振つた仇討
岩下翁、島德藏氏及故人等の關係者一行が、箕面電鐵線路敷設の豫定地を視察に行つた時のこと、豫(かね)てから故人の蛇嫌ひを知つてゐた島氏が、窃にステツキの先に手頃の朽繩(くちなわ)をかけて不意に故人の鼻先に突き出し、故人を少からず、吃驚(びっくり)させたことがある。その後幾日かを經て、故人が市中に俥を走らしてゐた折、前を二人曳の俥が走つて行く。それは定紋に見覺えのある島氏の俥である。故人は自分の俥夫治平君に低い聲で前の俥を追ひ拔けと命じた。治平君は心得たとばかり勢込んで見事前車を拔いて死にもの狂ひに疾走した。無論故人は知らぬふりを裝つてゐる。島氏は『味をやつたな』と自分の俥夫をして追ひすがらせたが、治平君は音に聞えた大阪隨一の韋駄天であつたので、その距離は次第に遠ざかるばかり、その競爭は徹底的に故人の勝に歸した。歸宅後故人は『お蔭で蛇の仇を討つた』と肩をゆすぶつた。