりでなく、その日その日の縁起を祝つたもので、冬の日などは前夜に鹽燒(しおやき)として用意するやうなこともあつた。故人が或る夜長にフト眼を覺した時、頻(しき)りと空腹を覺へたので、無邪氣な例の茶目氣分も手傳ひ、ぬき足、さし足、戸棚を漁つて例の鯛をば半分ほど平げ、殘りを元に納めてグツスリ寢込んだことがある。この事は無論夫人とても知らなかつた。翌朝臺所では大騷ぎ、夫人の外五、六の女中と料理人及下男などの總出。猫だらうか、人だらうか、箸が置いてあるから人に違ひないが、盜賊にしては足跡がない、誰だらう、お松どんでないか、お梅どんだらう、いや又さんだ、竹さんだ、と疑心暗鬼を生じて甲論乙駁(こうろんおつばく)、兎も角又さん大急ぎで肴屋へ走つておくれ、などゝいふ騷々しさ。そこに故人が可笑しさを耐へながら忽然と現はれ、『何を騷いでゐるのか。何、鯛を食つたものがあると。それは怪しからん。頭の黑い鼠に相違あるまい。俺の指は神樣のやうなものだ。どの奴が食つたか指して見よう』といつて皆の顏を睨みながら、故人の指した手は大きな輪を描いて動き出したので何れも顏見合せて靑くなつて慄へてゐる。輪を描くこと數回、突如『この奴だ』と自分の顏を指して呵々大笑(かかたいしょう)した。夫人を首め皆の者は胸撫で下して笑ひ崩れた。

不思議な頭

註文者の意思なり、理想なりをよく理解して、これを完全に表現するのが請負者としての唯一の任務であらねばならない。故人はその任務を果すに百パーセントの能力を有してゐた。雷閃(らいせん)のやうに銳い故人の頭腦は迅速且つ完全に註文者の意思を呑込んだもので、時には幾多の犧牲を拂つてさへ註文者の希望を滿足させようと努力したものである。殊に算數に就て協議するときなど、『はア、はア』と言ひながら、他の者が算盤を撥いて三十分もかゝる複雜なものでも、約五分間も瞑目する間に正確な答案が出來、『いくらいくらになります。宜しいやりませう』といつたやうに即座に答辯したもので、その暗算は曾て一度も間違つたことがなかつた。

寢臺(しんだい)の交換

廣島電軌を計畫してゐた當時、武岡、山岡の兩氏と共に大阪驛から夜行列車で廣島に行つたことがある。その時同列車に見知らぬ肥大長幹な紳士が乘合せてゐて、上段の寢臺券を購つてゐながら『僕の寢臺は下の筈だ』とボーイを捉へて如何にも傲慢な態度で怒鳴り散らしてゐる。專務車掌がやつて來て、それは貴方のお間違ひですと注意しても、尚執拗に尻理窟を列べるので、他の乘客はその紳士の態度を顰蹙(ひんしゅく)してゐた。あまりのことに、故人は傍から『私は下ですが、それほどお望みなら下をお讓りして上げませう』と極めて氣易く申出たので、流石にその紳士は己を愧ぢて恐縮し、『イヤ結構です。大變御迷惑を掛けました』と忽ちにして騷ぎが靜まつた。

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