大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第五編 跋

先主を憶ふ白杉嘉明三

私が先主に事ふること十八年、その間に於て私は先主より何ものを與へられたか。それは綜合的に要約して言ふならば、眞の人間として世に處する尊き名訓であつたことに氣付くのである。元來先主は口の人でなく徹頭徹尾實行の人で、その一擧一動の不知不識に堆積された全幅の足迹が、即ち生きた名訓をなすもので、それは名畫でもあり、麗文でもあつたのである。しかし正直に言ふと、先主在世中に於ける私は、無論先主を崇敬してゐたものゝ、その生きた名訓を一々明瞭に意識してはゐなかつた。しかるに先主の逝いて後、沈思瞑想、先主の足迹を追憶するに及んで、私は十八年の間、その名畫、その麗文の中に浸つてゐたことを、ほのぼのと曉の空が明るくなるやうに、次第次第に明瞭に意識するやうになつて來たのである。さうなると、切々綿々、居ても起つてもゐられないほど先主が慕はれて來て、今に猶瞻仰(せんぎょう)止まないものがある。思慕の情は遂に私をして功名心も榮達の望みもかなぐり捨てさせ、夙夜たゞ付託の全からざらんことのみを懼(おそ)れ、爾來二十數年、纔(わずか)に駑鈍(どどん)を竭(つく)して先主遺愛の現社長を扶翼し來たものである。

そこで本傳記の編纂を機とし、漸く薄れ行かんとする遠い記憶を辿り、懷しい先主の俤(おもかげ)を忍びたいと思ふのであるが、各般に渉る記述に依つて既にその大綱は盡されてあるので、私としては先主に事へた事柄の中から、主として挿話的の題材を搔き集め、或は屋上屋を架するの嫌ひがあるかも知れないが、更に事實の眞相を敷衍(ふえん)する目的で、こゝに追憶の記を綴るべく筆を執つたのである。しかしお恥しいことだが、餘りにも親しく日々に繰返された出來事の印象は兎角朦朧化され易いもので、隨(したが)つてその題材の貧弱さを喞たざるを得ないのである。たゞ希(こ)ふところは題材がいかに貧弱であつても、その裡に先主の奧ゆかしい俤の片影だけでも浮び出てゐるならば、私の本懷はこれに過ぎないのである。

私が先主に知られた動機

明治三十年前後、長田桃藏氏が先主の傘下に走せて副支配人を勤められてゐたが、長田氏は私より六歳を長じた同郷の先輩で、しかも氏は私の叔父白杉棟助に就て學び、私も亦長田氏の嚴父梅村素影翁に漢籍を學んだ特殊の關係があり、幼少より親睦の間柄であつたので、私は上阪後も時々先主の店に氏を訪ふて親睦を續けてゐた。何時の間にか長田氏の紹介に依つて自然先主とも親しくなり、偶私が訪問の際先主が幹部の方々と圓居(まどい)して肉鍋をつゝいてゐられた時など、私が遠慮してそのまゝ歸らうとすると、先主は『好いとこに來た。サア君も一杯やり給へ』といつた調子で如何にも心安く、白面の一書生に對して別け隔てなく歡待されたことなどもあり、その當時から、私の心の底の何處かに先主を慕ふ念が萌し初めたのであつた。そして元來私が長男の身でありながら父母の膝下を離れて故郷宮津を出た原因は、新時代がさうさせたのであらうが、父祖傳來の家業が日々に衰へ、少くも數百金を獲なかつたならこれが輓回は覺束なく、素より輕微の額ではあるが、如何に奮勵努力して見ても當時田舍の小都會でこれを獲ることは容易の業でなく、徒に焦慮煩悶するに過ぎなかつたので遂に意を決し、二十二歳の春郷里を後に二、三の親戚及知已を賴りに上阪したのであつた。上阪して見るとさう簡單に志望が遂げられるものでなく、荏苒(じんぜん)日を空うして長く居候も出來ず、先づ口を糊するの必要上、その時遞信省通信書記補の登用試驗に應じて登第したのを幸ひに、中之島の郵便本局に職を奉じ、徐(おもむろ)に大都會の情勢を窺ひつゝ素志貫徹に對する機會を狙つてゐたのであつたが、奈何せん通信書記補の身では心細いこと限りなく、折に觸れ長田氏を訪ふてやる瀨ない意中を愬(うった)へ、前途の畫策に就て相談したものであつた。偶或る日、私の志望を先主から質問されたので、私は包む所なく家業再興の志望を述べたところ、先主は懇(ねんごろ)に『第一に、物質的の成功を望むならばお金に縁遠い官途では難かしからう。第二に、目的の資を獲れば郷里に歸つて父祖の業を繼ぎたいのは誰しもの人情だが、田舍に歸つたが最後大した成功は覺束なからう。新時代に處するの要諦は目先を利かすことだ。俺とて呉服商から請負業に身を轉じたればこそ稍成功の緖に就てゐる。君が大阪に出たそれ自身が既に絶好の機會を摑んだといふもの、僅かばかりのお金はどうでもよいではないか、それよりは商工業の中心たる大阪の大都會で大に雄飛しよとは思はないか』と諄々(じゅんじゅん)として諭され、最後に『我が國は今や建築土木の改造又は創設期に直面してゐる。この事業は今後五十年、百年を經たとて容易に終熄するものでない。下手な方面を彷徨するより俺の店に來給へ。及ばずながら面倒を見て上げるよ』と、實に同情ある勸説(かんせつ)であつた。傍の長田氏も言下にこれを賛し、私も何かしら大きな力に抱かれたやうな氣がして、考へるとか他に相談するとかの餘地はなく、直ぐこの人のいふことならと、その場で御世話になることを即答したのであつた。時は明治三十一年の三月下旬で、先主から『總べてを片付けて五月から來給へ』といはれたので、その年の五月五日、しかも端午の節句の目出度い日に初めて先主傘下の一員に加はつたのである。

入社當時の大林

大阪靱南通四丁目岡崎橋北詰東へ入る南側に、間口七、八間、表は格子造で事務所風の總二階建の日本家、裏は川に沿ふて高塀が繞(めぐ)り、庭前には見越の松がそばたち、これに燒過煉瓦造の土藏が列び、廣くはないが數寄を凝らした離れの二階が人目を惹いた。(現在七里秀二氏邸宅)殊に新町九軒(地名)には七百坪ほどの敷地に多數の貸家を新築中であり、本邸の間近には數軒の貸家を構へ、經濟向も相當餘裕あるやうに見受けられた。

家庭は令夫人との間に一男(現社長)一女(新宅未亡人)を儲けられて和氣靄々、圓滿幸福の瑞氣(ずいき)が滿ち滿ちてゐるやうに感じられた。

營業は從來の華客關係たる方面の、阿部製紙、大阪硫曹、大和田硫酸等の外に日本纎糸の新工場を施工されつゝあり、殊に大阪築港工事起工早々の際で、天保山に新設の大阪市築港事務所本館その他の工事に着手され、就中(なかんずく)同工事の初期に於ける大工事ともいふべき木津川尻のブロツクヤード埋立工事が落札した直後の際であつたので、全く生氣潑剌たる新進の事業家振を發揮されてゐた。

私の入社當時の店名は單に個人名義の大林芳五郞店又は單に大林と呼んでゐた。だから昇給や任免黜陟(せっちょく)の辭令も單に大林芳五郞と記載するのが例で、下請職工等に給與する法被の襟文字も、現在の丸山のマークの下に篆書に近い「大林」の二字を白く染めぬいたもので、「組」といふ文字はなく、普通ありふれた法被と比較すると瀟洒なものであつた。その後明治三十七年の日露戰爭勃發の際、軍より人夫調達の命を拜した時軍からの命で人夫等に着用させる法被に初めて「大林組」と染めぬいた。大林組と稱するに至つたのはその時からである。

店員は支配人三村久吾氏を總元締に、副支配人長田桃藏氏、工務部長に伊藤哲郞氏、京都支店長に小原伊三郞氏、外に長老の下里熊次郞氏や福本源太郞、菱谷宗太郞、關根鐵造、伊丹幸次郞、高田松次郞、吉田剛三、安部貞次郞、高橋淸信諸氏等の敏腕家が、建築、土木、材料、總務等の各方面に配備せられ、萩眞太郞、小原孝平、菱谷常太郞、佃巳之助、三上良三の諸氏等、將來を囑目せられた小店員を合せて三十五、六名であつた。

友人知已中當時先主と最も昵懇で常に往來せられた人々は今西林三郞氏、片山和助氏、佐々木伊兵衛氏、山岡千太郞氏、宗像半之助氏、神戸萬太郞氏、松尾和助氏、土橋芳兵衛氏、顧問工學士鳥井菊助氏、柴田直正氏等で、志方勢七氏及金澤仁作氏は近隣の先輩として時折往來があつた。その他北野の木屋市、難波の南福、幸町の淡熊、九條の永福等、當時の請負業には深い夤縁(いんえん)を有つ所謂顏役の連中とも懇意であつた。

初の勤め

私は入社後大林家の二階に起居して食を給され、月俸は拾圓で總務掛に配屬せられ、專ら本店の庶務、會計と、現場への材料配給の連絡等に携つてゐた。しかし人員の尠かつた當時のことであるから、手隙の時はどの掛の仕事でも互に戮力(りくりょく)一致して執務したもので、見積積算の補助や或は檢算淨書等、朝七時前後から夜は十一時に至るのが定刻で、勞働時間の喧しくなつた今日から見ると隔世の感があり、まして公式に與へられた休暇は一ケ年を通じて正月の三ケ日と他の二大節及氏神祭等に過ぎなかつた。多少苦痛を感じたのは初めの二三ケ月で、馴れるに隨つて仕事の上に興味も加つて來て左程にも感じなくなつて來た。その後私は大阪築港工事の現場事務兼任を命ぜられ、日々築港作業場と本店との間を往復して寸暇とてない激務に當つたのである。ましてや二十三歳の田舍出の靑年が荒くれた土工人夫等を督して各種の現場事務を執つて行くのだから、隨分ヘマなこともあつたであらうし、且つ氣苦勞であつたが、何と云つても大林といふ旗印の下に職を執るのだから、須臾(しゅゆ)にして彼等を御するの術べをも辨(わきま)へ、愉快に任務に始終することが出來た。

長田氏去る

一ケ年ばかりは瞬く間に經過した。明くる明治三十二年の秋、先輩の長田氏は突然店を去ることゝなつた。その時私には長田氏が何故に店を去るのか、その原因は明瞭り判つてゐなかつたが、何かの行違ひで先主との間に感情の疎隔を來したものゝやうに仄聞(そくぶん)してゐた。兄ともたより且つ私を先主に推擧して呉れた先輩を失ふのだから、私としては無量の寂しさを感ぜずにはゐられなかつた。しかし自分は既に先主との間に主從の關係が結ばれてゐる以上、身を切られるほど辛らかつたが、去り行く長田氏を慰問することも、亦當時自分の低い地位からして相互の間に立つて融和の勞を執るといふやうな機會も與へられなかつた。のみならず私は心窃に一抹の不安を感じた。それは、長田氏が去つた後從前通りに自分が勤めてゐられるだらうか、といふ一事であつた。しかるにその後先主の私に對する態度は少しの變りもなかつた。この一事は最も痛切に先主の偉大さを味つた最初のものであつた。

大阪府師範學校工事と大阪の請負界

明治三十二年の初夏の頃、大阪府師範學校新營工事の公入札が行はれた。開札の結果は意外にも入札者は大林芳五郞の一名のみで、大阪府は制規に反し入札の意義を失ふものとなし期日を改めて再入札に付した。幸ひ次回は某請負人が參加し、遂に拾九萬八千圓で大林の手に歸したのであつた。當時大阪の請負界には日本土木會社、木村音右衛門、橋本料左衛門、大溝傳兵衛、金川新助、秋田重助、錢高善藏、古川政吉、佐藤勇七、川尻五兵衛、茨木喜兵衛、入江伊助等の諸氏があり、數に於ては相當に富んでゐたが、多くは請負業者として古い歴史を有ち、旦那筋たる華客先を有つてゐたので、公告を追ふてまで請負工事を取得しようとする積極的の觀念もなく、態々(わざわざ)一割の保證金まで納付して絶對嚴肅(げんしゅく)な監督下に官廳(かんちょう)工事に從ふ要もなく、又めぼしい工事といつても二、三萬程度のものが多い當時としては巨額な保證金を納むる餘裕のない向もあつたであらうから、かく師範學校工事に於て入札者が大林一人といふ奇現象を呈したのも無理はなかつたのである。今日の如く全國無墻壁(しょうへき)に何れの場所の工事にも當るといふやうなことは、特殊の工事でない限りは殆ど無いと云つてよいほど各請負業者は小さな天地を泳いでゐたもので、且つ請負業者そのものゝ規模に於ても、營業振りに於ても、技術に於ても實に幼稚を極めたものであつた。そこに行くと新進氣銳な先主は、官廳工事であらうが、民間工事であらうが、東京であらうが、京都であらうが、自己の力の及ぶ限りは羽翼を伸すに躊躇してゐられかつた。時には莫大な損失に終ることもあり、堪へ難い辛酸苦楚を嘗めたことも尠くなかつたが、その積極方針が逐次自己の城廓を築き上げる唯一の基礎となつたのである。大阪師範學校工事の如きも苦い經驗中の一ツであつて、同工事に於ける材料の檢査は言語に絶するほど辛辣を極めたもので、檜小節材の設計に對し豆粒大の節さへも不合格と宣告され、その不合格材は積んで山をなすに至つたのである。共に當時の監督にして府技手たりし加藤芳太郞及指田孝太郞の兩氏が見るに見兼ねて、見え隱れの節は敢て問ふの必要はないではないか、と同情ある強硬の進言をされた結果、その後多少緩和するに至つたものゝ、遂に大林は本工事に於て莫大の損失を蒙(こうむ)つたのである。果然新築落成の際府政の耆宿(きしゅく)植場平氏が、質實剛健を尊ぶ師範學校に斯樣に立派な建築を爲すとは何事ぞ、と當局の非常識を難詰されたのであつた。その後面白いことには、多くの府監督員が自己の功を認められなかつたことに憤慨し、次回新築の北野中學校工事に於ては全く放任主義を採つたので、これが請負人たりし某氏は意外の利潤を得たといふことを聞いたことがある。尚先主は爾後前記の加藤芳太郞及指田孝太郞兩氏の同情に感激してゐられたが、數年の後兩氏共先主の招聘に應じ、相前後.して大林に入つて共に大林組の建築實施方面に多大の貢獻を積まれ、加藤氏は後監査役に、指田氏は後工作所長に榮進されて晩年を全ふされたのであつた。

明治三十四年のパニツク

本記築港工事中にも述べてあるが、日淸戰役に於ける財界好況の反動が、明治三十四年三月頃より襲ひ來つて遂に四月中旬頃には益暴威を逞しくするに至り、殊に大阪に於ける慘状は全國に冠絶し、七十九、難波、逸見の各銀行が相次で破綻し、その他關西貿易會社を首(はじ)め新興會社の大半が影を沒し、第一線を退いた財界知名の士も尠くなかつた。時も時、大林は前記大阪府師範學校工事の損失に加へ、一方滋賀縣膳所師範學校工事に於ても打撃を受けた直後のことゝて、パニツクの襲來は一大脅威たるを免れず、世間一般誰人も蒙つた恐慌とは云へながら、金融梗塞、全く累卵の危機に瀕したのであつた。この時先主の數多知友が期せずして驅け集り、各自思ひ思ひに物心兩方面の支援を與へられ、こゝに先主の窮地を救はんとする涙ぐましい場面が展開されたのであつたが、盟友今西林三郞氏及平常より最も有力な支援者たる佐々木伊兵衛氏の如きも、同じく渦中に喘ぐ身であつた爲に手の下しようもなく、唯運命に任すより外途のないところまで危機は刻々に迫り來つたのであつた。今でもその時を追想すると慄然たらざるを得ない。しかし私はその時、容易に味ふことの出來ない骨肉にも勝る友情愛を心ゆくまで味ひぬいたことを喜んでゐる。西諺(せいげん)に、繁榮は友を得、艱難(かんなん)はこれを試むといふことがあるが、かうした艱難時に集つた友が眞の友で、その友情愛を味ふと同時にかくも多數の眞の友を有つた先主の偉大さに驚かざるを得なかつたのである。これ全く先主平常に於ける德行の反映であつて、もし先主が有德任俠の士でなかつたなら、かうした美しい場面は見たくとも現はれなかつたに相違ない。

かく親近朋友及一社を擧げての努力も、燎原の火の如きパニツクには抗すべくもなく、手形の支拂場所たる百三十銀行に對し八千餘圓の決濟がどうしても付かず、銀行當事者よりは日沒までに廻金せざれば不渡處分に付するとまでの嚴重な通告があり、先主を首め一同は呆然自失するのみであつた。偶この窮地を聞き知つた長田桃藏氏が、同銀行支配人の杉本安吉氏と別懇(べっこん)の仲であつたのを幸ひに、長田氏は山岡千太郞氏と相語らつて杉本氏を訪ふて猶豫方を悃請したのであつた。恰もよし、その時杉本氏は頭取たる松本重太郞氏の堂島邸に居られたので、松本頭取とも會見の機が得られ、長田、山岡兩氏の眞摯熱誠の懇談は遂に松本、杉本の兩氏を動かして一日間の猶豫を承諾された爲に、不渡處分の厄を免がれて信用上實に絶大の効果を收め得たのである。この吉報の齎(もたら)された時、先主を首め我々一同は全く蘇生の思ひをなしたのであつた。曾て意見の相違から先主の下を去つた長田氏にかうした雅懷(がかい)のあることを夢想だにしてゐなかつた先主は、いたく氏の誠意に感じて爾後再び舊(きゅう)交を温められたのである。

その後金融の梗塞は益甚だしく、この難關突破の爲根本的整理案を樹(た)てたのであつたが、結局更に三萬圓の資金を得ざれば到底事業の維持が困難といふ結論に到達したのであつた。さりとて不動産の處分や、貸金の回收等の緩慢な策では急場を救ふことは出來ず、汽船や帆船を賣却すれば事業の經營が停止され、全く進退兩難の危地に陷つたのである。大林に於ては時恰も大阪市の大事業たる十ケ年計畫の築港工事を請負つてこれが施工の眞最中であつたので、資金難はこの意義ある工事の繼續(けいぞく)にも支障を來し、流石に豪腹の先主も萬策盡きて遁世とまで覺悟されると同時に、直接工事の衝に當つてゐた私と工務の伊藤哲郞氏に同工事返上の前後措置を命ぜられ、聲涙共に下る悲愴の決意を示されたのであつた。私は兎も角築港の市要路者に愬へてその意向を確めんものと、急遽築港事務所に時の經理課長平田專太郞氏を訪(とぶら)ひ、現下に於ける財界の動向と大林の窮状を赤裸々に愬へ、築港工事返上の已むなき旨と先主が顧負に背く罪を恥ぢて出頭の勇氣なきことまでを具さに陳情した。その時の時間は丁度午後の三時頃であつた。平田課長は大に驚いて直ちに所長西村捨三氏に報告し、西村所長も亦倉惶として各課長を集め鳩首協議を遂げられたのであつた。

元來大林が築港當局より絶大の信任を博した原因は、獨りブロツクヤードその他の工事實施に優秀の技能を發揮したばかりでなく、同工事の主要材料たる石材の納入に對し、二、三著名の專門業者はあつたが、彼等の間には事毎に一種の協定が行はれ、勢ひ納入價額が昂騰するのみならず、納期の確實が保てないので常に當局の顰蹙(ひんしゅく)を買つてゐた折柄、當時請負界の三大惡弊打破を叫んでゐた先主の氣骨が當局の認むるところとなり、遂に既定の納入者を牽制し、又多量納入の方針を遂行せしむる爲に、既定納入者以外の石材採取場より既定以外の船舶を以て別個に納入することを條件とし、特命を以て石材納入の大半をも先主に請負はせたものである。先主もその恩顧に感激して當局の主旨を體し、帆船二十雙及汽船雜賀丸を購入して主要部隊となし、これに新募集帆船數十艘を加へ、大々的に淡路、小豆島及直島方面の石材經營に當り、彼等專門業者をして後へに瞠若(どうじゃく)たらしめたのであつて、さうした關係に置かれてあつた大林がもし引退するとせば、再び價格の昇騰と納入の遲延を來すことは火を睹(み)るより明かであるのみならず、當時關西の請負界に於て、氣骨稜々(りょうりょう)打てば響くやうな先主に代はるものが見當らなかつたので、西村所長以下の心痛一方ならず、遂に當時同じく築港工事の御用商人たる範多龍太郞氏の支配人石原市松氏を招かれ、好意的に懇談の結果、同氏口添への下に鴻池銀行に於て所期三萬圓融通の途が開かれ、さしもの難局が午後九時頃に至り、やつとのことで死地を脱することが出來たのであつた。この吉報が齎(もた)らされた時の先主は、夢かとばかりに驚き且つ喜び、深い感激の涙を以て西村翁以下諸氏の厚意を感謝したのであつた。その後須臾にして財界も平常に復し、隨つて大林の整理も順調に進んだので引き續き數年間に彌(わた)る築港大工事の各種用命を首尾よく果すことを得たのである。私は、德孤ならず必ず隣ありで、常に俯仰天地に愧ぢない正道を踏み來つた先主の德行が、かうしたときに完全に酬ひられたことを痛切に感じたのであつた。

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