大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第四編 飛花落葉(逸話)

殘らず置いて行け

故人が何かの用事で臺所にゐたやうなとき、偶出入の肴屋が威勢よく驅け込むと、故人は『生きは良いか、良いなら殘らず置いて行け』と全部を買ひ取つて興がることがある。肴屋は故人のこの氣前に目を白黑にして驚きもし又三拜九拜する。無論その日は下男女中に至るまで時ならぬ舌の法樂日となるのである。八百屋などにも時折さうしたことがあつて、彼等は故人を福の神のやうに慕つてゐたものである。

子なればこそ

豐橋師團工事の折、故人は材料上のことで伊藤哲郞氏を完膚なきまでに叱り飛ばしたことがある。その後伊藤氏は意平かでなく、工事終了後の或る日、辭表を懷にして故人の前に立つて當時の罪を謝した。叱つたことなど既に念頭を去つてゐた故人のことだから、今頃改まつて何をいふのかと不審に思つた。すると伊藤氏は懼(おそ)る懼る懷中の辭表を提出したので、明敏な故人は、叱られたのを不平に辭職を申出たのだなと直ちに判斷したのである。實に伊藤氏のやうなかけ替への無い重鎭を失ふことは、大林組としての大打撃で、容易ならざる大問題なのである。このやうな重大問題に直面した場合に、普通の人なら『僕は怒りつぽいのが缺點でね、その時の機勢(はず)みで怒つたものゝ後悔してゐるのだよ。お互の間だ。水に流してはどうか』と宥(なだ)め賺(すか)すのが常識的な懷柔手段であるのに、故人の直情徑行はそんな巧妙な戰術を用ひる餘裕がない。辭表を一瞥するなり、『お前は俺を困らすのか』と大喝睥睨(だいかつへいげい)した。伊藤氏は再び辭表を懷中してスゴスゴと退き下つたのであつた。『お前は俺を困らすのか』の一言は實に無限の味がある。言中には『お前が罷めたら俺は困るのだよ』といふ意味が籠つてゐる。如何に直情徑行とはいひながら、普通の人なら他人に對して困つたことを困つたと明らさまに兜は脱げない筈であるのに、この男は怒られたのを不滿に思つてゐるのだなと感づいてゐながら、再び大雷を落した故人の眼には、伊藤氏が我が子としか映じてゐなかつたと想像される。

理由のない金は受けぬ

日露戰後、事業熱の高潮に乘じて或る保險會社設立の發起計畫があり、故人は岩下翁を通じ片岡直輝翁に一千株ばかりの株式引受を依賴してその承諾を得、勿論一切の裁量は故人が委かされてあつたので、後、その株式によつて相當の利益を獲得した時、故人は一社員を使として片岡邸にその利益を持たせてやつた。翁は忘れてゐた頃とて意外の利益に驚きもし、且つ故人の男らしい行動に感服し、眞におための意味で使者の社員に過分の金封を與へられた。辭退しても中々聽き入れられないので、使者は已むなく持歸つて故人にこれを復命した。一兩日を經て故人は自ら翁を訪(とぶら)ひ、『私の社員に私の使をさせたのに貴下から過分のお金を戴いては恐縮します。お志は有難くお受けいたしますが、他の社員の風紀にも關係しますのでこのお金はお返しいたします』と社員に與へた金封をそのまゝ翁に返還し、後は愉快な雜談などに打興じて辭去したのであつた。

水と懷

或る日故人が下請のH親分を訪ふた時、その家の若者は、それ旦那のお越しといふので、下にも置かない鄭重ぶり。故人は喉が乾いてゐたので水を一杯所望した。水晶のやうな淸水がコツプに波々と搬ばれて來た。搬んだ若者は『近所界隈にはこんな良い水は御座いません』といつて大自慢。(當時水道は無かつた)故人はコツプを手にして『成程綺麗な水だ。君の懷のやうかね』と言つてその水を譽めた。若者は何の意味か判らないが、綺麗な水と自分の懷とを對照されたので、無論自分も譽められたものと早合點し、得意滿面の體である。故人は一氣に水を飮み乾して若者を顧み、『成程良い水だ、金氣が無いわ』とやつた。自分の懷、金氣が無い。若者は急轉直下奈落へ墜ちたやう、啞然として頭を搔いてゐた。

無名の同情

或る東京の繩暖簾(なわすだれ)の居酒屋に、倶梨伽羅紋々の土工らしい五、六人が威勢よく大杯を擧げてゐる。その中の一人が『東京ステーシヨン工事は東京として開闢(かいびゃく)以來の大工事だ。東京には淸水組、大倉組、安藤組といふやうな錚々(そうそう)たる大請負者が揃つてゐるのに、まだ名も聞かない大林組とかいふ關西の贅六(ざいろく)にしてやられたとは江戸ツ子の恥辱でないか』などゝ盛んに慷慨(こうがい)悲憤してゐる。するとその一團の棟梁株らしい中老の一人が『お前等も宮城工事に參加してゐたから知つてゐるだらうが、宮内省御出入の砂崎さんの若衆で、もの書きが上手で、太ツ腹で、軀が大きくて、男ツぷりのよい、よく女に持てた德さんといふのを知つてゐるだらう。今の大林組の社長といふのはその德さんだよ』と説明した。これを聞いた一團の者、今までの慷慨は何處へやら、たゞ愕然として大きな眼をむき、『あの時分から我々風情とは違つて偉いところがあつたが、よもやかうした大ものになるとは夢にも思はなかつた』と長大息し『もう文句は罷めにして德さんを祝つてやらう』と一齊に大林組の萬歳を唱へた。(その中老の人は太四郞君といつて、故人の創業當時に、一時故人の部下として働いたこともある)

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