大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第五編 跋

先主を憶ふ白杉嘉明三

日露戰後の軍備擴張工事と先主

明治三十八年九月五日、ポーツマスに於て日露兩全權の間に締結された平和條約は、一年有半に彌(わた)る戰禍を終熄せしめ、東洋の山河は久しぶりに凞(き)たる麗光に浴することが出來、しかして蕞爾(さいじ)たる我が日東帝國は忽如として世界の檜舞臺(ぶたい)に登場することゝなり、自然永遠の平和を確保する爲更に軍備擴張の要に迫られ、陸軍方面に於ては、在來近衞師團の外十二個師團であつたものを、朝鮮に一個師團の駐剳(ちゅうさつ)軍と、内地に六個師團即ち合計七個師團の增設を見ることゝなつたのである。こゝに於て大林組は明治三十九年より同四十二年九月までの約三年間に於て、下記工事の用命を拜し、何れも優秀の成績を以て命を完ふしたのである。

  • ○朝鮮駐剳軍龍山平壤歩兵聯隊兵營新設工事
  • ○大阪砲兵工廠辨天島倉庫其他工事
  • ○第四師團天王寺陸軍廠舍工事
  • ○第一師團被服廠汽罐室工事
  • ○岐阜歩兵聯隊兵營及衞戍病院其他各種工事
  • ○篠山歩兵聯隊兵營及衞戍病院其他工事
  • ○岡山野砲兵聯隊及輜重(しちょう)兵工兵山砲各兵營並に兵器支廠(ししょう)其他工事
  • ○韓國駐剳軍司令部其他各種兵營工事
  • ○德島歩兵聯隊兵營其他工事
  • ○豊橋第十五師團司令部其他各種兵營工事
  • ○津歩兵聯隊兵營其他工事
  • ○奈良歩兵聯隊兵營其他工事
  • ○第四師團禁野火藥庫工事
  • ○第四師團玉造門内造兵器庫其他工事
  • ○善通寺陸軍兵器支廠工事
  • ○宇品陸軍糧秣支廠工場其他工事

以上を總括すると實に二個師團の全部と六個の聯隊その他で、優に三個師團半に達する尨大さで、請負金額も八百數十萬圓に及んでゐる。即ち數ある請負業者中、大林組獨力を以て軍備擴張に依る七個師團增設中のその半ばを施工したわけであつて、明治三十七年二月日露開戰以來約五ケ年有餘の期間は、全く軍事工事に沒頭して他を顧みる遑(いとま)もなく、その間已むを得ざる民間工事は僅に二十數件、請負額は三百萬圓に過ぎなかつたのである。しかも軍工事は總べてに於て民間工事とは甚だしい懸隔があり、期限萬端特に嚴肅(げんしゅく)を極めたものであるが、自己の利害をば全然顧みず、自ら進んでその難きに赴いたことは、そこに何かの理由が存在しなければならない筈で、無論盡忠報國の大精神から出發してゐるには相違ないが、元來先主は所謂軍人氣質ともいふ性格を多量に有つてゐて、軍人が好きであつたといふことが偶軍國多事の秋に先主の血を湧きたゝせ、勇躍その難に赴いて自ら快哉を叫んだことは先主をよく知る誰人も首肯する點だらうと思ふ。その後明治四十三年十一月の攝、河、泉に於ける大演習の際、かうした氣分の橫溢した先主の別墅(べっしょ)に、期せずして山根、上原、小泉の三將軍が宿られたのであるから、先主は心から三將軍を歡待したもので、更に運命の神は上原將軍と先主と相契合する機會を與へた爲に、遂には兩々無二の知已ともなつて上原、大林兩家の結縁を見るに至つたものである。

前掲の日露戰役後に於ける軍備擴張工事に入る初頭であつたが、戰時中に於ける各種工事の終了を告げて、大風後の靜けさを感じた明治三十九年の二月、朝鮮駐剳軍の大兵營工事の計畫あるを仄聞(そくぶん)し、今度こそは愼重の態度で昔日の轍を踏まぬよう、先主自ら船越技師長、小原伊三郞社員並に私を隨へて朝鮮視察の途に上つたのであつた。その行程は先づ釜山より鐵路朝鮮を縱斷して新義州に出で、更に徐々南下したもので、車中に於ては色褪せた繪畫を見るやうな無愛相の山川草木ではあるが、たゞその風物の珍らしさに飽くことなく、まして先主獨得の快談は風の如くに湧き、些の無聊さへ感じなかつた。たゞ弱らされたことは、淸津江の鐵橋が未完成であつたので數百間もある氷結した幅二、三尺の假橋を渡つたときで、辷(すべ)り落ちたが最後命がいくら有つても足りない。そこで先主には特に草履を勸めて前後からこれを護りつゝ渡橋したのであつた。更に淸津江以北は未だ客車の無い時であつたから軍用鐵道の貨車に便乘し、車中石油罐の木炭で少に暖を取つたに過ぎず、その時は隨分苦痛を感じたのであつたが、後から思ひ起すと興味津々たるものがある。

新義州に着くと新に製材工場長の職に就いた伊集院兼良氏と、次長の多田榮吉氏が狂喜して先主を迎へて呉れ、更に氷結せる雄大な鴨綠江上を橇(そり)で走つて安東縣に金子彌平氏を訪ね初めて本場調理の支那料理に舌皷を打つなど感興は忘れ難きものがあつた。まして自己苦心の製材工場の鋸の音が原始的な鮮滿國境に文化的警醒の響きを漂はせ、驛頭電燈の煌々たるは獨り新義州驛のみで、先主は家郷數百里外に自己勢力の伸長されつゝあるこれ等の状景を目睹し、感慨無量の面もちで意氣軒昂たる樣は今も目に見えるやうである。

歸途仁川の臨時軍用鐵道監部に敬意を表し、旅行の目的を全ふした。この朝鮮行は先主その他に朝鮮の實状を印象づけ、將來に對する各種の計畫上大なる收穫を齎(もたら)したのである。そして愈戰後の軍備擴張期に入るに及んで、その年の七月、龍山及平壤の駐屯軍各種兵營工事の指名を仰ぎ遂に落札の榮冠を贏(か)ち獲たのである。この入札には工務の總帥たる伊藤哲郞氏が自らその衝に當つたのであつたが、本記にも記述されてある通り、我が落札金額と大倉組の二番札との入札差額が約三十萬圓といふに至つては彼我共に驚愕せざるを得なかつたのである。見積にかけては神のやうな伊藤氏であつたが、土地不案内の爲に思はぬ見積違ひを演じたもので、恐らく千慮の一矢とでもいふのであらう。しかし人間萬事塞翁の馬で何が幸ひを齎(もたら)すやら豫期し難く、さうした極端な安價入札ではあつたが、多年育てられて責任感の強い現場總主任の小原伊三郞氏と、副主任たる植村克己氏との献身的努力の功は直ちに工事の上に反映し、工程頗る順調、出來榮も亦優秀であつたので、軍當局より多大の信任を博すると共に、その滅私奉公の現れとも見られる安價提供に同情が集り、その後砲兵聯隊、兵器支廠、司令部その他長官々舍等に至るまでの總べての工事を特命を以て施工の寵命に浴することを得、その請負總額は二百數十萬圓に達し、全工事の完成と共に朝鮮進出の有終の美が初めて飾られたのである。まして更に北鮮の兵營工事に對する準備の爲、小原氏は自ら淸津より軍用トロツコに便乘して、羅南、會寧等の邊境を踏査して大に期するところがあり、一ト先内地へ歸還の途上偶二豎(にじゅ)の冒すところとなり、その堪へ難きに至つて岡山に下車し、縣立病院に入院したのであつたが病は膓窒扶斯(チフス)と診斷され、しかも治療の期を失した爲膓出血止まず、不幸白玉樓中の人となつたのであつて、孜々(しし)奮勵使命を完ふして更に南船北馬、全く職に殉じたのである。氏は創業當時より先主に隸屬してその四天王と謳(うた)はれた一人で、棟梁の器であつたばかりでなく、特に商才と工事の實施に長け、容易に得難き材であつたのに洵に惜むべきの人物を失つたものである。その後の朝鮮工事は小原氏の死と共に植村氏によつて完成を遂げた。

以上の朝鮮駐剳軍の各種工事は、明治三十八年八月に請負の下命があり、爾後同四十一年五月に至る約二ケ年間に次々と各師團の用命を拜し、大林組は他を顧みるに遑ないほど繁忙を極めたのであつて、就中(なかんずく)岡山師團の工事と、豊橋師團の工事は、朝鮮駐剳軍の工事と共に大林組の請負にかゝる軍備擴張の三大工事と稱し得べく、殊に豐橋師團工事の如きは嶄然(ざんぜん)として他を凌ぐ尨大なものであり、本記にも述べてある如く先主自らが第一線に立つて活動されたほどの大工事であつたのである。しかしさしも應接に遑なき數ある尨大な軍備擴張工事も、明治四十二年の九月に至り、孰(いず)れも好成績の下に工を終へた。日露開戰以來戰後に至る數ケ年間の目覺しい活躍奮鬪によつて、先主には體から後光がさすほど洗煉琢磨の箔がつきやがて請負界の覇者たるべく基礎つけられたのである。しかし一歩進めば更に一歩を進めやうとする徹頭徹尾邁進的な先主の性格は、餘力を驅つて更に羽翼を別天地に展ばすべく駻馬に鞭をあてたのである。

岩下翁との連鎖

友ほど有り難いものはなく、豫(かね)ての盟友今西林三郞氏が縁結びの神樣となつて、明治三十八年の二月、濱寺俘虜(ふりょ)收容所工事終了の直後、岩下翁と先主との接觸が實現され、爾後先主は翁を無二の先輩としてその誘掖(ゆうえき)指導を仰いだのである。本記岩下翁との連鎖の項に私の述懷を載せてあるが、以下項を分けて更にその詳細を述べて見たい。

1 先主が請負業者として翁より受けた新智識

中島知久平氏が最近「我が國は現下歐米に學ふ何物もない」と豪語されるほど、我か國の文物は近時急速の發達を遂げてゐるが、日露戰直後當時に於ては兵力に於てのみ自信を持つに至つたものゝ、一般の歐米文明に對する憧憬は聊(いささ)かも終熄してゐなかつた。殊にその發達の最も幼稚であつた土木建築界に於ては猶更のことで、かうした時に長く歐洲に遊んだ岩下翁のその該博な蘊蓄(うんちく)を傾けての卓見は、聞く先主の耳朶を擘くほど耳新しいものがあり、先主は全くその新智識に魅了し盡され、同時に翁に對する傾倒も心醉的に進んだものであつた。そこで各種翁の卓見中請負業者として最も味ふべき、十年、二十年後を見透したものは大體下記の數項で、今日から見ると左迄驚くほどのものもあるまいが、當時としては非常な卓見として響いたものである。

  • ○我が國のやうな四面環海の小さな島國は、何處までも工業立國で進まなければならない。しかるにその根源をなす動力とか、交通機關等の施設が甚だ貧弱だ。將來はこの方面に大きな力が注がれるであらう。
  • ○商工業の發達と共に都市の勃興を來し、勢ひ五層、十層の高層建築の時代が來る。
  • ○家庭工業が工場化され、且つ科學の發達に伴れて各種工業が收縮統制され、多數且つ大規模の工場が出現するだらう。
  • ○舊來(きゅうらい)の日本式陰鬱な木造建築は過度時代の遺物であつて、次第に明るい洋風の耐火構造に變るだらう。
  • ○我が國に於て未だ幼稚の域を脱しない港灣、橋梁、道路、鐵道、水電等の土木工事が次第に殷賑(いんしん)の度を增すであらう。
  • ○土木又は建築物の發達と共に工法の革新が要求され、斬新優良の技術者の必要と機械力應用の時代が來る。
  • ○土木建築界の殷賑は請負業者を發達向上させる、隨(したが)つて請負業者としてもその組織、制度機關等の整備と充實が強調される。

如上の請負界に對する翁の見透しは、經濟界や、事業界等の大勢と歐米先進國の凡(あら)ゆる實際を基礎に置いた極めて該博適切な縮圖であり、さうしたことに餘り無關心で只無意識に日々の業に沒頭して來た先主のことだから、その總てが肯綮(こうけい)に當らざるはなく、同時に暗の中から遽に明みに出たやう、前途に赫耀たる光明を認むるに至つたもので、そこへ先主の性格が實踐躬行(きゅうこう)的に出來上つてゐたから、恰も薪に油を注ぐやうな非常な勢ひで實行に入つたのである。下に逐次實行に移つた代表的のものを擧げると

  • △明治三十八年六月、本店を靱より北濱二丁目に移し、規模數倍且つ整備した店舖を張つた
  • △同年人的要素の完備を目的に、技術的新人として呉鎭守府建築課長たりし工學士船越欽哉氏を聘し、次で内務技師有馬義敬氏、後廣島電鐵の常務たりし池田源十郞氏、更に年を逐ふて現常務取締役植村克己氏、元常務取締役松本禹象氏、明治四十二年に至つて工學博士岡胤信氏を迎へ、爾後數年間に夥(おびただ)しい有爲の新人を傘下に集めた。
  • △同年、尻無川沿岸の舊(きゅう)式な木挽工場を廢し、電動力による有力な製材工場を境川に新設した。
  • △同年、内部の機構を組織化して各般の制度を確立した。
  • △明治三十九年、七里淸介氏等と共に大阪電氣軌道會社(大軌)の設立に參畫し、後卓越した技術を以て生駒大隧道工事を完成した。
  • △明治四十年十月岩下翁に依つて創立された箕面有馬電氣軌道會社(現阪急)の大株主として投資し、その後同社各種工事を請負施工した。
  • △明治四十二年七月、大林組を合資組織の法人に改め、陣容を張ると共に面目を一新した。
  • △同年九月、新陣容の下に岩越線第七區線路工事を請負ひ、初めて鐵道院の建築工事に進出した。
  • △大正元年八月、百三十銀行曾根崎支店工事を請負ひ、大阪に於ける銀行建築として初めての鐵筋コンクリート工事に斬新工法の試練を積んだ。

要するに岩下翁と接觸以來の先主は、請負界の新人たるに愧ぢず、將來伸びんとする總べての計畫がこの時に樹立され、今日ある大林組の基礎をこの時に盤石化したのである。

2 一般事業界への飛躍の勸説(かんせつ)

日露戰後に於ける我が國事業界の勃興は實に素晴しいものがあり、岩下翁の銳眼は夙(つと)に先主が請負業界の一角でこそあれ、空手空拳を以て關西に雄を稱ふるに至つたその人物、手腕等を見遁しはせず、先主をして更に一般業界の大きな天地に遊戈(ゆうよく)させたなら、より以上の大を成するに至るだらうと囑目してゐたので、折に觸れ盛にこれを先主に慫慂(しょうよう)したものであつた。先主自身も亦事業界勃興の千載一遇たる好機に盲目の筈がなく、さなぎだに性來の勝ち氣は一氣呵成に一般事業界の眞只中へ馬を進めたかつたのだが、何分明治四十二年の半ば頃までは軍備擴張工事に忙殺され他を顧みるに遑か無かつたので、その間僅に鳴尾競馬場を發起創設した外滿を持して放たなかつたのである。しかし或る程度の準備工作は徐々に進められてあり、殊に慧眼にして機を觀るに敏な先主は、人の儲ける絶好の機に指を銜(くわ)へて袖手傍觀(しゅうしゅぼうかん)が出來るものでなく、各種事業會社の創立時等に於ける株式募集に應じて巨利を博したことは、他日の雄飛に資するところが尠くなかつた。そして又その期間に於て、明治三十七年七月、今西氏の勸めに動かされて大阪商業會議所議員に當選し、同四十一年の改選期に至る滿四ケ年間、商工業の樞軸に參與して財界その他各種事業界の動向等を具さに研鑽し、商略的進退の機微等をこの間に於て徐(おもむろ)に達觀し得たことは、岩下翁の指導啓發と共に先主のスタートに非常な自信と強みとを與へたものである。しかして明治四十二年の七月、大林組を合資組織に革(あらた)めて先輩の伊藤哲郞氏と私とを代表社員に任じ先主自身は相談役の閑職に就き、愈々強弩(きょうど)の弦を放れたやうに一般事業界に驀進したのである。そして關係した各種事業會社は十數社を數ふることが出來るが、就中先主が中心となつて起業した代表的のものは、廣島瓦斯、廣島電氣軌道、阪堺電氣軌道の三社であつて、その創立の詳細は別項に於て記述することにする。兎に角請負界の一角より更に一般事業界に雄飛後の先主は、活動範圍が更に擴大されただけあつて、より大きな大林芳五郞が浮み出た觀をなすものである。これ全く先主の性格又は自然的四圍(しい)の情勢がかくさせたやうの趣はあるが、岩下翁の勸説が主因であつたことは否定することが出來ない。

3 翁の推輓(すいばん)

先主は如上の如く翁の勸めによつて一般事業界に馬を進めた關係もあり、先主に對する翁の推輓も亦白熱的であつたのである。翁は初め「男の中の男を發見したよ」と言つて先主を他に紹介もし推擧もしたのである。事業界入りの初頭翁の肝入りで關西實業家中の巨頭連三十餘名を灘萬に招待して盛宴を張つたことがあつたが、實にきらびやかな門出の宴で、先主としても意氣天を衝くの概があつたのである。爾來事業關係で特に密接の關係にあつた主な人々は、片岡直輝、今西林三郞、永田仁助、島德藏、天野利三郞、高倉藤平、志方勢七、田附政治郞、渡邊千代三郞、七里淸介、山岡千太郞、小林一三、速水太郞、武岡豊太、秋山恕郷、大谷順作、金森又一郞、武内作平、宮崎敬介、郷誠之助男、中島久萬吉男、山本條太郞、岸淸一、加藤恒忠、松方幸次郞、原敬、奧繁三郞、速水整爾、内藤爲三郞、田淵知秋等の諸氏を擧げることが出來、その中半數以上は翁及片岡翁の推輓に依つて出來た先輩又は知友で、しかも先主の豪宕大腹(ごうとうたいふく)、謙讓柔和、任俠淸廉等の性格は、知らず識らずの間に多數膠漆(こうしつ)の友さへ生ずるに至つたのである。殊に樽俎折衝(そんそせっしょう)の妙に至つては他の匹儔を許さぬ天品のコツを自得されてゐて、或る人が先主を「主角のとれた圓滿無礙(えんまんむげ)の人格者で、大阪實業界の良協調劑である」とまで評されたことがあるが、翁がよく先主の性格を熟察されて推輓を吝(おし)まなかつたその炯眼(けいがん)には畏服せざるを得ない。 以上は一般事業界に於ての推輓であるが、大林組としても翁の推擧に俟つものが甚だ多かつた。その主なものを擧げると、日本醤油釀造會社工場工事、箕面有馬電氣軌道會社各種工事、北濱銀行堂島支店工事、大阪電氣軌道會社生駒隧道工事、北濱銀行築港社宅工事等で、これが請負總額は數百萬圓の巨額に達したのである。しかも先主物故後も翁の御生存中は絶えず心に懸けられて陰に陽に推擧を辱(かたじけの)ふし、殊に江州石山に建設された東洋レーヨンの大工場新築工事の如きは、翁の推擧による賜であることを、後日翁の亡くなられた御通夜の際、同席された安川社長より詳細に伺つて、覺へず襟を斂(おさ)めて感動したこともあつた。

4 翁の難に赴く

岩下翁の啓沃(けいよく)に依つて請負界から一般事業界の大きな天地を飛翔するに至つた先主は、翁の德を夢寐(むび)にだも閑却せず、一朝翁の陣營に事あらば一番に走せ參じ、畢生(ひっせい)の勇を鼓して縱橫に健鬪するのを常とし、從容として義に赴くその武者振り、その意氣眞に古武士を見るの趣があつた。元來先主は先天的に任俠の性に富んでゐて一部下、一知人の急にさへ敢然として赴援するのを常とした。それは先主の性格の赤裸々な露はれであつて自然の勢ひなのである。人情紙の如き世に實に珍らしい人柄であつた。

そこで先主の健鬪した岩下翁の難であるが、大體下記三ツの問題であらう。即ち明治四十三年十一月に解散した日本醤油釀造會社の後始末、大正二年四月破綻を見た才賀電氣商會の救濟、大正三年四月取附の厄に遭つた北濱銀行の整理等に歸着するが、この三問題に就ては既に本記に於て詳述してあるから、私はその中の二、三を敷衍(ふえん)するに止める。

翁は事を起す孰れの場合でも私利私慾を目標に置いたことはなく、しかも世の毀譽褒貶(きよほうへん)に頗(すこぶ)る無頓着で、是を是なりとし、否を否なりとする直言は何人にも怖ぢない勇敢さがあり、國家富源の開拓には時に盲目なほど熾烈な熱を有するなど、先主が心から翁に傾倒したのは獨り翁の豊富な蘊蓄に對するのみでなく、かうした諸點を常に心ゆくまで味つてゐたからである。日本醤油釀造會社の創立に付ても、先主は翁の道義的心事をよく理解し、即ち同會社創立の中心人物たる鈴木藤三郞氏は、實踐經濟の二宮宗の大遵奉者で、曩(さき)に自己發明による製法で日本製糖會社を起し、更に井上侯、益田男等の依囑に依つて臺灣(たいわん)製糖會社を創め、共に偉大な成功を遂げた經歴の持主で、技術的にも、經營的にも非凡の才能を有するその人が更に鉾を轉じて二ケ月間の短期釀造の特許を基礎に醤油會社を創立せんとするものであり、且つ井上侯も益田男も後援者であるといふのだから、誰とて信を置かない者はない。まして醤油の短期釀造といへば國家經濟の見地からしても、社會政策の上から見ても、雙手を擧げてこれに賛せざるを得なかつた。だから翁は遂に多大の勢援をこれに與へられるに至つたが不幸實驗的成績に比して工場化された以後の成績が芳しくなく、加ふるに尼崎工場は火災の爲烏有に歸し、遂に解散の已むなきに至つた。先主はその間に於ける岩下翁の苦衷に同情し燒跡敷地の賣却に就て東奔西走したばかりでなく、先主自身も無論株主であつた關係から「株主とて最初の趣旨に賛して參加した以上は、重役のみに責任を嫁するは男子として採るべき道であるまい」と熱心に株主間を説いて、逃避策に出でんとする者や、重役攻撃に猪突する者などを戒め、且つ燒け殘つた斬新精巧の機械を利用して新に製樽會社を創立し、自ら社長となつて翁その他重役諸氏の負擔を輕减することに努力したのであつて、今日から見ると胸の透くほど堂々たる道を進んだものである。

次は我が國電氣事業の先驅たる才賀電氣商會の破綻問題である。先主は同商會とは何等の關係も有つてゐなかつたのであるが、岩下翁が豫てから同商會に對しこれ亦相當の勢援を與へてゐたので、同商會の盛衰が翁に及ぼす影響の多大なのを知つてゐたばかりでなく、且つその問題が勃發したときは折も惡しく翁の外遊中であつたので、翁思ひの先主としては晏如たり得るものでなく、例の沸きたつ血潮は蹶然(けつぜん)起つて自ら救濟の先鋒となり、寢食を忘れて日夜東西に馳驅(ちく)し、その救濟の目的を以て電氣信託會社を創設して大きな襤褸(ぼろ)も出さず、幸にも財界の波動を招かずに救濟の目的が達せられたことは多とするに足るのである。

最後に北濱銀行の危機に直面して先主のその難に赴いた義擧であるが、この問題は時の財界を騷がせた大事件なだけにその間に處した先主の行動も餘りに多く世間に知れ渡つてゐるので、只簡單に前後の關係を略述することにする。あの問題の勃發した原因は、翁の狷介不羈(けんかいふき)の性が一部人士の不快を買ひ、何等か爲にせんとする策士の計畫された策動であるやに仄聞してゐるが、翁に對する某新聞の攻撃目標中、大軌に對する大膽な融資もその一ツであつたので、生駒隧道工事を通じて密接な關係にあつた先主としては、翁に對する任俠的意氣からばかりでなく、北銀と取引關係を有つ立場から、自己の強烈な責任感も手傳つて、曩(さき)の日本醤油や、才賀電氣商會の難に赴いたときとは比較にならないほどの眞劍さであつたのである。しかるに事志と反して形勢日々に惡しく、自己の財産全部を提供するは勿論、岩下翁傳に寄せた谷口房藏氏の述懷中にもある如く、北銀の整理に際し、先主は單に名義を貸したに過ぎなかつた北銀新株の拂込二十五萬圓の責任を决行してその任俠振りを發揮するなど、隨分幾多知名の士が救濟の陣を結成して熱心に籌謀(ちゅうぼう)努力されはしたが、先主のやうな眞劍味を帶びた人は恐らく他に多くあるまいとは、各名士間の定評であつたのである。幸ひ各同情者の盡力によつて曲りなりにも救濟の道が開かれたとは云へながら、先主は孤影悄然自己の築き上げた多年の牙城を去る翁の心事を察し、長大息して已まなかつたのである。ましてそれから須臾(しゅゆ)の後、更に大正四年二月翁の囹圄(れいぎょ)の身となられるに及んで、驚きと同情の餘りあぢきない世の無常に呆然自失たるばかり、その後日々怏々として樂しまなかつたが、越へて四月六日に至つて不幸病床に呻吟(しんぎん)する身となり、褥中翁の身上を顧慮して遂に翌年一月二十四日に長逝されたのである。勿論翁の奇禍が直接因をなしたのでないにしても、徐に前後の關係を靜觀するときは、先主の病氣が何かそこに脈絡のあるやうな氣がしてならない。

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