大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第四編 飛花落葉(逸話)

變れば變るもの

故人が二十歳で東都修業を志した時、宮内省御出入の砂崎庄次郞氏の總支配たる美馬佐兵衛氏宛の紹介状を故人に與へたのは靱の手傳職下里熊次郞氏であつた。更に故人が二十九歳で大阪に旗揚をした際、快よく故人の傘下に加はつて故人を輔佐したのもその下里氏である。後數年、明治三十年一月 英照皇太后崩御に際し、後月輪東北御陵工築の恩命に浴した砂崎氏の應援に、故人が施工の實際的總監督として參加した時、その副監督として故人を輔けたのは美馬氏であつた。實に美馬氏は故人が東都に於て修業中日々技術上に就て直接薫陶を垂れた大先輩なのである。變れば變るもの、故人の出世はさることながら、曾て後身であつた故人を上に戴くことに躊躇しなかつた下里、美馬兩氏の雅懷(がかい)は讃歎に價する。

核心に飛び込む

上級監督員の工事現場巡視の際は、先づ入口から順次視察して行くのが普通の例になつてゐるので、職工共の銳い眼は直ちにこれを發見し、甲より乙に、乙より丙に『それ、組の偉い人が來たぞ』と眼付や手眞似で素早く全員に傳へられ、餘り周章(あわ)てることもなく臭いものに葢も出來たのだが、故人の巡視の際は全然その趣を異にし、變幻出沒とでもいはうか、俥の檝棒(かじぼう)を下すなり、今日はこの邊だなといふ仕事の核心部に驀地(まっしぐら)に飛び込み、それから徐々に作業振りや出來榮等を見聞するのが常なので、如何に多い職工の眼も不意を打たれて、何時の間に故人が這入つて來たかさへ知らないでゐるやうなこともあつた。さうした時一心不亂に精勵してゐると御機嫌が頗(すこぶ)る斜で、今日はこれで一杯飮めといつた思はぬ賞與もさうした場合に多く與へられるが、萬一煙草でも吹かしてゐたり、雜談にでも耽つてゐると百雷が一時に落ちたやうな凄じいお叱りを受けるのであつた。

火入の水瓜(すいか)

お客が懷中時計を見てゐるとその時計を盃と間違へて酒を注がうとしたり、卷煙草の紙の燒け灰を蠅と間違へて叩いてみたり、牛の小便を溝と見て妙な腰つきで飛び越したり、途中で會つても素知らぬ顏で通り過ぎるなど、ひどい近眼の或る料理屋の女將があつた。故人が眼鏡をかけることを勸めても『お婆さんぢやあるまいし』と對手にしなかつた。或る日今日こそは懲らしてやらうと案出した故人の一策、豫め水瓜の赤い小切を煙草盆の火と替へて置いた。軈て女將がやつて來て、挨拶が濟むと徐(おもむ)ろに煙草入を取出し、煙草に火を付けようとするのだが付く筈がない。次第に焦つて煙草を入れ替へて見たり、煙管の尖で火と見える水瓜を盛んにつゝいたり、その周章てる恰好の滑稽さに、可笑しさを殺してゐた故人及同行の二、三が遂に爆笑してしまつた。幾日かの後その女將は遂に喰はず嫌ひの眼鏡をかけてやつと文明の餘澤(よたく)に潤つた。そしてこんなに明瞭りするものなら早くから眼鏡をかければよかつたにと述懷したのであつた。

金談は直接

或る知名の紳士が一時不遇の時、遽に金子の入用が起つて窮餘某氏を通じて故人に借欵を申込んで來たことがある。すると故人は是非本人に逢ひたいといふので、更に本人自ら大林組に故人を訪ねた。故人は『お話は某氏より伺つて承知しました。しかし金子の貸借などはかりそめにも第三者に聞かすべきものでありませんよ』と申込の額を手渡して『ちとお遊びに入らつしやい。外に御用はありませんか、少と急ぎますから』と叮寧(ていねい)に會釋して應接室から出て行つた。

衷情

親戚の大門益太郞氏が四男を失つた時、故人は大門氏に深く同情し、『俺も經驗があるが暫くは身を削られるやうな氣がしたよ』としみじみ嘆じられたことがある。それは曾て次男永三郞氏を失つた時の故人の實感であつて、元來何事にもあれ諦めのよかつた故人は、『仕樣がない』といふことを大阪訛りで『しよがない』とよく言つてゐたもので、最愛の子を喪つた時でも『しよがない』で押し通し、何時とて朗らかなものであつた。しかし自己の悲哀を色に現はさなかつただけ、衷心の苦惱は人一倍激しかつたのであらうと、既に十數年も過ぎたその時、大門氏は初めて故人の衷情を知つたのであつて、もしこの述懷がなかつたなら恐らく永久に故人の衷情を知ることが出來なかつたであらうと、大門氏はしみじみ言つてゐられた。

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