大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第五編 跋

先主を憶ふ白杉嘉明三

請負業界に於ける先主晩年の偉彩

日露戰爭後の軍備擴張工事に名聲を博した後の大林組は、名實共に一流請負業者としての地位を確立し、業務彌々(いよいよ)發展して倍々その大を築くに至つたが、殊に東に東京中央ステーシヨン、西に生駒隧道及新世界等の大工事を施工しつゝあつた當時の勢ひは、請負界に於ける先主の晩年を飾る一大偉觀を呈したのであつた。加ふるにその間に於て伏見桃山御陵工事奉仕の恩命を拜したことは、臣として子々孫々に傳ふべき大光榮であつたのである。以上新世界を除く三工事に就ての詳細は既に本記に記述してあるので、挿話的な一、二の事項と、新世界工事に就て聊(いささ)か述べて見たいと思ふ。

1 東京中央ステーシヨン工事

本工事の入札時に於ける先主は、未だ曾て見たことのないやうな衝天の氣勢を示された。それは多年に彌(わた)つて今か今かと翹望(ぎょうぼう)止まなかつた中原に馬を進める絶好の機會が到來したからである。故に先主は入札の初頭、宣傳費として五歩程度の缺損を豫め覺悟されたほどであつて、その牢乎たる决意を知るに足り、入札擔當社員もよく先主の意を體し、斟酌鹽梅(あんばい)して入札したのであつたが、開札の結果は驚くべし淸水組と同額であつて、淸水組も亦多年の地盤を維持すべく懸命の决意で臨んだことが判るのである。こゝに於て先主は輸贏(しゅえい)を决する再入札に際して更に擔當員を激勵するところあり、淸水組と僅少の差で遂に當時東洋一と稱せられて業界の垂涎するその大工事を獲得するに至つたものである。先主は施工開始に際し「千萬言の宣傳より、一ツの良い見本に勝るものは無い」といふことを、當時の植村主任その他に諄々(じゅんじゅん)として諭すところがあり、從業員も亦擧(こぞ)つて先主の方針と訓戒を翫味服膺(がんみふくよう)した結果、時の工事監督官であつた金井氏のお話にもある通り、會計檢査院の秋霜のやうな峻烈の檢査に、一點の非點もなく無事に通過したばかりでなく、かの關東大震災の折、一個所の龜裂さへ生じなかつたその堅牢無類さは、十年の後期せずして先主の所謂良い見本となり、忽ち東都各方面の絶讃を博して業務開拓に資するところが頗(すこぶ)る大であつたのである。

2 新世界建設工事

大阪名所の一ツとなつた歡樂境新世界の新設計畫は、明治四十四年當時大阪財界に名を馳せた宮崎敬介氏が中心で、武内作平氏や先主などがこれに加はり、第五回内國勸業博覽會の敷地跡(現動物園、植物園、運動場等を除いた殘り)の一部を市より拂ひ下げ、大阪土地建物會社を創立してその經營の下に樹立されたもので、當時設計家として令名ある設樂貞雄氏苦心の設計に成り、土地の中央をば數寄を凝らした斬新の遊園地に充て、遊園地の中には噴水あり、華樹あり、芳草ありて浩然の氣を養ふに足り、その中央遊園地に向つて、將に開通せんとする先主等の創立にかゝる阪堺電車の起點惠美須町驛より放射式に大道路を設け。遊園地の入口には巴里のエツフエル塔に倣つた高さ二百尺の鐵骨高塔を建てゝ大阪景觀の眺望に資し、更にその高塔と二百尺を隔てて相對する高臺(たかだい)との間に、一條の鐵索に釣られたる架空車を往復させて飛行機上の感興をそゝらしめ、遊園地の周圍は大小多數の劇場及映畫館、少年少女の各種遊戯場、寄席等を以て繞(めぐ)らし、放射路の兩側は勿論その他東西南北數條の道路には飮食店、旅館、商舖、待合、温泉等が軒を並べ、東京に於ける淺草、京都に於ける新京極、大阪に於ける千日前等を凌駕する大歡樂境の出現を目的に計畫設計されたのだから、その規模の雄大なことと内容の充實せる點は、當時我が國第一の歡樂境と稱するも過言でなかつたのである。この尨大な各建物の工事は、明治四十四年九月に着手して翌四十五年六月に竣功したもので、實に十ケ月にしてこの大きな不夜城が忽焉として浮き出したのだから、世人の多くはその壯觀に魅せられると同時に、その疾さに夢かとばかり驚異の眼を睜らざる者はなかつたのである。今日では昔時に比べると多少寂びたといふ評者もあるが、今に歡樂を追ふ遊客が陸續(りくぞく)として日々絶へず、日曜祭日の如きは歩行にさへ難澁するほどの雜沓ぶりで、珍らしさを喜ぶ人間の本能からしても、開業當時に於ける人氣の沸騰は名状すべからざるものがあり、土地會社の株價が稀有の暴騰をなして株式市場の花形であつたこともある。そして一方阪堺電車の開業が明治四十四年の十二月だから、新世界の出現と共にその殷賑(いんしん)は直に阪堺電車の業績に至大の好影響を齎(もたら)したことはいふまでもなく、新世界の計畫は先主として一石二鳥の利を占めたものであつた。

大阪新世界ルナパーク
大阪新世界ルナパーク

3 生駒隧道工事

これには先主の面目躍如たる挿話がある。忘れもしない大正二年一月二十六日、隧道掘鑿(くっさく)中にその一部が大崩壞を來したとき、先主はこの大椿事に取るものも取敢へず現場に驅けつけて應急の處置を執つたのであつたが、事終つて後自宅に引籠つたまゝ情報等は電話を通じて聽取するばかり、數日經つても會社にさへ顏を見せない。私は心配の餘りお宅に伺つたところ、家中は平常の明朗さに打つて變り、森として陰鬱な氣分が漂ひ、先主は奧の一室に悄然として端座されてゐて、不可抗力とは云へながら十九の生靈を失ひ、剩(あまつさ)へ世間を騷がした責は輕くない。故に自分としては家庭に於て子女の笑話さへ禁止して謹愼の意を表してゐるのだといふことであつた。豪放を謳(うた)はれた反面、自己の責任に對してはかうした優しい性情も具備してゐたのである。

4 桃山御陵工事

本工事施工の大命を拜したときの先主の擧止は、平常とは打つて變り眼には涙さへ浮べ、そわそわとして周章の樣が明かに見られるのであつた。蓋(けだ)し先主の胸中は張り裂けんばかりの感激に充たされ、唯々恐懼(きょうく)の餘り措く所を知らなかつた自然の表情が最も正直に露はに發現されたものであつて、今に忠誠そのものゝ先主の樣が眼の底に殘つてゐる。しかして一度び大命の任に膺るに及んでは、謹嚴そのものゝ如く全く別人の觀を呈したのであつた。先主は一般事業界へ進出して以來繁多の身であつたので、請負業一點ばりの昔日とは違ひ、生駒隧道工事の如きも岡技師長と有馬部長に任せきりで、長い工期中現場を巡視せられたことは甚だ少なかつたやうに思はれる。しかるに桃山御陵工事の際は、着手の最初より自らその第一線に立ち、御歛葬を終へさせられるまでの三十日間は齋戒沐浴(さいかいもくよく)、晝夜を分たず、精勵粉骨その大任を果したのであつて、濱寺俘虜(ふりょ)收容所工事以來先主掉尾(ちょうび)の活躍であつたのである。

OBAYASHI CHRONICLE 1892─2014 / Copyright©. OBAYASHI CORPORATION. All rights reserved.
  
Page Top