大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第四編 飛花落葉(逸話)

武臣の愛錢を罵る

上原元帥が故人の夙川別邸で病を養つてゐられた頃、偶議會で一世の耳目を聳動(しょうどう)させたシーメンス事件が勃發し、尾崎咢堂、島田三郞の兩氏が交々起つて侃々諤々(かんかんがくがく)の辯(ことば)を揮ひ、海軍大廓淸(だいかくせい)の聲が翕然(きゅうぜん)として八方に起つた。東京出張中にこの騷ぎを見聞して來た故人は、歸宅するなり元帥の室に飛んで入り、『なア閣下、實に怪しからんことです。軍人がお金を欲しがるやうになつては世は末です。お金の方は私等が儲けて御國に献上します。軍人は軍人らしく何處までも淸廉潔白で素寒貧(すかんぴん)なところに價値があると思ひます』と慷慨(こうがい)淋漓(りんり)たるものがあつた。故人の歿後、元帥は當時を偲びながら『あの時の故人の權幕、熱心、眞面目さは今も尚目に見るやうだ。お金は私等が儲けて献上するとやつたあたりはいかにも大林式であつた』と評された。

神のやうな無慾

今日から見ると噓のやうな話だが、曾て八幡製鐵所が操短の悲境時代に沈淪(ちんりん)したことがある。爲に同所に於ては使用してゐる二瀨炭に大餘剩を來し、その餘剩炭を何人かに拂下げることに内定した。この間の事情を知つた故人の友人N氏は、食指大に動いたが資力が乏いのでこれを故人に勸め、故人はN氏のお膳立の下に拂下を受けることにした。その時製鐵所と故人との間に交された契約は雙務契約の形式で頗(すこぶ)る簡單ではあつたが、契約期限は三ケ年、相互受渡違反の場合に於ける損害賠償の額まで謳つてある。しかるに一年を經過した頃、九州地方の石炭業者が『業者外の大林組に石炭を拂下げるとは怪しからん』との物議を起して遂に議會にまでこれを持出すに至つた。故人としては何等疚(やま)しい點がないので馬耳東風、我れ關せず焉で頗る呑氣なものであつたが、一方製鐵所としては由々しい大問題で、時の製鐵所經理部長大谷順作氏は、製鐵所改革の内命の下に拂下契約締結後赴任したのだから當面の責任こそないが、議會の問題とまでなつたものを繼承者として放任することも出來ず、さりとてもし契約を破棄するときは莫大な損害賠償の責に任じなければならないが、製鐵所としてはそんな豫算がある筈もなく、大谷氏としては進退全く谷(きわま)つたのである。そこで氏は兎も角當つて碎けろの策を採る外に途なく、最も關係の深いN氏を中心とする故人の側近者に苦衷を愬(うった)へて契約の無條件破棄を懇請したのであつたが、それは不幸にして目的を達するに至らなかつた。大谷氏は益窮して煩悶の末、更に窮餘の一策として直接故人に會つてその任俠に俟つたのである。ところが案ずるより生むが易く、僅か二十分内外の會見で遂に故人の快諾を得、氏は蘇生の思ひをなして意氣揚々と引上げたのである。その時のことを大谷氏は『角張つた態度や辭令は微塵もなく、淀みない調子で深い肯きを見せられた』と言つてゐられる。全くさうであつたらう。大谷氏が辭し去つてから暫しの後、N氏が威勢よく故人を訪ねて『君は幸運な男だ。また大きな金儲けが降つて來たよ。實は昨日製鐵所の大谷經理部長が訪ねて來て、例の二瀨炭の拂下契約を無條件で解除して呉れといふことであつたが、僕は仲介人の身として、大林君に對しそんな勝手なことは絶對に出來ないとキツパリ斷つたよ。計算して見ると賠償額は二十萬圓位にはなるだらう』といふ話。故人は『ウム、その話か。大谷さんなら今歸られたとこだ。話を聞いて見ると同情に堪えない。無條件で契約解除を承諾したよ』と灑落(しゃらく)としてすまし込んでゐる。N氏はその無慾恬淡(てんたん)さに啞然として開いた口が塞がらなかつた。

藥の利き過ぎ

莫逆(ばくげき)の友H氏來訪の際、例に依り大白を擧げて玉山將に頽(くずお)れんとする時、相謀つて凸坊式の大喜劇を演じたことがある。その筋書は隨分凝つたもので、H氏を橫臥させて顏面に淡紫墨を施し、額に三角の紙を當てゝ死人の如くに裝ひ、顏には白布を被せてその枕頭(まくらもと)に樒(しきみ)と線香を手向け、故人自ら電話にてH氏の愛妾に『御主人が來訪中突然心臟麻痺を起され、最寄の醫師を呼んで百方手を盡したが遂にそのまゝ亡くなられました。どうぞ即刻お越しが願ひたい』と實しやかに通知したのであつた。調伏とは夢にも知らない愛妾はこれを聞いて驚くこと限りなく、直ちに俥を飛ばして驅けつけ、驀地(まっしぐら)に死者の枕頭に走り寄つて狂亂の如くに泣き崩れた。悄然として悲しさを裝ふて傍に控へてゐた故人は、たちのぼる線香の縷々(るる)たるを眺めつゝ如何にも愁傷の體で、『心臟麻痺といふものは誠に怖いもので、どうにもかうにも手の下しようがありませんでした。思へば實に殘念なことをいたしました』と徐(おもむろ)に顏を覆ふた白布を取り除けると、死顏の物凄さは室内の陰氣を增し、うち見守る愛妾は唯潜然と泣くばかりであつた。H氏は愛妾の泣き崩れた一事に依つて既に限りない滿足を覺えてゐる。その悅びの笑みを無理に抑へてゐたのだが、遂に耐へかねてニヤリとほゝ笑んだ。豫期しない死人の笑みに、愛妾は驚愕の餘りアレツとばかりその場に氣絶した。さうなると寧ろ驚いたのは調伏をかけた方のH氏と故人で、それ水だ、氣付けだといつて家を擧げての大騷動に變つて了つた。殊に三角の紙を當てたまゝのH氏の狼狽さは滑稽を極めたが、漸くにして蘇生したので一同ホツと胸撫で下した。それから機嫌直しの盃を擧げ、死人の働いたのを見たのはこれが初めてだなどとの揶揄も出て、互ひに抱腹絶倒歡の盡きるのを知らなかつた。

死の踏襲と生きた創作

混沌たる建築界の革命期にあれだけの功績を擧げ、裸一貫より身を起してあれだけの成功を遂げたほどあつて、故人は踏襲的の人でなく、どこまでも開發始元に燃えた創作的の人であつた。或る日個人が設計室に這入つて行くと、西洋カブレのした若い設計家の一群が盛んに洋式のプレートを漁つてゐた。これを見た故人は『君らの設計時には必ず西洋のプレートを金科玉條的に漁つてゐるが、無論先進國の範を採るのもよい、しかし人の眞似事ばかりに終始するよりも、日本人は日本人としての趣好に適するやうな先人未踏の創作をやつたらどうかね。人眞似は死人のやうなものだが獨創は潑刺として生きてゐる。若い君等は前途遼遠だ。獨創的の潑剌とした元氣で邁進して貰ひたいものだね』と諭した。確にその言は頂門の一針だ。偶その敎訓を聞いてゐた後の工務監督故谷口廉兒氏の如きは、生前時折この話を持出して故人を追憶してゐた。

カラシ練りは年中行事の一ツ

僅か茶碗に一杯ほどの芥子(からし)を練るにさへ眼を刺戟されたり、曀せかへつたりすることがある。まして大きな擂鉢(すりばち)に一杯もある一升からの芥子練りは容易でない。手拭で鼻口を塞いで擂粉木を持つ巨僕が四、五人ズラリと列び、一人が眼をつむつて息の續く限り練り廻すと次が交代する。次から次と數回循環して一鉢が練り終る。息の長い者も短い者もあり、眼をつむつての仕事だから方角違ひを搔き廻す者もあり、その練る恰好や所作が滑稽ではあるが勇壯でもあり、年中行事の一ツとして臺所を擧げての賑ひである。そして約一斗の芥子が練り上げられ、それがその年に於ける芥子漬に用ひられる量なのである。だから小さい壺の二ツや三ツに漬けられるのでなく、大きな甕の五、六にも及ぶのである。無論故人の指揮の下に總べてが行はれ、材料の精選は勿論のこと、お金や勞力を厭はずに漬けるのだから、味のよいことは天下一品で、漬かり頃に甕が開かれ、小さい壺の幾つかに分かたれて各方面の知己や親近に頒たれるのである。これが故人の樂しい自慢の一ツでもあつた。

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