大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第四編 飛花落葉(逸話)

鷹揚な買物

故人の曰く『俺は平常釘一本、煉瓦一枚まで無駄にするなと嚴しく注意してゐるが、大根一本、葱一束を値切らうとは思はない。なぜならば釘一本や煉瓦一枚の無駄は、物その物が無くなるのだから絶對の損失で利益を得るものは一人もない。しかし大根や葱を多少高く買つたとて、それだけの利益は八百屋が占めてゐるので絶對の損失ではない。まして小さな商賣の野菜代を値切るといふことは、一厘や二厘の薄口錢でその日を送つてゐる八百屋の懷中を殺ぐやうなもので、そんな無慈悲な買物をして成功が出來るものではない。俥賃などもさうだ。五錢や十錢高かつたところで、自分の經濟に影響を及ぼすことはない。しかるにその日暮しの俥屋にとつては五錢や十錢の金とて馬鹿に出來ない。又それだけ多く出したところでそのお金は消えて無くなるものでなく俥屋は大喜びだ。これほどの功德はないのである』と。大林家が日常の細かな買物に鷹揚であつたのは、かうした故人の靑砥藤綱式の經濟觀と慈善心から出發してゐた。

小使にまで敬禮

曾て第四師團司令部で小使二人が立話をしてゐる前を、叮寧(ていねい)に會釋して出て行つた一人の紳士がある。甲『あの人は誰だらう』乙『二、三日前にもお叩頭(じぎ)をされたが實に叮寧な人だよ』と感心してゐた時、偶通りかゝつた給仕から『あれが大林組の主人だよ』と敎へられ、二人の小使は當時日の出の勢であつた故人の後ろ姿を見へぬまで見送つて『成功する人は別だなア』と感嘆したさうである。故人は常に言つてゐた。『地位の高い人には自然と頭が下がるが、低い人には下がりにくいものだ。しかし低い人に努めて頭を下げると、先方は豫想以上に滿足されるものだ。元來請負人としての職分は、對手を滿足させることにあるのだから、頭を下げて滿足させることも職分の一ツとして心得なければならない』と。

腕力と現場統制

曾て九州倉庫會社の工事を堂島川岸に請負施工中の時、大阪市に於ける年中行事の有名な天神祭に際會し、施主方より神輿渡御の拜觀所構築を依賴され、現場主任は手傳職のO下請に命じて恰好の棧敷を作らしめ、これが當日の夕暮間近に出來上つた。軈て日沒と共に渡御の時刻が次第に迫つて來て、施主方の拜觀者が一人、二人と見え初めた。しかるに棧敷構築に從事した若者の中の二人が、何處で一杯飮んで來たのかほろ醉機嫌で、棧敷の中央に傲然と頑張つて立ち去らうともしない。現場員が再三退去を命じても應ずる氣色がないので、遂に主任はこれを嚴しく叱責した。しかるに二人は憤然と立ち上るなり主任の顏面を強打して逃げ去つた。温厚な主任は、目出度い渡御の當夜を慮つて、怒を抑へつゝその場を過ごしたが、翌日この出來事を耳にした故人は怒髮天を衝くの激憤で、直ちに主任に就て前後の顚末を糺し、O親方に對して件の若者二名を引具してその夜八時に來店を命じ、もし命に遵はなかつたなら出入を禁止する旨をも通告した。事の意外に驚いたO親方は、詫びるより外に手段がないので、命のまゝに二名を具して同時刻に出頭した。ところが店の入口には高張提灯が二基灯つてゐて、屈強な若者數名が張番をしてゐるといふ實に物々しい光景である。O親方と二人の若者とは怖々と内に入つた。そこには故人を中央に、左右には當時大阪きつての顏役たる木屋市、傳法、淡熊、難波福、永福、小常等がズラリと列んでゐる。この威に氣を呑まれたO親方と二名の者は慄え上つて平伏するばかり、お詑びの言葉さへ出なかつた。その時體軀こそ小さいが滿身これ膽と謳(うた)はれた新町の小常顏役が、力の籠つた齒切れのよい辯(ことば)で『昨夜現場主任を摳つたといふ不埒な奴はその二人かい。どつちの手で摳つたか。まさか左の手ではあるまい、右の手だらう。その右の手を今こゝでスツポリ叩ツ切つて出すがよい。斬る物が無いなら借してやる。サア何んとか返事をしろ』と疊みかけた。二人は生きた心地もなく靑くなつて庭の隅に小さく蹲(うずくま)つてゐる。すると氣早やな傳法の顏役が『默つてゐて判るか』と一喝し、蠑螺(さざえ)のやうな拳を振つて二名を叩き据えた。結局は二名の者を一年間大阪から追放といふことで故人の諒解を得、現場主任摳打事件はそれでケリとなつたのである。考へやうでは、現場主任が一ツ二ツ摳られたとて、大阪全市の大顏役を召集するなどとは餘りにも大袈裟過ぎるではないかと思ふ人もあらうが、故人とて相當費用もかゝることだから好んでそんな眞似はしたくなかつたに違ひない。しかし故人の心中では、現場社員は腕力に於ては到底職工人夫に敵はない。もしかゝる問題を輕視する場合は、職工人夫に腕力を振はしめる因となり、大林組の現場統制は破壞せられる虞れがある。故に現場社員愛護と秩序維持の見地から寧ろ重大問題としてこれを取扱つたものである。さうして『職工人夫等がもし現場社員に手をかけると、かうした嚴罰に處せられるのだ』といふ範を一般に示したものであつた。

變つた叱責

靱に宅のあつた晩秋の或る日、一人の女中と有吉、武吉の二人の給仕とが留守を命ぜられた。腕白盛りの二人の少年は、最初こそ神妙に留守を勤めてゐたが、鬼のゐぬ間の洗濯とばかり、軈て裏の橫堀に舟を浮べて遺憾なく腕白氣分を發揮するに至つた。その中に、何かのはずみで有吉少年は水中に墜ち込んでしまつた。やつとのこと武吉少年に助けられて舟に這ひ上つたが、全身濡れ鼠で、寒さに膚は毛拔鷄のやうに粟粒だらけといふ仕末。恰もよし、その時風呂が沸いてゐた。主人より先に入ることは出來ないと思ふものゝこの場合應急措置として外に良い方法がない。後で水を替へることにして有吉少年はそのまゝ風呂に飛び込んだ。湯加减は上々、有吉少年は元氣漸くに回復して蘇生の思ひをしてゐた。その時、何時の間に歸られたか、主人の咳拂ひがして廊下傳ひに風呂場の方に歩んで來られる足音が聞えた。サア事だ。有吉少年、上るに上られず進退全く谷(きわまれ)り、咄嗟の氣轉で風呂に葢をして湯槽の中に隱れてしまつた。故人はその際風呂場でガタンと音のしたのを耳にしたので、戸を開けて中を覗くと、人影は見へないが流し場は濡れてゐる。銳敏な故人は庭の隅にチラと見た見覺へある有吉少年の濡れ衣裳と風呂とを結びつけ、直に成程と合點し、有吉が葢を冠つて風呂の中に跼つてゐることを讀み取つた。故人は暫く佇立(ちょりつ)して動かない。一分、二分、三分と時計の針は進んで行く。これを知らない相棒の武吉少年は外側の炊き口から切りと薪を投げ込んでゐる。上は蒸す、下は沸く、全くの焦熱地獄で有吉少年は生きた心地もない。稍々あつて故人はもう頃合と居室に去つた。有吉少年は助かつたとばかり風呂から躍り出たのであつたが、全身茹章魚(ゆでたこ)のやうである。すると奧で有吉々々と激しく故人が呼んでゐる。有吉少年は部屋に戻つて漸く更への衣裳を着け、周章(あわ)てゝ走り出したのだが眩暈がして思ふように歩けない。飄々踉々としてやつと故人の前に兩手をついた。この樣を見た故人は心中可笑しくもあつたが、有吉少年を睨みつけ、『風呂に這入るときは葢をするものか、しないものか。何故お前は葢をして這入つてゐたか。主人の眼を掠めようとしたからだらう。噓は盜人の始まりといふが、主人の眼を掠めようとしたお前は既に盜人だ。俺は時と場合に依つては主人より先に風呂に這入つたとて咎めはしない。しかし男ともあらうものが卑怯な眞似をするその根性が大嫌ひだ。だから俺は長く立つてゐてお前に風呂蒸しといふお灸をすへてやつたのだ』と嚴しく將來を訓戒した後、『それ見ろ、お前の體の赤いこと、少しお灸が利き過ぎたかな』と呵々大笑(かかたいしょう)したのであつた。流石は故人、叱り所が異つてゐる。又或る日、有吉少年が店の使で銀行にお金を取りに行つた時、自轉車を盜まれたことがあつた。少年は泣く泣く歸つて來ると、故人が『自轉車でよかつた、お前の本當の足に氣を付けろ』と言つて、當時自轉車の流行り初めの頃で相當貴重視せられたものであつたが、直ぐと更りの自轉車を買い與へた。

江戸辯に褒美

義雄氏が五、六歳の頃の或る眞夏、故人は家族一同を伴なつて須磨の海邊に避暑したことがある。お氣に入りの給仕有吉少年も隨行の恩典に浴した。或る日故人が樓上の安樂椅子に橫はつて吹き來る汐風に凉を滿喫してゐた時、『多摩川の上水で産湯を使つた神田の哥兄(あにい)を知らねえか』といつた具合の齒切れのよいまだ子供らしい江戸ツ子の啖呵が磯馴松の間から風に送られて來る。子供同士の喧嘩らしい。よく耳を澄まして聞くとその聲の主は有吉少年のやうである。故人は起き上つて松間からすかして見ると、果せる哉、有吉少年が義雄氏を負ふて棒を振り廻しながら附近の子供等を追ひ散らしてゐる。その樣は恰も家康が少年時に僕の背に負はれて石合戰に參加したときの繪を見るやうで、故人は恍惚として見とれてゐたが、もし怪我でもしてはとの心配から、聲を上げて有吉少年を呼び戻した。有吉少年は定めて故人からお叱りがあるものと恐る恐る戻つて來た。すると故人は頗(すこぶ)るの上機嫌、『俺が昔東京に出た時江戸辯が使はれないので弱つたことがある。それにお前は東京の土を踏んだこともないのに中々江戸ツ子が巧い。さア御褒美だ』といつてお小使を與へられた。

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