大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第四編 飛花落葉(逸話)

不思議な魅力

故人が麴屋呉服店で番頭をしてゐた時分のことだからまだ十八、九歳の時であつたらう。或る縁故先の某店が警察官の小倉服を請負つたが、その納入の際、染が惡いといふ廉(かど)で遂に不合格となり、百方手を盡して哀訴嘆願したが効果なく、その損夫は相當に夥(おびただ)しかつた。これを聞いた故人は、持つて生れた任俠から他人のことゝは思はれず、『それは定めしお困りでせう。よろしい、私が行つてお願ひして來て上げます』と事もなげに引受け、前後の事情をよく聽き取つた後、小走りに出かけて行つたが、待つこと時餘、『納まることになりましたよ』と勢ひよく歸つて來た。どうした口上で、どうした手段で成功したのか、故人に尋ねて見ても笑つて語らなかつた。その手際の鮮かさには某店の主人も開いた口が塞がらなかつたさうで、故人は若年の時代からかうした人を惹きつける不思議な魅力を先天的に具へてゐたやうである。

明るい感じと百圓紙幣

故人が二十六、七歳のまだ世に出ない頃、五、六人の土工を率ゐて池田街道齋田川橋梁の架替へをやつてゐた時、遽に通行遮斷を食つた荷馬車が數臺、その挽子(ひきこ)が盛んに不平を並べて遂に最寄の交番にこれを訴へた。訴へによつて時の警官伏田赳一郞氏は現場に赴いて故人を叱責した。ところが故人はニツコリ笑を浮べ『どうも濟みません。大急ぎでやつてしまひますから暫しお待ちを願ひます』と、如何にも慇懃叮寧(いんぎんていねい)に謝罪した。伏田氏はその優しい態度にすつかり魅せられて張合が脱け、こんどは逆に荷馬車挽等に『橋の架替は公用だ。お前等の通行の爲にやつてゐることだから暫く待つて居れ』と一喝した。伏田氏は、その後官を退き、幾多の公共事業に携つて石橋附近での名物翁となつてゐられるが、當時のことを物語つて『人には、一見暗い感じのする人と、明るい感じのする人と二樣あるが、故人は確に明るい感じのする人であつて、あの時何等の辯解もせずに唯々諾々として、相濟みません、と謝罪された時は、寧ろ口を尖らして訴へて出た荷馬車挽共の方が憎げに感じた。これが奇縁で、その當時故人とは非常に心易い仲となつた。同時に私は他日故人の大成を豫感したのであつた』と言つてゐられる。その後十數年は夢のやうに過ぎて相互音信もなかつたが、故人は伏田氏の豫感のやうに大成功を遂げたのであつて、伏田氏も蔭ながら我がことのやうにその成功を祝福してゐたのである。ところが或る日、故人は豊能郡の名望家遊上府會議員と同道で伏田氏を訪れ、箕面電鐵豫定線の土地買收の斡旋方を伏田氏に懇請したのである。これは故人が豫(かね)ての實驗に徴し、伏田氏の義氣を記憶してゐたからである。故人の依賴に伏田氏も快諾してその衝に當ることを約された。その時故人は手土産代りと稱し、且つ失禮の旨をも述べて紙包を無理に伏田氏方に置いてたち去つた。伏田氏が後でその紙包を開いて見ると百圓紙幣が一枚這入つてゐた。當時の百圓は相當の大金であり、百圓の手土産には伏田氏も驚いて故人の太ツ腹にいたく感激し、その後寢食を忘れて土地の買收に盡瘁(じんすい)されたのであつた。

古着屋の法被

何處かの古着屋の店頭に、職工人夫等に與へた大林組の印半纒(しるしばんてん)が吊つてあるのを道すがら發見すると、故人は必ずこれを買取つて歸られた。古着屋には似合しからぬ堂々たる風彩の紳士が汚い印半纒を買つて歸るのだから、その店の主人やお女將などは不思議さうに故人を眺めたといふことである。顏こそ見知つてゐないが、自分の組の印半纒を着て威勢よく歩いてゐる職工などを見ると、まんざらの他人とも思はれず、何處となく賴母しい氣の起るのは自然の人情である。しかるにその印半纒が古着屋の店頭に吊つてあるのだから、故人としては自分の權威を傷けられたやうな感じがしてどんなになさけなく思つたか知れない、のみならず事情を解さぬ第三者がその吊つてある印半纒を見れば、必ず大林組の信用を疑ふに相違ない。だから故人は一時の見えなどに拘泥してゐられない、直ぐとそれを買取つて歸つたものである。

信任のバロメーター

故人の部下に對する慈愛は隨時隨所に遺憾なく發揮されたものだが、しかし部下に一朝間違つたことでもあると遠慮會釋もなく手嚴しく叱りつけたものである。子は叱つてゐながら可愛いもので、叱つた後から頰ずりさへする。だから故人の叱責は信任の厚い人ほど深刻で叱られる程度が信任のバロメーターになつてゐた。

故人が社員に對する叱責は我が子に對するやうなもので、憎いからではない。だから雷が落ちてしまへば日本晴のやうに、洒々落々たるものがあつた。豐橋師團工事の折、時の主任加藤芳太郞氏は工事上のことで雷を落されたことがある。偶氏はその日風邪の氣味で頭痛が激しかつたので、夕刻に至つて遂に床に就いてしまつた。夜業さへ續けてゐる急工事のことゝて、主任たる氏の姿を失つた故人は邊りを顧み、『加藤君はどうした。何、頭痛でやすんだと。それは困つた。熱は高いか、藥を飮ませたか。醫者に見せたか』と、質問連發で恰も我が子が病に罹つたときのやうな心配ぶりである。そして靴音を殺して加藤氏の寢室に忍び寄り、靜かに掌を氏の前額に當てゝ熱の高低を測つた。ウツラウツラしてゐた加藤氏は何人かゞ自分の額に手を當てたのに目覺め、眼を開いてその人を見ると豈圖(あにはか)らんや故人であつた。氏は驚いて起き直らうとすると、故人は氏の體軀を抑へ、『起きずともよい。寢て居れ。熱もあるやうだが風邪だらう。たいしたこともあるまい。發汗劑でも飮んで今夜は緩くり休むがよい』と懇(ねんごろ)に劬(く)り慰めてたち去つた。その時は晝間に於ける立腹の氣など露ほどもなかつた。加藤氏とてさうした故人の慈(なさ)けに絆(ほ)だされ、その夜は温い母の懷に抱かれたやうな氣分で安々と眠りにおち、翌日は元氣回復して最前線に活躍したのであつた。

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