大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第五編 跋

先主を憶ふ白杉嘉明三

關西馬匹改良株式會社(鳴尾競馬場)の創立

本事業は中途法規の變更に阻まれて有終の美を濟すに至らなかつたので、本記の事業編中にはこれを除外したが、先主が一般事業界に手を染めた最初の仕事でもあり、且つ競馬旺盛の現况から觀ると、事業の優劣を見透す上に於て確に一隻眼を有してゐられた點と、設立までの經過、經營等に於て最も良く先主の手腕が躍動してゐるやうに思はれるので、私から特にこれを發表することにした。

日露戰役は我が軍の大捷(たいしょう)に終つたが、しかし彼我兩軍の馬匹を比較すると我に甚だしい遜色のあることが認められ、戰後この苦い經驗が動機となつて遽に馬匹改良の急が叫ばれ、馬政局などの出現を見るに至つたのである。英國などでは、馬に對する話題を有つてゐないと紳士としての交際が出來ないと云はれるほど馬に對する知識が一般に普及せられ、自然我が國に於ても先づ以て一般國民に馬に對する智識を普及せしめるのが、改良の目的を達する捷徑(しょうけい)であるといふところから、その方法として多少の弊害は伴ふにしても、歐米等に專ら行はれてゐる競馬の公認より外に途があるまい、といふことに政府の方針が一决し、遂に馬券發行の競馬が公認されることゝなつたのである。その决定を見たのは明治三十八年の暮頃と記憶してゐるが、かうなると關西に於ても敏感な事業家は孰(いず)れも我れ先と時の馬政局に競馬場開設の出願をしたもので、常に慧眼を以て目されてゐる岩下翁の如き、かうした機會を逸する筈がなく、翁は東京の久能木宇兵衛氏及地元の先主並に志方勢七氏等と語らひ、この四人が中心となつてその他の同志を糾合し、直に出願の手續を採つたものである(以上四人が中心人物であつたが更に久能木氏と先主が矢面に立ち、前田庄介氏が萬般の事務を處理した)しかるに同一出願が他に五件あり、時の政府はこれが取捨撰擇(せんたく)に窮した結果、結局各出願團體の任意妥協を勸告するに至つた。そこで先主は他の出願者間を奔走し、所謂六國連衡の策を講じたのであつて、遂に見事他の出願者を説き付け、明治四十年六月認可を得、茲(ここ)に初めて關西馬匹改良會社が生れたのである。實に先主が事業界入りの處女作として洵に鮮かな斡旋振りといふべく、將來の雄飛が約束されたかの觀があつた。

そして又先主はどちらかといふと濶達の氣分を多量に有つてゐて派手好みでもあり、且つその時の政略上陣容を張るの必要もあつたのだらう、社長の秋山恕郷氏(最初は茨木惟昭中將)の外入江鷹之助氏、久能木宇兵衛氏、奧山政敬氏、鹿島秀麿氏、渡邊菊之助氏(先主代表)、關直彦氏等を重役とし、又この會社を母體として別に組織された競馬倶樂部の理事には志方勢七氏、星野則行氏、島德藏氏、岡村忠利氏、江森綠郞氏、久宗朝光氏、前田庄介氏、内藤正明氏、七里淸介氏及先主等が名を連ね、實に旌旗(せいき)堂々たる觀があつた。

競馬の開催は總ての準備工作を終へて十一月中旬といふことに豫め目標を置いたのであつたが、用地買收の決定が八月末に至て漸く纒まつたやうの始末で、十一月中旬までは後二ケ月半を餘すのみで、その間に於て廣大な馬場及觀覽席、事務所、廐舍、馬糧庫等を構築しなければならないことゝなり、これを引受けた大林組は晝夜兼行工を進め、最初の競馬開催日たる十一月十七日の朝に至つて漸く竣成したのである。今日まで我が國に於ては例のない建築であつたので、設計上他に據(よ)るべきものがなく、己むなく藤波主馬頭の所持せられた外國競馬場の寫眞を拜借し、これによつて大體の設計を樹たてのだからその不充分なるは推して知るべく、隨(したが)つて工事の上に於ても豫想外の難儀をしたのであつた。

愈十一月十七日に第一回の競馬が開催されたのだが、關東に於ては夙くから橫濱の競馬場があり、東京に於ても不忍池畔に開催された歴史を有つてゐるので、多少なりとも一般民衆に競馬の興味が植付けられてゐたが、關西に於ては眞に最初の試みであつたから、その成功を期する上に於て一般に興味をそゝらせる何等かの功妙な手段を講ずるの必要に迫られ、誰れかの案で、俳優、各花街の美妓等に馬券(五圓)を配つて人氣を煽つた爲に、その名案は忽ち効を奏し、第一回(四十年十一月)の馬券賣上高が五十萬圓、第二回(四十一年一月)が七十萬圓、第三回(四十一年四月)が百萬圓といふ向上を示すに至り、逐次成功の緖に就いたのである。勿論今日の賣上高と比するときは洵に少額ではあるが、何れも三日間の開催であり、一株十二圓五十錢の拂込株價が十七圓臺に昇騰したことより見るも、競馬の搖籃(ようらん)時代としては確に成功と見なければならないのである。

しかるに、四十一年の議會の劈頭(へきとう)貴族院に於て谷干城議員その他より、馬券發行の公認は善良なる國民の風敎を破壞するものなりとの理由で、痛烈に政府を攻撃された結果、遂に時の寺内内閣は四十一年三月、同年五月以後に於ける馬券發行の禁止を發令するに至つたのである。時利あらずで、その後鳴尾原頭の競馬場は雜草の茂るに任せ、纔(わずか)にその中部を野球場などに使用されてゐたに過ぎなかつたが、最近復活されて再び大競馬場の出現を見るに及んで、過去に於ける先主の着眼が初めて大成され、尋常でなかつた勞苦が酬はれたことを、三十年後の今日に於て、私等までが竊(ひそ)かに快心を禁じ得ないのである。嘸(さぞ)かし先主も地下にほゝ笑んでゐられるであらう。

先主の先見で憶ひ出したが、餘談ながらこの機會に一、二の例を擧げて見ると、後段記述の阪堺電車の設立認可を得たのは明治四十二年十二月であるが、これは第二回目の出願で、不許可とはなつたがそれ以前に田淵知秋氏等と相圖つて出願したことがあり、先主の阪堺電車設立の着眼は相當古かつたのである。それからこれも餘程以前の明治三十八年頃、品川灣の埋立を計畫されてその筋へ出願し、不幸出願後十ケ年ばかりを經過して不許可となつたが後幾許ならずして東京市營の下にドシドシ埋立が實行され、逐年廣大な地面が洲崎を起點として品川灣に突出して行くのを見てゐる。當時先主の出願が許可となつてゐたなら、恐らく先主は東京に於ける有數の大地主となつてゐられたであらう。

廣島瓦斯會社の創立

大林組は、日露戰役前後に於て第五師團及呉海軍より數多の用命を拜し、特に廣島市に支店を設けた關係上、先主は自然同地の有力者とも交渉が出來、偶明治四十二年の春、その中の松浦泰次郞氏等から同地に瓦斯會社創立の相談を受けたのであつたが、廣島の地たる戰時中は大纛(たいとう)を進めさせ給ひし大本營の所在地で、指顧の間に呉あり、宇品あり、將來伸び行く山陽第一の要地でもあるところから、機會を狙つてゐた先主は絶好の事業とばかり、直にこれを岩下翁に謀つたところ、岩下翁もこれに共鳴したものゝ、瓦斯事業は片岡直輝翁の畑だから同翁に謀るに如かずといふことで、先主は更に片岡翁の門を叩いてその敎を請ふたのである。その結果有望と決し、急轉直下、その秋十月に資本金百五十萬圓を以て創立を見るに至つたものであつたが、最も驚くべきことは、先主は一宵の歡談でどういふ工合に折衝を遂げたものか、大阪瓦斯に盤踞して梃子でも動かなかつたあの物堅い片岡翁の擔ぎ出しに成功して、創立と同時に新會社の社長に片岡翁を推戴したのであつて、小林一三氏の如きは、先主が事業界に雄飛した事業そのものゝ事績は兎もあれ、片岡翁を擔ぎ出した一事には全幅の敬意を表さずにゐられないとまで感歎されてゐる。會社役員は先主の外岩下翁、片岡翁、志方勢七、渡邊千代三郞、松浦泰次郞等の諸氏であつた。

廣島電氣軌道會社の創立

廣島瓦斯の創立準備中、更に廣島の有力者から廣島電氣軌道會社創立の相談を受け、これとて片岡、岩下兩翁の賛成を得て議忽に決し、疾風迅雷的(測量などはお手のものであるから僅の期間で出願書類を完成した)に出願の手續を採つたのである。然るにこの出願線と規矩(きく)を合せたやうに同一なものを、既に東京派と稱する福澤桃介氏を中心とする一派が、一ケ年前より計畫を樹てゝ縣當局とも度々緊密な交渉を重ね、漸く測量其の他の準備を終へて今や將に出願に及ばんとしてゐた矢先であつたから、早くも大阪方に先鞭をつけられた東京派は愕然として色をなし、兎も角急遽出願手續を採るに至つたのであつた。こゝに於て縣當局としては、東京派と度々折衝を重ねてその計畫を熟知してゐる以上、單に書類上の形式のみを尊重する譯にも行かず、雙方(そうほう)の板挾みとなつて非常に苦心されたのである。そこで遂に知事自らが仲裁役となつて妥協の道を開かんものと、雙方の懇談會を主催するに至つた。しかるに席上東京派を代表する松永安左衛門氏が昂然として、東京派出願の路線計畫は、既に一ケ年前より精密な測量を重ねつゝ口頭を以て度々當局に申出でゝある、如何に形式的な書類上の先願とは云へながら、杜撰な机上設計に類する出願を敢てしたものに對し、愼重事に當つて來た東京派同樣にこれを取扱はれることは甚だ腑に落ちぬ、かゝる出願は斷然却下されるのが當局として採るべき公平な措置ではあるまいか、と知事並に當局に向つて肉迫し、次で大阪方を代表した山岡千太郞氏が先願權に對して松永氏の所論を駁するなど、その日の會合は妥協どころでなく頗(すこぶ)る險惡な空氣で滿たされた儘、相互熟慮再考を約してお流れとなつたのである。ところがその夜先主は飄然(ひょうぜん)として松永氏の宿所を訪ねて氏の雅量に縋つた結果、東京派は無條件の下に出願權を放棄するに至つたもので、知事公首(はじ)め縣當局はお蔭で肩の荷が下りたとまでいつて喜ばれ、一夕の談笑によつてかくまで縺れた問題が解決したのは、當時關係者から一種の奇蹟として眺められたのであつた。他日先主が人に語つて「東京派も出願の計畫があるといふことを聞いたので、技術者を急派して地元有志者の指圖の儘に、一瀉千里願書を整へて提出したのであつたが、出願の路線がかくまで類似するとは豫期してゐなかつた。それが假令(たとい)偶然であつたにしても、他人の計畫を剽竊したもののやうに疑はれることは衷心潔しとしない。故に出願を撤回しようとまで覺悟した」と言はれたことより推して、先主は松永氏に僞らざる自己の衷情を愬(うった)へたものであらう。元來義氣に富む太ツ腹な松永氏のことだから、堂々とした男らしい先主の心情を汲まれかくも平和な解决を見たことは想像に難くない。かくして明治四十三年二月に資本金參百萬圓の廣島電氣軌道會社が生れたのである。先主は推されて社長の任に就き、片岡、岩下兩翁の外松方幸次郞、志方勢七、武内作平、武岡豐太、内藤爲三郞、速水整爾、串本康三、池田源十郞の諸氏を以て重役陣を張り、廣島の一會社としては旗皷堂々たるものがあつた。

しかして創立後は廣島瓦斯も電氣軌道も將來大に見るべきものがあつたが、惜いかなその後幾許ならずして中心人物たる先主の物故に遭ひ、遂に兩社共他の經營者の手に移るところとなつた。

阪堺電氣軌道會社の創立と南海との合併

次に阪堺電氣軌道の創立だが、この創立は明治四十三年三月ではあるが、本認可申請を行つたのが二ケ年ほど前のことで、實際上故人にとつては事業界入りの第二の作と云つてもよいのである。しかも認可を得るまでの徑路は實に波瀾重疊(ちょうじょう)を極め、廣島瓦斯や電軌と比較にならないほどの辛苦を重ねたもので、その出願より創立後南海との合併に至るまでの經過を辿つて見ると、先主の非凡な商才も、豪腹な士塊もその間に明瞭りと浮み出るのである。本出願線は、大阪南端惠美須町を起點に堺市の中央を貫いて濱寺公園に達するものを本線とし、堺市龍神より大濱に至る分岐線とよりなるもので、當時大阪に於ける郊外電車は獨り南海電車のみであつたから、花見遊山の市民が日曜毎にこの方面に殺到し、その混雜名状すべからざる状態に鑑み、謂はゞ南海電車の輸送を緩和せんとの目的の下に本阪堺線の敷設を申請したものであつて、その他時を同ふしてこれに類似する線の出願が六箇を數ふるに至つたのを見ても、本出願の計畫が當時として最も緊要な線であつたことが判るのである。しかし出願が六箇にも及んだのだから、各自我田引水的に猛烈な運動の開始されたことは當然であつて、加ふるに既成線たる南海電車としては出願の總てが自線との併行であつたから、自衛上既得の利權を楯に反對の猛運動が試みられるなど、即ち七箇の團りが卍字巴と火花を散らして亂戰苦鬪を演じたものである。そこに行くと先主を中心とする一派は、隱然財界に潜勢力を有つ謹直眞摯な片岡翁と、豪邁(ごうまい)果敢な岩下翁とをバツクに軍を進めてゐるので、他に比して嶄然(ざんぜん)有利な立場にあるものゝ、中には日露戰役の好況時の産物たる濡手で粟の權利株取得を目的に、所謂政商派の一團があり、功妙に暗躍を續けるのでこの一團は先主の一派にとつての一大敵國たるを失はなかつたのである。かやうに競爭の激烈なだけ官當局としても容易に軍配が上げられず、遂には全部不許可とまで傳へらるゝに至つたのは、さうした場合蓋(けだ)し已むを得ない處置であり、この形勢を觀望した先主は非常に驚き、虻蜂捕らずに終るは愚の骨頂だ、寧ろ所謂政商の一派と相結んで認可を得ることが上乘の策なりとし、遂に意を決してその一派と握手したのであつた。この一策は見事に効を奏し、遂に明治四十二年十二月、目出度く認可の目的を達したのである。そこでその一派の獲得せる三萬の權利株は、プレミヤム附で先主が一手にこれを買取つたもので實に先主の持株は六萬株中三萬五干株に達し、その豪腹さを窺ふに足るのである。他日原敬氏が「大林君をして政界に馳驅(ちく)せしめたなら必ず一方の將たり得るであらう」と激賞されてゐたさうだが、氏は大阪に關係も深く、當時政界一方の旗頭だけあつて、當時の經緯を通して先主の纎細巧妙な叡智と、豪宕勇邁な行動とを知つた爲にかくは激賞されたものと思ふ。それだけ先主は事業界進出の處女期に於て出藍の譽を贏(か)ち得た譯である。

そして三百萬圓の會社が創立されると共に、片岡翁を社長に擁立して岩下翁、永田仁助、野元驍、奧繁三郞、松方幸次郞、渡邊千代三郞諸氏及先主の陣容で、明治四十四年十二月營業を開始したのであつたが、自然南海王國を向ふに廻しての大競爭が演じられ、出願期などと違つて利害關係が總て現實化されるので、その困苦の度は更に數倍化されたのである。競爭の激甚なだけ南海としても相當苦肉の策が講じられたやうで、阪堺切り崩しの一策だらうが、先主に對し、その持株の大部分を特祕の價格で引受けようと或る人から窃に交渉があり、もしその交渉に應じたなら無論相當巨額の利益を摑み得たのであつたが、先主素よりかやうな好餌に釣られるほどの貪慾漢ではなく、かゝる行動は同僚を賣るものなりとて斷乎としてこれを郤け、阪堺關係者の間に淸廉を謳(うた)はれたのはその時である。創業當時はさうした苦肉策が講ぜられるなど、無我夢中で戰つたのであつたが、しかしもともと電車線としての勢力區域は、既に地理的に區劃(くかく)されてあるので、些末な競爭が乘客に對して餘りの効果があるものでなく、阪堺電車は日を逐ふて成績の見るべきものがあり、遂には更に六十萬圓を增資して支線の平野線を增設するなど、次第に好調を呈するに至つたのである。

ところが坊間に、犬猿も只ならざる兩社の鬪爭は、兄弟墻(けいていかき)に鬩(せめ)ぐやうなもので外見上からしても見よいものでなく、延(ひ)いては大阪事業界の發展を阻害するに止り、鷸蚌(いつぼう)の爭に類する如きは相互聊(いささ)かの利益も無いではないか、といふ説が次第に高まり、谷口房藏氏の如きは最も熱心にこの説を主張され、遂には自ら雙方を説得し、大正四年三月兩社の合併が實現されたのである。先主としては、自分が生み且つ育て上げて來た親子も同樣な關係から考へて見ても、阪堺を長く自己のものとして保持して行きたかつたのは山々であつたが、平素から人一倍大義名分に生きて來たその面目上、無理からも合併に賛しない譯に行かず、斷膓の思ひで袂を分つたもので、その時執つた先主の堂々として潔よい措置は、關係者をいたく感動せしめたものであつた。

先主は初陣の二、三年間に於て、以上の如く堅實味もあり、將來有望の各會社を創立したその巨腕は、眞に讃歎に値するものがあり、かくして當時事業界の一角に大なる存在をなすに至つたのである。まして以上各會社の外に先主の關係せる事業は相當廣汎(こうはん)なものがあり、大阪電氣軌道(大軌)、樽製造(先主創立)、京津電車、日本興業、電氣信託等はその主なるもので、その内日本興業、電氣信託の二社は、もと才賀電氣商會破綻後の財界混亂を救濟する目的の下に設けられたものであるから、略その目的を達し得たのでその解散は當然の歸結であり、只最も力瘤(ちからこぶ)を入れた大軌と、廣島の二社に對する有終の美を見ずに中道にして逝かれた先主を憶ふと、實に惜まれてならない。

要するに先主が岩下翁の勸説(かんせつ)によつて事業界に進出した關係上、その事業の大半は殆ど岩下翁の影を見ざることなく、最近歸朝せられた當時の傑物(けつぶつ)たる守山又三氏が、私方の社員に當時を語つて「岩下翁を中心とする片岡、山本(條)、松方、渡邊、志方、大林と云つたグループは、一時關西財界を左右するほどの權勢を有つたもので、相互の交情が頗る濃かで互に信じきつてゐたから、中の一人が何事業でもあれ計畫すると、他は一も二もなく相共鳴し、相互の間には算盤といふものがなかつたのである」と言はれたさうだが、この一語は慥(たしか)に當時の樣を躍如たらせたるものがあるとふ。

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